エクセル日本海軍 1890年2月
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1890年2月、3隻の装甲巡の建造予定は、早くも変更を余儀なくされた。ヴィッカース社の資材調達に支障が生じ、2月の2番艦磐手の建造は一向に進むことがなかった。
建造自体は行われなかった為、ヴィッカース社は1890年2月分の料金の一部を日本海軍に返金した。2月の工事は問題なく行われた1番艦常盤の建造はこの後何度も遅延し、1番艦であるにも関わらず(実はよくあることだが)、彼女の就役は1891年になっている。皮肉なことに、建造で問題があまり発生しなかった3番艦八雲の就役が、常盤級の中で最も早かった。
このことにより、日本海軍の資金は逆に増したが、料金の支払いが先送りされただけであり、実質、働いていないヴィッカース社の従業員に人件費を余計に支払っていることと同義であった。
ただ、この状態で事態が進行したとしても、日本海軍が借金をすることはない、という計算になる為、磐手の建造遅延は日本海軍の懐に再起不能なダメージを与えるには至らなかった。1890年2月の日本海軍の月収支は、224の赤字。資金は3924となるので、予定通りにことが運べば、常盤が就役する1890年11月には、日本海軍の手元には1908の資金が残ることとなるのだ。
余談だが、この後度重なる建造遅延を繰り返す常盤に対して、当時、防護巡洋艦「浪速」の艦長を務めていた久保木樽吉海軍中佐は、日記にこう書き残している。
我儘な子どもになってしまうだろうから、常と盤は、子の名前に絶対に入れたくないものだ。
なお、彼の子息の名前は
1890年2月の海軍予算は、経済成長の影響で700予算が増額されている。これにより、2月の赤字緩和に若干の好転をもたらすこととなった。ただ、国民は政府の重税や、それの使途が海軍予算に向けられていることに好印象は持っておらず、当時のメディアの論調でも、イギリスに大型艦を3隻発注している海軍に侮蔑の言葉が見られる。当時の日本海軍の軍備拡大は、水兵の雇用増加以外に、何の経済的利益をもたらすことは無かったからだ。
そういう意味では、「声の箱」の造船所拡大整備は、そのような問題を解消する布石とも言えた。海外に艦艇を発注することは、外国に艦を接収されるリスクと隣り合わせでもあった為、海軍としても、経済的利益の創出と安全保障の観点から、ドック拡張事業は生命線だった。
1890年2月の世界情勢に、そこまで大きな動きはなかったが、その水面下では火種がくすぶっていた。
オランダ領東インドのスラウェシ島(当時の名前はセレベス島)にて、植民地政庁と現地住民の間で緊張が高まり始めていた。現地住民の経済的困窮や、治安組織との小規模な衝突が、それを累積させていた。これが、後にオランダ植民地の崩壊の引き金となることは、まだ誰も予想していなかった。
この火種の火の粉が、日本海軍に降りかかるとは、誰も予想することはできなかっただろう。
【艦艇紹介】
防護巡洋艦浪速