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1893年4月~6月 戦艦播磨
エクセル日本海軍 1893年4月~6月 戦艦播磨
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終戦を迎えた日本海軍は、全艦艇が予備役に入り、砲術訓練と水雷訓練も停止措置が取られ、戦時招集された水兵たちは故郷に帰ることが許された。
大国ロシアに打ち勝ったという事実は当時の列強諸国の市民を驚かせ、帰郷した兵士たちは英雄としてもてはやされた。
ただ、戦争が終わったからといって海軍行政に区切りがついたわけではなく、次に起こり得る戦役のために、「声の箱」は再び準備を始めなければならなかった。
ロシア戦役にて帝国海軍が肌身で感じた危機は、戦艦、ひいては装甲艦の不足だった。
当時の帝国海軍の主力戦艦は、扶桑級戦艦、装甲艦であり、“元帥”の思い描いていた機動戦をするには性能不足だった。
そのため、帝国海軍はイギリスに高速の八島級戦艦の八島、敷島の2隻を発注し、戦艦不足を補おうとした。
そこで、下の図を見てもらいたい。
これは、1893年6月時点での9か国の保有艦艇と建造中の艦艇の数値を示したものである。
本来、帝国海軍の仮想敵はウラジオ艦隊ではなく、極東の北洋艦隊であった。
当時の戦力評価では、帝国海軍の戦艦戦力は北洋艦隊に質と量ともに劣っていた。
帝国海軍が保有するのは2隻の小型装甲艦のみであり、それに対して北洋艦隊は2隻の大型装甲艦、3隻の戦艦を保有していた。
帝国海軍が戦時中に八島級を発注したのは、ロシア戦役で装甲艦不足によって制海権の不安定化という“危機”が目前に迫っていたということもあるが、何より、将来衝突する可能性の高い北洋艦隊に、数の面だけでも対等になるべきという考えがあったからに他ならない。
そして、結果的に見れば、八島級の発注によって帝国海軍は量だけではなく質ともに対等になり得る布石を打ったことになった。
八島級戦艦は、
当時の戦艦の主砲の命中率は極めて低く、両舷に備え付けられたケースメイト砲が実質的に主砲であったことを踏まえると、八島級戦艦は東洋最強の戦艦であった。
戦艦八島
戦艦迪化
最も特筆すべきことは、八島級戦艦は迪化級戦艦とほぼ同等の性能を持ち、それ以外の戦艦龍威や戦艦平遠を陳腐化させることができる価値を持っていたことである。
戦艦八島
戦艦龍威
戦艦平遠
ハーヴェイ鋼を使用した装甲は旧来の戦艦を超える防御力を有し(艦首・艦尾装甲2インチという欠陥に目をつむればだが)、新型の貫徹力の向上した9インチ主砲、多数の6インチ速射砲の大火力、17ノットという一線を画す(当時基準)機動性。
ただ、最高速力17ノットという数値は、結局のところ扶桑級装甲艦の最高速力が15ノットであったため、扶桑級が退役しない限りその性能が十全に発揮されることはほぼなかったが。
1892年6月に、戦艦戦力のさらなる整備のため、「声の箱」は終戦で浮いた予算を使って、八島級戦艦の3番艦となる戦艦「播磨」をイギリスに発注。
八島級戦艦が帝国海軍内で最大勢力を誇る戦艦になった瞬間である。
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帝国海軍は2年の月日をかけて、大幅な戦艦の増強を始めた。
いつか燃え上がる世界を見据えて。