エクセル日本海軍 1891年11月~1892年2月 日露開戦
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1891年11月2日。フランス共和国政府は、フランス領タヒチの独立を承認した。
現地の治安維持組織が反乱により壊滅状態となり、本国でもさほど重要視された拠点ではなかったため、増援を送るには釣り合わないと判断された、というのがタヒチ独立の背景になる。
しかし、その10年後に、フランスはタヒチに対し、独立の対価を求め、これが後にタヒチの財政を苦しめることとなる。
翌1892年1月には、ジャワ島で再度大規模な反乱が発生。不意を突かれる形となったフランスとオランダは鎮圧に手こずり、海峡を挟んだマレー連合州の盟主であるイギリスの介入を許し、ジャワ島をイギリスが実効支配した。1年と経たないうちに、フランスの陰謀はゲリラ戦と
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アイスランドをめぐって、イギリス海軍本国艦隊と、ロシア帝国海軍大西洋艦隊が睨み合う中、日本海軍は着実に砲撃精度と魚雷命中精度を高めていた。
1891年11月ごろには、日本海軍の砲撃精度は去年と比べて10パーセント以上上がっており、当時は砲手が各個の意志で射撃していたことを考えると、その練度は相当のものだと見ることができる。
ロシア帝国海軍も日本との戦争準備に奔走しており、1891年12月時点で、ウラジオストクには戦艦2隻、装甲巡洋艦3隻、防護巡洋艦4隻、コルベット4隻が展開していた。
しかし、依然として装甲巡の不足は否めず、それがロシア海軍の頭痛の種だった。
バルト海、黒海に居る装甲巡を全て搔き集めたところで、日本海軍の装甲巡群のほうが数と質ともに勝っていたのだから、なおのこと痛かっただろう。
この頃になると、列強各国は日露の開戦は時間の問題だと見ており、そして、ほとんどメディアがロシアの勝利を予想していた。
海軍戦力で見た両者の差は歴然であり、ロシア帝国海軍の戦艦群によって日本は海上封鎖され、戦う前に飢餓にあうというメディアもあった。
この当時に、東アジアの状況を正しく認識していたのは、欧米列強の海軍・資本家くらいだっただろう。前者は実戦データを得るために、後者はどちらの戦時国債を買うべきなのか、と。
彼らは、ロシアの戦力配備が遅れていること、日本海軍の装甲巡戦力がロシア帝国海軍より優れていること、特に、イギリス海軍は日本海軍の装甲巡の性能限界値などは起工した時から把握していた。
かくして、翌年、欧米市民の予想は的中した。
1891年3月8日、日本海軍とロシア帝国海軍は交戦状態に突入した。
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1891年11月から開戦直前の1892年2月の年間予算は、増加傾向にある。
これは先述の通り、日露関係の緊迫化により日本政府による戦時予算編成による。
この予算増額により、日本海軍の月収支は572の赤字から最終的に456の赤字に改善されている。
平時に比べて圧倒的に国民の負担は大きかったが、ロシアの脅威を理解していた(海軍のプロパガンダによって)国民の海軍に対する不信度が低かったのは、当時のメディアの論調からも把握することができる。
挿絵見にくくてすいません。