エクセル日本海軍   作:佐竹福太郎

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2024.5.8 日付を訂正


ロシア戦役
1892年3月26日 宗谷海峡海戦


 エクセル日本海軍 1892年3月26日 宗谷海峡海戦

 

 

***

 

 

 1892年3月26日、日本海で情報収集に当たっていた通報艦慶福丸は、日本海を北上するロシア帝国海軍の艦隊を確認した。

 

 

 敵艦隊の追跡を逃れるため、慶福丸は艦隊の詳細を確認することはできなかったが、数隻の戦艦と補助艦艇で編成された艦隊だということは分かっており、戦艦扶桑、富士で編成された第1戦隊と、最新鋭の装甲巡洋艦磐手、八雲、常盤で構成された第3戦隊らの聯合艦隊は、停泊していた新潟港を出港、第1戦隊司令の河井堅人海軍少将と、聯合艦隊の全権を握る因幡兎*1は、敵艦隊が北上していたという慶福丸の情報を元に、津軽海峡は沿岸警備が厳しいことから、警戒が手薄で、サハリンという拠点がある宗谷海峡を狙うだろうという予測の下、艦隊を宗谷海峡に急行させた。

 

 

 

 河井少将と兎の予想は当たり、日が暮れた3月26日19時40分、聯合艦隊は宗谷海峡を近辺を航行するロシア艦隊を捉えた。

 

 

 この時、宗谷海峡を突破しようとしていたロシア艦隊は、バルチック艦隊から派遣された、バルチック艦隊太平洋分遣艦隊のパーベンツ級戦艦の戦艦パーベンツ、戦艦レトビザンを主力としたウラジオストク艦隊だった。

 

 

 この戦艦は、衝角戦法の下で建造された戦艦で、主砲の3分の2が前方に集中していたが、それでも、片舷に12インチ砲を4門、6インチ砲を3門、2インチ砲5門を指向可能であり、排水量12,000トンの巨艦だった。速力は15ノットであり、高速とは言えないものの、扶桑級戦艦と同等の機動力と、圧倒的な火力を備えた艦艇だった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

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 単縦陣を組んで航行していた聯合艦隊は、旗艦扶桑の正面にウラジオ艦隊を視認すると北に回頭し、両艦隊は即座に砲撃戦に移行した。

 

 

 ウラジオ艦隊も、不明艦が日本海軍だと認めると、同じく北に回頭し、砲撃を開始した。

 

 

 この時、急激な艦隊運動でウラジオ艦隊の装甲巡ラトニクが聯合艦隊の前に出てしまい、集中砲火を浴びた。

 

 

 数発被弾したラトニクは、堪らず20時01分に東に回頭して砲火から逃れようとするも、第1戦隊の後ろを詰めていた第3戦隊の砲火を浴びて、完全に主戦場から撤退した。

 

 

 しかし、この間に旗艦として先陣を切っていた扶桑も太平洋分遣艦隊の砲火を一身に浴びて、機関部を含む喫水線部に6インチ以上の砲弾を被弾していた。

 

 

 聯合艦隊は、接近してきた防護巡洋艦を追い払いながら、ウラジオ艦隊と夜間砲戦を続けていた。

 

 

 20時47分、サハリン沿岸部に追い込まれてしまったウラジオ艦隊は、座礁を避けるためにサハリンに沿って航行するしかなく、第3戦隊の援護を受けた第1戦隊と砲戦せざるを得なくなったしまっていたが、旗艦扶桑も第2主砲塔が被弾の衝撃で故障していた。

 

 

 20時54分には扶桑の舵機が砲撃で破壊され、扶桑は戦列から脱落した。

 

 

 後続の戦艦富士は、扶桑の戦闘続行が困難だと判断すると、磐手に「ワレニツヅケ」と発光信号を送り、旗艦は富士に交代した。

 

 

 この時には彼我の距離は1000ヤードであり、接近戦が繰り広げられていた。

 

 

 21時38分に、10ノットにまで船足の落ちた戦艦レトビザンを守るために、艦隊側方に展開した防護巡グリデンが第3戦隊の集中砲火を浴びて炎上、その場から離脱した。

 

 

 22時08分、敵戦艦を見失った聯合艦隊は180度回頭し、再度、敵戦艦の追跡に入った。

 

 

 22時41分、再びウラジオ艦隊を捕捉した聯合艦隊は、距離約3,000ヤードで砲撃を開始した。

 

 

 戦艦レトビザンは、旗艦として多数の砲弾を被弾したことにより、煙突等の上部構造物を破損。機関の排気に支障が出ており、また、1時間以上の戦闘で給炭速度にも限界が出ており、速力を落とさざるを得なかった。

 

 

 そのため、14ノットで航行していた聯合艦隊は、すぐに彼らに追い付くことができた。

 

 

 22時46分には、艦隊から落伍していた戦艦扶桑がウラジオ艦隊を突破して第1戦隊に再合流した。

 

 

 22時57分、装甲巡を隊列に加えたウラジオ艦隊は、単縦陣を組んで聯合艦隊との砲撃戦を再開したが、安全基準を無視した過酷な砲術訓練を受けた第1戦隊の砲手たちは闇夜でも狙いを外さず、旗艦レトビザンは10発以上被弾した。

 

 

 23時46分、東に回頭し、聯合艦隊の砲撃から逃れようとするウラジオ艦隊の旗艦レトビザンは、第2主砲塔の弾薬庫に被弾、弾薬が誘爆し、爆沈した。

 

 

 一瞬の出来事だった。

 

 

 排水量12,000トンの巨艦は、炎を上げながらサハリン沖で没した。

 

 

 3月27日00時08分、孤立した味方戦艦パーベンツから聯合艦隊を引き剝がすため、装甲巡ボガティールが聯合艦隊に突撃、虚を突かれた聯合艦隊の隊列は乱れた。

 

 

 00時20分には再度合流を果たしたが、扶桑、富士ともに数時間の戦闘での損傷が蓄積していた。

 

 

 00時38分、急接近してきたパーベンツへの回避機動で隊列の乱れた聯合艦隊は即座に立て直し、闇夜に消えたパーベンツを追撃するために、サハリン方面に足を進めた。

 

 

 00時43分には再びパーベンツを捕捉、砲撃を開始した。聯合艦隊を認めたパーベンツは西に回頭し、聯合艦隊を迎え撃った。 

 

 

 その後、パーベンツを撃沈するために追撃を続けた聯合艦隊だったが、扶桑の損害が無視をできないレベルになり、戦隊から離脱、修理のため稚内への帰投ルートに入った。

 

 

 03時57分には富士の第1主砲塔が故障、乗組員に多数の死傷者が出ていたことから、04時40分に聯合艦隊はパーベンツの追撃を断念。

 

 

 稚内へ帰投した。

 

 

 ここに、宗谷海峡海戦は終結を迎えた。

 

 

***

 

 

 この海戦で、戦艦扶桑が中破、それ以外の参加艦艇は小破の損害を受けた。ウラジオ艦隊は防護巡2隻がそれぞれ中破、大破したが、撃沈された戦艦レトビザンを除いて損害は軽微だった。

 

 

 ただ、貴重な戦艦1隻を失い、宗谷海峡の突破も達成できなかったことから、海戦はロシア側の戦術的敗北だった。

 

 

 ただ、戦艦扶桑、富士ともに修理に3か月かかることになり、日本海軍の行動を一定期間制限することになったのも事実だった。

 

 

***

 

 

 1892年3月29日、海軍軍令部から陸軍参謀本部に作戦要請が行われた。

 

 

 サハリンへの上陸作戦、並びに、サハリンの占領だった。

*1:
海軍の将校名簿に記録はあるものの、何者かは不明。

ただ、80年以上海軍に在籍しているため、複数人での引継ぎ体制で、

皇族軍人が使う隠れ蓑だったのではという説もある

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