エクセル日本海軍   作:佐竹福太郎

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 ようやく! ようやく終わった! 色々と納得できない出来ですが、多分これが限界なんだと思います……


1892年11月22日~1893年4月19日 終戦までの道程

 エクセル日本海軍 1892年11月22日~1892年4月19日 終戦までの道程

 

***

 

 ウラジオストクへの沿岸襲撃は、ロシア本国へショックを与えるには十分な内容だった。戦力的には優位に立っている筈のロシアは、日本以上に損害を被っていたのだ。

 

 特に、皇帝は戦艦3隻を失ったことや、その他主力艦艇を喪失していたことに対して神経をすり減らしていたのが、当時の侍従の証言で分かっている。

 

 ウラジオ艦隊はただちに攻勢を命じられた。

 

 1892年11月22日に、第3戦隊はウラジオストクを出撃した敵巡洋艦部隊の対応のため、対馬海峡にまで急行し、釜山沖海戦が発生した。

 

 7時頃には会敵し、両艦隊は砲撃戦に移行したが、結局、足の早い防護巡フローラ、ボヤーリン、リンダで編成されたロシア高速防護巡部隊に僅かな損害しか与えられずに撤退され、日本海軍は敵艦隊の対馬海峡突破は防いだものの、ウラジオ艦隊の豊富な防護巡洋艦部隊を撃滅するには低い聯合艦隊の機動力の限界を露呈していた。

 

 しかし、これで、ウラジオ艦隊の巡洋艦部隊が日本海の外へ出るのは困難であると証明されてしまった。

 

 ただし、日本海軍も、バルチック艦隊の増援の戦艦3隻がウラジオ艦隊に合流したことにより、樺太周辺の制海権を失い、苦しい状況に置かれた。

 

 日本海軍は、海戦における敗北こそなかったものの、ウラジオ艦隊の通商破壊や圧倒的な戦艦戦力を突き崩すことができなかった。ロシア帝国海軍も、樺太や本土への上陸作戦を行えば、精鋭の聯合艦隊の激烈な迎撃に遭って多大な損失を出すのではないかという恐れから積極的な攻撃もかけられず、必然的に日本海軍に対して戦術的勝利を掴むこともできず、互いに日本海を間にして睨み合うこととなり、戦争は膠着状態に陥った。

 

 11月24日に、通商破壊任務に就いていたロシア帝国海軍の防護巡アヴローラが、燃料不足から上海にて抑留されるという事件はあったが、ウラジオ艦隊の通商破壊に大きな影響を与えることもなかった。

 

 ウラジオ艦隊の通商路への攻撃を防ぐために、砲艦や防護巡で構成された護衛群も何度か輸送船への攻撃を阻止していたが、それでも、11月は6隻の民間商船が撃沈された。

 

 12月13日には対馬海峡海戦が勃発、第2戦隊は浅間級の21ノットの船速を生かしてリンダを撃沈したが、それでも、ウラジオ艦隊の5隻以上の防護巡が健在だった。

 

 12月19日に、アメリカのシアトルで和平交渉が行われた。ロシア側が白紙和平を提案したものの、日本側は賠償金とカムチャッカ半島の割譲を要求した。ロシア側には到底受け入れ難い内容であったため、停戦協定の締結を再度見送られることとなった。

 

 日露は互いに勝てない戦争を惰性で続けていた。

 

 ウラジオ艦隊は主力艦を温存し、防護巡による通商破壊を行ったが、5隻の撃沈に留まった。

 

 シアトルでの両者の和平交渉は結局、年内で実を結ばず、12月24日に交渉は打ち切りとなった。

 

 それに呼応するかのように、1893年1月6日、第2次ウラジオストク沖海戦が勃発した。

 

 不意を突かれたウラジオ艦隊は装甲巡クロムボイからなる艦隊を緊急出動させたが、襲撃をかけて来た第2戦隊の返り討ちにあって大破、物資集積所が再度破壊された。

 

 戦争は、沿岸襲撃を仕掛ける聯合艦隊と、通商破壊を行うウラジオ艦隊という様相となった。

 

 1月は日本側の損害も酷く、10隻の民間商船が撃沈され、聯合艦隊の通商護衛能力は飽和状態に陥っていた。

 

 3月6日には第3次ウラジオ沖海戦が発生、もっとも、ウラジオ艦隊は聯合艦隊の沿岸襲撃を察知しておらず、第3戦隊の一方的な蹂躙となった。

 

 この際述べておくべきなのは、この戦いで砲艦キエフが撃沈されたことである。

 

 日露戦争開戦の契機となってしまったこの艦は、3月6日21時50分、闇夜の中で第3戦隊と不意遭遇して集中砲火を浴び、23時10分に沈没した。

 

 

***

 

 一向に終わる気配の無い戦争を見て、3月9日に政府から「声の箱」へ、予算増額の必要があるかを聞いていた。

 

 日本近海で多数の商船がロシア帝国海軍に沈められていたことから、当時の世論は早期終戦に傾きつつあった。

 

 結果的に、「声の箱」が軍民の予算のバランスを維持するようにと回答したことから、海軍予算のさらなる増額はなかったものの、日本政府が国内の状況を危険視していたことが窺える。

 

***

 

 1893年4月15日、日本とロシアはアメリカの仲介で、ポーツマスで和平交渉を行った。

 

 日本側はカムチャッカ半島の割譲を諦め、賠償金の支払いのみを要求した。1年と2ヶ月の戦争で、日本の国家財政は火の車であり、戦争遂行は難しかった。

 

 それに対して、ロシア側は比較的財政には余裕があったが、相次ぐ海軍の失態で国民の戦争に対する目は冷たく、これ以上の艦艇の損失は海軍戦略に致命的な影響が出るのは明白だった。特に、装甲巡洋艦は壊滅状態であり、他のヨーロッパ列強と戦争になった場合、いずれの国とも敗北しかねない状態だった。

 

 結局、日本側の要求した賠償金の80パーセントの賠償金をロシアが支払うことで合意に至り、4月19日、日露はアメリカの仲介のもと、ポーツマス条約に調印した。

 

 1893年4月19日、日露戦争は日本の勝利で終わった。

 

 

【挿絵表示】

 

 




 後半のグダグダさが、私をとても泣かせました。
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