エクセル日本海軍 1894年 日英同盟
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1890年代の日英関係というと、1894年6月に締結された、不平等条約の改正に成功した日英通商航海条約であろう。
イギリスの積極的な技術・経済支援を含めたこの条約は日本の歴史上、非常に重要な出来事であるが、ここでは、それは脇に置いておく。
意外と知られていないのが、この一連の日英の関係には、軍事的な協力関係も含まれていた、ということである。
それが、1894年10月に締結された「日英同盟」である。
この同盟が何故、世間一般で無名の存在であるかは後述するとして、今回はこの日英同盟がどのような意味を持っていたのかを、説明しようと思う。
日英同盟とは、日本とイギリスの間で締結された軍事同盟であり、両国の何れか、または両方が戦争状態になった際、支援活動から共同での軍事行動の実施も含まれた日英の緊密な軍事関係を定めるものだった。
この同盟が結ばれた背景は様々だが、まず1つは、ロシア帝国の南下政策の阻止だった。
この時期、ロシア帝国はアジアにおける南下に興味を失っており、世界第2位の海軍力を背景にヨーロッパでの南下、大西洋への進出を企図していた。
それが現れたのは、1891年10月に発生したアイスランドの親露派クーデタに端を発する、バルチック艦隊大西洋分遣艦隊のアイスランド進駐だった。
アイスランドは、ブリテン島の北およそ800キロメートルに位置する島国だったが、もしも、英露で戦争が勃発した場合、ロシア帝国海軍の「大西洋艦隊」がレイキャビクを拠点として展開した場合、イギリス本国周辺の海域の安全性が下がるのは明白だった。
バルト海という檻から逃れたロシア帝国海軍は、イギリスにとっては恐怖だった。
恐らく、イギリス海軍ならロシアと戦争状態となったとしても、大西洋分遣艦隊の活動を抑え込むことは十分可能だった筈だが、仮にそうだったとしてもこれは心理的なストレスを与えるものであり、特に市民の間では、ロシアの脅威という幻想が蔓延するのも驚くことでもなかった。
故に、イギリス政府は同盟締結の際のコメントでこのような文言を出さなかったが、当時の同盟締結の主要因はこれだろう。
イギリスは、日本のロシアに対するカウンターパートとしての役割を期待したのだ。
日露戦争での日本の勝利によって、その能力は既に十分に証明されていた。
2つ目、これが建前であり、本音の1つでもあるが、これは経済的な問題だった。
帝国主義という原理で動く欧米列強にとって、当時、経済的進出を最も強く推し進めようとしていた市場は、清。つまり、中国だった。
イギリスは阿片戦争によって、香港を租借地として、そこを中国進出の拠点としていたが、華北や中国東北地方の進出のための拠点を持っていなかった。
その反面、ロシア帝国は華北に徐々に影響力を及ぼしており、中国市場で他国にリードを取りたかったイギリスは、ロシア以上に中国に近い日本を、華北進出のバックアップとしての役割を求めた。
もし仮に、中国でイギリスの現地邦人や資本が不利となるような事態となった場合は、イギリスの援助を受けた日本が保護をすることになっていた。
このように、イギリスは日本に、極東の憲兵としての役割も求めた。
悪く言えば、日本はイギリスの使い走りとなることを期待されたのだ。
ただ、当時の日本としても、イギリスとの軍事同盟は有益なものだった。
将来的に清やロシアに備えていた日本にとって、イギリスは非常に心強い味方だった。
ロシアと敵対した場合でも、イギリスがロシア帝国海軍の機動を抑え、清と戦争になったとしても、イギリスは華南に展開するに十分な能力を持った海軍を有していた。
お互いの思惑を置いて、1894年10月に、日英同盟は結ばれたのだが、この軍事同盟が歴史の注目を集めることはあまりなかった。
何より、日露戦争後の国際社会は大国間の戦争があまり無く、平和だった。
イギリスでも、アイスランドの現状追認の動きも徐々に強くなっていったのだ。
そのような時期に結ばれた軍事同盟は、相対すべき敵を失い、腐っていく運命にあったのだ。