エクセル日本海軍 1892年9月14日 第2次宗谷海峡海戦
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1892年9月14日4時、「蝶の箱」からのウラジオ艦隊出撃の緊急報告を受けた聯合艦隊は、第1戦隊の戦艦扶桑、戦艦富士、第2戦隊の装甲巡洋艦浅間、装甲巡出雲、第3戦隊の装甲巡八雲を編成して舞鶴を出撃した。
ウラジオ艦隊の目標が、樺太で防衛線を敷くロシア帝国陸軍の救援、引いては日本陸軍第2師団の本隊・補給線への攻撃であることを察知していた聯合艦隊は、深夜の寝る間も惜しんで見張りの目も光らせていた。
日本海軍の目的は、樺太の占領による宗谷海峡の完全封鎖、日本海を明治天皇のバスタブにすることであり、それは最終的にはウラジオストクの孤立化であった。
哨戒任務中であった八雲は、先んじて宗谷海峡に急行し、警戒に当たっていた。
夜が明けた6時4分ごろ、聯合艦隊は北東22,000ヤードに八雲を、そして南西に、それに平行するロシア艦艇を視認した。
それは、戦艦チェザレビッチ、ニコライ1世、ガングート、装甲巡クロムボイ、防護巡ノヴィークからなる、ウラジオ艦隊の主力だった。
八雲は囮となって、聯合艦隊の到着までウラジオ艦隊を引き付けていたのだった。
敵艦隊の主力は、パーヴェル1世級戦艦であるチェザレビッチ、ニコライ1世の2隻、アレクサンドル1世級戦艦のガングート1隻。ウラジオストクに配備された総戦力、パーヴェル1世級は、12インチ砲2門を前方に集中配置した衝角艦、アレクサンドル1世級であるガングートはは1891年4月に完成したばかりの最新鋭艦であった。
南東に変針した聯合艦隊は、敵戦艦部隊に接近を開始した。
6時29分、ウラジオストク艦隊は扶桑を射程に収めると砲戦を開始、第2次宗谷海峡海戦の火蓋が切って落とされた。
6時48分に、ウラジオ艦隊の旗艦のチェザレビッチが初弾を被弾。1年間の訓練と半年の戦争が、日本海軍の砲手たちの練度を押し上げていた。
その後もウラジオ艦隊は立て続けに被弾、日本艦の最初の被弾は、6時53分の後続の装甲巡浅間第1砲塔の被弾だった。
しかし、それで聯合艦隊の命中精度が落ちるわけがなく、旗艦チェザレビッチは集中砲火を受けて何発も被弾し、損傷が蓄積していった。
7時10分には旗艦の速力低下で艦列が乱れ、戦闘開始から1時間も経たないうちに、ウラジオ艦隊の組織的な抵抗力は大きく低下傾向を辿っていた。
しかし、7時35分にウラジオ艦隊に不用意に近づき過ぎたことで、第2戦隊の被弾が目立つようになり、第1戦隊は一度北東に回頭したが、第2戦隊は戦闘により信号の確認が遅れ、その間に出雲が数発の砲弾を被弾した。
7時48分に回頭を終えて、再度ウラジオ艦隊の横についた第1戦隊は、ウラジオ艦隊に榴弾の雨を降らせた。
この頃には、ウラジオ艦隊の戦艦群は被弾による速力低下や、練度の低さも相まって、艦隊と呼ぶには余りにも稚拙な艦隊行動しかできていなかった。
8時頃には後続のニコライ1世で火災が発生、ウラジオ艦隊の損害は、聯合艦隊からもはっきり見えるほどに酷くなっていった
ニコライ1世は、火災と被弾により速力が低下し、8時20分頃には戦列を離れることを余儀なくされる。
聯合艦隊は戦列を離れるニコライ1世に狙いを変更、すぐさま北東に変針し、追撃に移った
聯合艦隊の作戦目標は戦艦1隻の撃沈であり、それが達成できれば問題ないと考えていたことが、この行動を起こさせたという。
しかし、聯合艦隊が砲撃をするまでもなく、ニコライ1世は8時39分に沈黙、戦闘能力および航行能力を喪失、沈没した。
生き残った2隻の敵戦艦を撃沈するため、聯合艦隊は西に輪を描くように回頭し、ウラジオ艦隊に向けて針路を取り直した。
両艦隊は再度砲戦を開始し、海戦は後半戦に移った。
数ノットの速度差しかなかったことから、ウラジオ艦隊と並行するのに聯合艦隊は時間を要するように思われたが、速度の落ちたチェザレビッチが、次第に第1戦隊の有効射程に入りつつあった。
僚艦の危機を悟ったガングートは、9時35分に西に回頭、両艦隊は本格的な近距離砲戦にシフトした。
しかし、第2戦隊のキルゾーンに入ってしまったチェザレビッチは、大量の6インチ砲弾の洗礼を受けることとなる。
そのまま両艦隊は西に針路を取りながら、熾烈な海上砲戦を繰り広げた。
11時10分、膠着状態を見せていた両者の砲戦が動く。
聯合艦隊は、東に回頭、艦列から遅れていたチェザレビッチに照準を合わせた。
第1戦隊はチェザレビッチに横付けするように艦列を展開、彼女に集中砲火を浴びせた。
その畏怖は凄まじかったようで、チェザレビッチは戦列を無視して北に変針、潰走を始めた。
この時、第1戦隊と第2戦隊に損傷らしい損傷はなく、富士に至っては無傷だった。
チェザレビッチは聯合艦隊に追い立てられ、まともな反撃もできないまま一方的に砲撃を受けた。
それはもはや、虐殺だった。
12時4分には、チェザレビッチの艦内で火災が発生、復旧は絶望的となった。
この戦争でロシア海軍に対して最も残酷な事実は、日本海軍が救助活動を一切行わなかったことであった。
正確には、救助活動を行える補助艦艇がおらず、日本海軍は海戦が終わるとそのまま沈むロシア艦艇を放置して母港に帰投してしまうのだった。
次第にチェザレビッチの機関の火が消えゆく中、聯合艦隊は砲撃を続けた。
13時40分、チェザレビッチは機関が停止、航行能力を喪失した。
その後、ガングートの追撃は不可能と判断した聯合艦隊は、そのまま稚内に帰投。
こうして、第2次宗谷海峡海戦は聯合艦隊の勝利に終わった。
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この戦闘で、日本海軍は扶桑が小破、装甲巡浅間、出雲が1隻ずつ小破、中破した。
ウラジオ艦隊の損害は甚大で、巡洋艦戦力に被害はなかったものの、戦艦チェザレビッチとニコライ1世の2隻が撃沈され、生き残った戦艦ガングートも大破、ウラジオ艦隊の主戦力は壊滅状態になってしまった。
互角以上の戦力を用意した筈のロシア海軍は、少数の日本海軍に一方的に叩きのめされた結果となった。
もはや、極東方面のロシア帝国海軍に、海上攻勢をかける余力は残されていなかった。