エクセル日本海軍 1895年 春日級装甲巡洋艦
春日級装甲巡洋艦(春日級装甲巡)は、大日本帝国海軍(日本海軍)が建造した装甲巡洋艦(装甲巡)だ。
春日級装甲巡の特筆すべき点は、当時の装甲巡としては大口径の9インチ砲を主砲に採用した点だ。当時の日本海軍は10インチ砲を装甲巡の主砲として理想的だと考えていたが、費用の問題から、当時の標準的な装甲巡の主砲である8インチ砲に対して火力的な優勢を見込める9インチ砲に妥協し、1894年での計画立案時点で、次期装甲巡の主砲は9インチ砲にするとの決定が為された。
しかし、次期装甲巡建造計画は、早くも暗礁に乗り上げることになる。
明治維新以後から、日本国内の造船所は政府や海軍の支援により、設備を徐々に整備し始めていた。「声の箱」設立後は、それは海軍予算の一部を占めるようになり、1895年頃には10,000トン規模に拡大していた。しかし、先述の通り、清やロシアに対する戦力整備を優先した海軍は、国内の拡大する造船所に仕事を出さなかった。これには造船業界のみならず、鉄鋼業界からも怒りの声が上がり、海軍に対して国内造船所への艦艇の発注を促すよう圧力がかけられるようになった。この対立状態には政府も問題意識を抱き、「声の箱」に対して協議を持ちかけていた記録が残っている。
このような背景があったことから、海軍は次期装甲巡の規模なら国内造船所で十分に建造可能とし、実際に三菱や川崎とドックの使用スケジュール調整を行い、次期装甲巡を国内で建造しようとしてい。しかし、先述の通り、それはある要因から取り下げとなることになってしまい、海軍と重工業界の対立は再燃する。
問題は、他ならぬ主砲だった。
当時の日本国内に、日本海軍の要求する性能を満たす9インチ砲を製造可能な工場がなく、唯一、製造技術を持つのはイギリスのヴィッカース社のみだった。
当然、日本海軍とヴィッカース社による9インチ砲の購入についての交渉が行われることになったが、ここでヴィッカース社のみならず、イギリス政府が日本の9インチ砲購入に難色を示した。
難色を示した理由は、9インチ砲が1894年時点で開発されたばかりの最新兵器であったことや、日本の軍需産業の成長への警戒、日本の軍艦発注が途絶える可能性の考慮など、挙げ始めたら切りがない。
要は、イギリスに最低限度の金銭的見返りしか与えず国内産業を成長させ、日本海軍の戦力を増強する行為を、イギリス政府とヴィッカース社が容認できなかった、ということだ。
イギリス側の要望を通すためには、日本の重工業界の要望を無視することとなり、海軍は板挟みの状態に置かれることになる。
この問題で次期装甲巡建造計画はしばらく身動きできなくなった。
最終的に、政府の協力もあって、次期戦艦の建造を国内造船所で行い、鋼材の調達を国内の製鉄所で行う契約を見返りに、国内での次期装甲巡建造はキャンセルされ、次期装甲巡はヴィッカース社で建造されることになった。
春日級装甲巡は、4.5インチの装甲帯を持ち、最高速力20ノット、排水量8,400トンの艦体に、主砲として9インチ連装砲2基計4門、副砲として6インチケースメイト砲14基、補助砲として3インチ単装砲を12基搭載した、高火力の大型艦として建造されることになり、1895年4月に1番艦の春日が起工、翌5月には2番艦の吾妻が起工される。
春日級はこの後、日本海軍の巡洋艦戦力の一角を占め、規格外の火力を誇ったが、その建造背景には日英の対立が見え隠れしている。
イギリスは1894年の日英同盟で、「栄光ある孤立」から脱し、日本への支援を行い始めたが、それは当然、善意のものではなく対ロシアを念頭にしたカウンターパートを用意するという打算から来るものだった。
そして、日露戦争に勝利した日本に対して警戒を緩めていなかった。
これはイギリスだけの話ではなく、欧米列強に共通する日本の見方だった。
イギリスとしては、日本にはロシアの対抗馬になって欲しかったが、アジアの覇者になって欲しいわけではない。
その状況を達成するためには、日本に「必要以上の」支援をしてはならない。
この出来事は、イギリスのそのような認識が部分的に発露している。
日英同盟とは、イギリスの日本への無条件の支援と保護を確約するものではなかったのだ。