エクセル日本海軍 1890年3月
***
1890年3月の日本海軍の財政に、これといった変化は無かった。
日本海軍は先月と同じく224の赤字を計上し、艦艇の建造に遅延は発生しなかった為、ヴィッカース社からの返金も発生せず、資金は先月から224減少して3700となった。
赤字を出している点から、健全な財政状況とは言い難いが、ある意味平常運転の状態だった。
しかし、技術開発については、既に問題が発生しているものがあった。
日本海軍は、火器管制システムの開発に多くの開発資金を投じていたが、光学照準器の開発が暗礁に乗り上げた。自国で火器管制システムを開発することは、日本海軍にとって望ましい状態にすることへの布石の1つだったが、その布石は早くも挫けかけていた。これが解決するのは、もう少し先のこととなる。
工業が未熟な当時の日本では、精密機器の開発・製造に手間取るのは、ある意味で必然であった。
1890年代の日本と清は、対立関係にあった。1871年の日清修好条規により、清と対等の立場に立った日本は、1874年の台湾出兵、1875年の江華島事件、1879年の沖縄設置、1882年の壬午軍乱、1884年の甲申事変と、清の利害関係と衝突・対立する行動を繰り返していた。対外膨張政策とも取れるこの行動に、東アジアの大国であり、朝鮮の宗主国であった清は、警戒を強めていた。
しかし、相手の動きに注目していたのは、清だけではなかった。日本も同じく、自国より優れた軍備を持つ清を、日本海軍なら北洋艦隊を注視していた。北洋艦隊は、太平天国の乱の鎮圧で功績のあった郷紳、李鴻章が創設した、東アジア最大の海上武官組織だった。前述したとおりに、日本海軍を上回る主力艦を揃えた、当時最新鋭の艦隊だった。
明治政府が清の行動を警戒していたのは確かだが、日本国民も、政府と同じくらいに清を警戒していた。特に、国民は清が台湾を領有していたことに反発していた。地理的に見ると、台湾は日本の南洋諸島を制圧可能な所に位置し、ある意味では南洋諸島に含まれると言っても良かった。日本の海上交通路の大半が(現在もそうだが)、東シナ海を通っており、台湾の高雄や基隆の清国海軍基地はその交通路を遮断する可能性があると、メディアが世論を煽っていたことも、その反発を増長させていた。
もちろん、清国政府も日本世論のこのような動きには気づいており、もし仮に日本海軍が北洋艦隊を撃破可能な戦力を完全に取り揃えた場合、明治政府が人気取りの為に国民の意を汲んで北洋艦隊に戦いを挑む可能性を危惧していた。
このような点を対立点として、日本と清の緊張度は上昇傾向にあった。
両国との関係が良好だったイギリス政府(実は、当時の北洋艦隊の新型戦艦は、イギリスの造船所が建造していた)は、清と日本の戦争が勃発する可能性が高いと分析する文書を残しており、それ程に、清と日本の関係は良好とは言い難かった。
眠りから醒めた獅子と、極東の猿の衝突は、時間の問題のように思われた。
【艦艇紹介】
戦艦平遠
※平遠の英語表記は、本当は「Ping Yuan」となる。恐らく、開発元が間違えているか、表記に揺れがあるのかも。まぁ、私が間違えているかもしれませんが。
扶桑がしょぼすきて、涙も出ません。