エクセル日本海軍 1892年7月~9月 奇妙な戦争
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5月26日の蔚山沖海戦以降、日露両艦隊は、特に、ウラジオ艦隊の主要艦艇の修理といったことから、1か月近く接敵しなかった。
それどころか、日本海軍とロシア海軍は、9月になるまでの3か月間、主力がぶつかり合うことがなかった。戦争をしているのに、まともな海戦が発生しない。日本海軍はしばらくの間、奇妙な戦争を体験した。
それでも、1か月後の6月26日に、通商護衛中だった防護巡洋艦浪速が不明艦と接触している。しかし、悪天候による視界不良などの要因で捕捉できなかった。
この時期から、巡洋艦戦力で劣勢となったウラジオ艦隊は、戦略を艦隊戦から通商破壊戦に移行しており、第2戦隊と第3戦隊もウラジオ艦隊の相次ぐ撤退であまり戦闘をしていなかった。
1892年7月18日、陸軍第2師団を乗せた輸送船団が宇品港を出港。輸送船団は、陸軍船舶司令部が民間から徴用された輸送船8隻で編成された。
第1戦隊と第2戦隊で構成された聯合艦隊は、護衛と上陸支援のために輸送船団に同行しており、ロシア側もサハリン防衛のために主力部隊を派遣することは十分予測でき、激しい戦闘となることが予想された。
しかし、実際に上陸の障害となったのはサハリンの沿岸砲台のみであり、拍子抜けも良いところであった。
沿岸砲台との砲撃戦で、戦艦扶桑、富士が小破し、装甲巡洋艦浅間が小破したが、結果的に聯合艦隊は8隻に乗った第2師団を無事に送り届けた。
別に、ウラジオ艦隊も手をこまねいて見ていたわけではなく、7月にウラジオストクに到着したばかりだった戦艦ガングートと、防護巡洋艦3隻で編成された部隊が向かっていたが、日本軍のサハリン攻略の時期を見誤り、輸送船団がサハリンに到着した時にようやく、ウラジオストクを出港していた。
兎も角、大規模な艦隊戦が発生すると予測されていたサハリン上陸作戦は、まともな戦闘も発生しないまま成功してしまったのだった。
余談だが、この月に、海軍工廠はようやくYS-Tエンジンの国産化に成功している。
その後も、日本海軍は幾度かロシア海軍艦と会敵したが、ロシア側が撤退するか、互いに会敵できない状態が続いた。
しかし、サハリン攻略戦には大きく進展があった。
サハリン攻略のために派遣された第2師団は8月のロシア陸軍の攻勢を僅かな損失で防ぎ切り、逆に敵に甚大な損害を与えた。
サハリンにおけるロシアの軍事力は著しく低下し、サハリンにおける戦いは日本陸軍が主導権を握った。
また、ウラジオストクに派遣されていた、バルチック艦隊第2太平洋分遣艦隊所属の防護巡洋艦ヴェスタが、機関の不調により航行が困難となった。結果、8月12日、ヴェスタはフランス領インドシナのカムランに入港、航行不能となって放棄されるよりは良いということで、終戦まで抑留、フランスの管理下に置かれることになった。
ある意味戦争から離脱できた彼女は、日露戦争に参加した艦艇の中で最も幸運だったかもしれない。
極東の島国との戦いで、思わぬ出血を強いられてしまったロシア帝国と、博打を打ってる自覚のあった日本は、8月25日から和平交渉を開始していたが、1回目の交渉は互いに妥協点が見つけられず解散となった。
しかし、ロシア側は後に、その時点で和平を結ばなかったことを後悔することとなる。
1892年9月14日、ウラジオ艦隊と聯合艦隊は、再度宗谷海峡で衝突する。
第2次宗谷海峡海戦の始まりだった。
こういう上手くいかなかった時期とかを自分でちゃんと定義付けないと、私の場合は自己嫌悪に至ってストレス貯まるので、出来事や時期の名付け振り返りはやるようにしています。
皆さんも落ち込んだ時は、そういう出来事を物語化しても良いかも……、まぁ、私の場合ですが。