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エクセル日本海軍 1893年9月~12月 平時への移行
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先述した通り、1893年は4月まで行われていた日露戦争から目を背ければ、その後は平穏な時期となった。
日露戦争後の融和ムードの中で、各国間で緊張度の緩和が続いた。相変わらず、フランス・イギリスやドイツ、清とスペインのフィリピンでの対立など、国際問題という火種は存在していたが、そのようなものは戦争終結で一旦鳴りを潜めた。
それは日本でも同じであり、戦時予算は終戦と同時に引き上げらえれたものの、依然として政府や世論には海軍予算には余剰があるという声も多くあり、1893年12月に海軍予算の大幅減額が行われている。
そして更には、戦勝記念ということで政府要人の外遊の為のヨットの建造も企画され、この建造予算に海軍の資金を使うこととなった。
「声の箱」は、八島級戦艦3隻の同時建造の資金を確保するためにも、世論が予算減額を求めているのは良しとしても、外遊用ヨット建造の為の海軍予算の減額をかなり渋ったものの、最終的には政府の予算減額の全ての要請を受け入れた。ヨット建造の為の資金融通は、最終的に「声の箱」の政府に対する発言権強化につながると考えての承諾だった。
この予算減額により、政府の海軍と「声の箱」に対する評判は上がり、終戦時に一定数あった海軍に対する不満の声は、徐々に少なくなっていった。
世界で平和に対する模索がされる中、日本もそれは例外ではなく、それは年内に減税という形となって現れたのだった。
10月には造船業界に対する政府の支援金が出されており、工業化への道に日本は歩を進めていた。
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一方、海軍同士の腹の探り合いが終わったということはなく、水面下での情報戦は行われていた。
1893年11月、「蝶の箱」はフランス海軍のクレバー級装甲巡洋艦の設計図を熾烈な情報戦の末に手に入れた。
クレバー級は1892年設計のフランス最新鋭の巡洋艦であった。ただ、蓋を開けてみると日本海軍の装甲巡に対して、個艦性能では及ばないことが判明した。
排水量6,900トン、最高速力20ノットと、標準的な速度と比較的大型な船体。
ベルト装甲4インチ、デッキ装甲2インチと6インチ砲弾の被弾を前提とした装甲と、これも当時としては標準的、つまり十分な性能だった。
ただし、火力はあまり高くなく、主砲は7インチ単装砲塔が前後にそれぞれ2基、副砲も5インチ速射砲が片舷4門ずつしかないなど、日本海軍からしては火力不足が否めない艦艇だった。
これはフランスが東南アジアから北アフリカなど、広大な植民地を効率的に警備・防御するために生み出された巡洋艦であり、本土海域に専念すれば良かった日本海軍に比べて量産性と経済性に配慮せねばならなかったからである。
決して、フランス海軍は日本海軍に劣っていたわけではなく、本国からインドシナの距離も考慮した上でのもので、これはどうしようもないことだった。
フランスと日本は互いの権益が干渉することは無かった為、この設計図は海軍工廠の技術資料の中に埋もれ、戦略立案で活用された形跡は無いため、「声の箱」はこの情報を特に注視していなかったようだ。
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1893年4月以降での唯一の武力衝突は、フォークランド諸島での反乱である。
1893年12月、イギリスからの独立を求める反乱勢力が島内で暴動を引き起こし、首都スタンリーで治安維持組織と交戦状態に入った。
南アメリカにおけるイギリスの重要拠点での反乱に、イギリス本国政府は即座に対応し、鎮圧部隊が送られることとなった。
かなり後になって、反乱勢力に対するアルゼンチンの関与が明らかになり、この反乱はしばらく両国の関係に後を引くことになる。
もちろん、この反乱はクリスマスまでは終わらなかった。
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ここでは1893年4月から1894年1月の日本海軍の財政状態を確認する。
なぜ1894年1月まで含めるのかというと、1893年12月時点での財政記録は、正確に言うと1893年12月1日の記録なのである。
非常にややこしいが、この「1893年12月の財政記録」は、1893年12月1日から31日までの財政は含んでおらず、12月の詳細な資金の動きを見るためには、1月時点での記録を見ないといけないのだ。
これは調査の途中で判明したことであった為、ここからこの形で説明する。
1893年4月以降は、予算の減少は2つの段階で減っている。
1つ目は1893年4月の終戦時点での戦時予算の解体、2つ目は1893年12月の大幅な予算減。
全ては、戦争終結による緊張度低下が関わっている。
良くも悪くも、日本国内における海軍の立場というのは重要性が低くなったのだ。一時は国家の命運を握らされたこの組織は、平時の1つの行政組織に戻った。
1893年5月から、日本海軍は月あたり500程の赤字を出しているが、この原因は戦艦播磨の起工による建造費の増加である。
ただ、戦艦八島、敷島の工期が残り約20ヶ月だったため、借金をするリスクは低かった。
維持費に関しては、平時移行による全艦艇のモスボール、予備役投入、損傷艦艇の修理完了により、6月には平時の水準に戻っている。
ただ、1890年時の維持費は400ほどだったため、常盤級や十勝級の就役により1.5倍の数値となっている。
1893年12月から1894年1月にかけて、建造費の不自然な減少の原因は、ドック拡張工事が完了したことによる。
総じて、日本海軍の財政は戦時から平時への移行を正常に完了させていた。