エクセル日本海軍 1892年5月11日 樺太沖海戦
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1892年5月12日3時16分、杉浦湖南海軍少将に率いられた第2戦隊は、樺太沖にて威力偵察に出ていた。
当時の日本海軍の主力は、戦艦扶桑、戦艦富士からなる第1戦隊と、装甲巡浅間、装甲巡出雲の第2戦隊、装甲巡磐手、装甲巡八雲、装甲巡常盤の第3戦隊の、3つの部隊で構成されていた。
先月の宗谷海峡海戦により、第1戦隊と第3戦隊は整備中であり、この任務に就ける部隊は第2戦隊のみだった。
それ以外には、通商護衛を行っている防護巡和泉、浪速や砲艦のみであり、威力偵察を行うには戦力不足であった。
そのような事情から、第2戦隊は樺太の東約200キロメートルの沖合を航行していた。
5月12日4時11分、第2戦隊は12ノットで巡航中に、南西およそ10,000ヤードの地点に2隻の巡洋艦らしき艦影を認めた。どちらが発見したかは定かではないが、兎も角第2戦隊はその2隻がロシア海軍艦艇と推測しした。これは、夜が明けて明るくなり、視程が伸びたことによる影響が大きい。
第2戦隊を構成していた装甲巡浅間、出雲は共に姉妹艦であり、イギリスに発注されて建造された。この姉妹は、当時としては高速な21ノットの船足を持っていた。これは日本海軍・イギリスの造船所が意図したものではなく、偶然、浅間級が設計を上回る速力を備えていただけだった。偶然でも速力21ノットの高速装甲巡を建造する、世界最高の技術を持つ帝国の工業力は伊達ではなかった。
第2戦隊は不明艦らの正体を掴むために21ノットに急加速し、即座にそれらがロシア帝国海軍の巡洋艦だと判断した。
4時20分、艦種は分かっていなかったものの、杉浦少将は2隻が敵艦と判断、砲撃を開始。2隻のロシア海軍艦も応戦した。
ここに、サハリン沖海戦の火蓋が切って落とされた。
敵艦艇は、最新鋭のクロムボイ級装甲巡のラトニク、パラダ級防護巡のフローラだった。
彼女らは、サハリンの警備のために哨戒任務の途中だった。
クロムボイ級は、十勝級装甲巡に多大な影響を与えた艦艇である。樺太をめぐる日露の対立で、日本海軍が目下の優先対策事項としたのが、このクロムボイ級だった。
排水量7400トン、最大速力20ノット、主砲7インチ砲6門、5インチ砲12門、ベルト装甲4インチ、デッキ装甲1.5インチのこの重武装艦は、装甲巡を主力に据える日本海軍の最大の対抗馬であった。
しかし、彼女は不運だった。
まず、護衛のフローラは、6インチ砲10門を備えた大型防護巡であったにも関わらず、彼女を積極的に援護してくれなかったこと。
そして、相手が2隻の熟練の高速装甲巡であったことである。
優秀な性能を持つ彼女だったが、就役して即座にウラジオストクに派遣されたため彼女の姉であるクロムボイはまだウラジオストクに到着しておらず、故に彼女は戦隊を組めず、組織的な運用ができていなかった。
その反面、浅間と出雲は2隻という小規模な艦隊といえど、連携して1つの目標を狙うことができた。
戦いの勝敗は、始まる前から5割ほど決まっていた。
それでも、彼女の優秀な性能が失われたわけではなく、最初に被弾したのは浅間だった。
夜が完全に明けた4時57分、ラトニクは2発の砲弾を立て続けに被弾した。両者は既に2,000ヤード近くまで接近していた。
クロムボイ級も負けじと撃ち返し、浅間は砲塔とケースメイトに被弾した。
しかし、その後は第2戦隊による蹂躙が始まった。5時47・8分にラトニクはこの短時間に7発以上被弾。2隻からの集中砲火で速力の落ちていたクロムボイ級は急速に戦闘能力を失っていった。
ラトニクの速力は10ノットまで低下し、誰の目にも勝者がどちらかは明らかだった。
6時10分にはラトニクの窮地を救うためにフローラが第2戦隊に接近するも、浅間と出雲の集中砲火で3発以上の砲弾を連続で受け、後退せざるを得なかった。
7時26分、まともな反撃もできないまま逃走を図っていたラトニクは炎上、艦のまともな制御ができなくなり、速力は5ノットまで低下、機関は度重なる被弾でその機能の殆どを喪失していた。
7時30分にはラトニクは完全に停止し、戦闘能力と航行能力を完全に粉砕され、もはや軍艦ではなく海に浮かぶ鉄塊となっていた。
その後、生き残ったフローラを追跡した第2戦隊だったが、12時12分にフローラを見失い、サハリン沖海戦は終了した。
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この戦いで、装甲巡浅間、出雲ともに小破の被害にとどまり、ロシア帝国海軍はパラダ級防護巡1隻が小破し、最新の装甲巡洋艦1隻を失った。
日本海軍の一方的な勝利だった。この戦いで、ロシア帝国海軍は己の巡洋艦戦力不足を痛感したが、その糧は今戦争中に間に合わないことは明白だった。
この先、ロシア海軍は大量の戦艦という得意のカードを封じられたまま、少ない巡洋艦で日本海軍の第2・第3戦隊に立ち向かっていかなけらばならなかった。