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エクセル日本海軍 ロシア戦役会計記録
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本稿では1892年3月から1893年4月までの日本海軍の会計記録を説明していく。
こちらが、1892年3月から1893年4月、つまり、ロシア戦役中の日本海軍の財政状況を表にまとめたものである。
「声の箱」は、戦争指揮にあたることがあったのは、最近の研究によって確認済みではあるが、彼らの本来の領分は海軍行政であった。
軍令権と行政権の両方の長であるということが、この組織を
このように見ると、唯一例外として、1892年7月から8月の樺太における帝国陸軍の攻勢の時期を除いて海軍予算は増加傾向にあることがよく分かる。この時期は、陸軍第2師団に対する物資・武器弾薬の輸送に莫大な予算が割り振られており、樺太の占領は帝国海軍の戦略目標の1つでもあったため、海軍は予算を融通していた。
そして、1892年3月から6月、8月と10月以外は月収支は黒字であり、戦争中盤から終盤にかけて、海上交通網の状況に反して、皮肉なことにも財務状況は良好だったようだ。
1892年6月に海軍の造船所拡大事業がストップしていることが、建造費の項目の急激な低下が示している。
当時の記録によれば、度重なる海戦によって発生した修理艦艇によってドックを占有されたことや、修理費用の莫大さから拡大事業の再開は1893年1月まで延期されたという。
これは、戦争による経済へのダメージを考慮してのコストカットの一環だったという。
艦艇維持費は全体的に増加傾向にあり、これは、十勝級装甲巡洋艦3隻の就役によるもので、海戦による修理費用が根本的な原因ではない。
修理費用に関係する維持費増加は、1892年3月26日の第1次宗谷海峡海戦と同年5月12日の樺太沖海戦による修理費用の増加が目立つ。この時期は、ウラジオ艦隊と聯合艦隊が活発に交戦していた時期であり、その分激戦であったことを物語っている。
1892年12月から翌年1月にかけての建造費の急激な低下は、十勝級装甲巡洋艦の就役完了によるもので、八島級戦艦の設計構想の開始が戦争による事務過多で遅れたことにより、1893年1月から2月にかけて艦艇建造の空白期間が生まれている。
2月から3月にかけては、戦艦八島と敷島の八島級戦艦2隻の発注により建造費用はまた急上昇している。
総じて、財務の危機というものは戦争の序盤のみであり、それ以降は小康状態が続いている。
少なくとも、戦役中に海軍が負債を抱えるという最悪の状況は免れている。