エクセル日本海軍 1891年5月~8月 英国トノ共闘ハ有リ得ナイ
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1891年5月から8月にかけての、日本海軍の財政状態に大きな変化は無いため、割愛する。
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日本海軍の火器管制・機関開発の分野での研究が遅々として進まない中、1891年5月に、フランス領タヒチでは現地住民の反乱が発生していた。
セレベス島の反乱鎮圧、治安維持で消耗していたフランス海軍は、タヒチに兵を送る資金・人材が不足しており、まともな支援を受けられていなかった、フランス領タヒチの警察機構は反乱の鎮圧ができず、苦戦を強いられていた。
タヒチはフランスの主勢力圏からは比較的離れた場所にあり、武器弾薬の補給が滞ってしまったのだった。
東南アジアに勢力圏を作り上げるために腐心していたフランスだったが、ここで、セレベス島の陰謀が裏目に出てしまう形となった。
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1891年、日露の関係が悪化傾向にある中、ロシアと緊張度が高まっていたのは日本だけではなかった。
1890年代初頭、イギリスはロシアと、アイスランドをめぐって対立を繰り広げていた。
イギリスは、ロシア帝国海軍の大西洋への進出を非常に警戒していたのだ。
仮にアイスランドにバルチック艦隊が拠点を構築して大西洋に展開し、「大西洋艦隊」を編成された場合、イギリス本土が艦砲射撃と通商破壊・海上封鎖の脅威に晒される危険性があった。
その為、イギリスはロシアによるアイスランドへの政治工作に神経をとがらせていた。
ロシア海軍バルチック艦隊の主力が未だに極東への進路を取っていなかったのは、このアイスランドをめぐるイギリスとの対立があった側面も拭えないだろう。
そのため、ロシア帝国海軍にとって最も危惧すべき状況は、日英が連携してロシアを攻撃することだった。
しかし、それは杞憂に終わることになる。
それは、複雑な外交の行程の結果、日英同盟の可能性は潰えることとなったからである。
1891年7月11日に、バルカン半島のティラーナで開かれた英独仏露の四か国会議が民族主義者に爆破され、イギリスの外務大臣ロバート・ガスコインが死亡、他の関係者にも死傷者が出た事件があった。
その時に、日本政府は関係各所へ弔辞を届けたのだが、その後の総理大臣のコメントが問題となった。
欧米列強は自らを進んだ国のように言うが、実際には愚かな国々の集まりだ。彼らはそろそろバルカン半島に手を出したら火傷をすることくらい気づくべきである。
これが欧米のメディアに取り上げられると、一気にヨーロッパ諸国の日本に対する国民感情は急降下し、それはイギリスでも同様であった。
更に、それに追い打ちをかけるように、8月にはロンドン警視庁が逮捕した、海軍の機密情報を持ちだしたスパイが、日本の「蝶の箱」と関係があったことが明らかになり、日英の関係は氷河期に突入した。
十勝級装甲巡を建造していたヴィッカース社の造船所の前には、反日派がデモを繰り広げ、警察と衝突する事態となり、幸いなことにイギリス政府が十勝級の接収という行動に出ることはなかったが、日英がロシアに対して共闘するというシナリオは、全く描けないものとなってしまったのだった。
これによって、日本はイギリスの援助の手を大々的に受けられなくなってしまったのだった。
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艦艇紹介
【装甲巡洋艦クロムボイ】
当時最新鋭のロシア帝国海軍の装甲巡。日本海軍の十勝級装甲巡は、このクロムボイ級に対して有利に砲戦を持ち込めることを意識されて造られている。主砲が7インチ砲片舷5門と、主砲火力が比較的高いことが特徴である。副砲の5インチ砲12門も、その連射能力は脅威だった。