エクセル日本海軍   作:佐竹福太郎

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 難産で書くの辛かった。圧倒的知識不足。


1896年 丙申農民戦争

 1896年時点で、日本と清はそれぞれ東アジアに位置する国だった。

 

 両者は豊臣政権下に実施された1592年から1593年の文禄の役、1597年から1598年の慶長の役以降、目立った衝突は起きていなかったが、近代になってから、日本が「明治維新」と呼ばれる体制転換以後に、彼らの関係は対等になり、次第に競争の熱を帯び始める。

 

 1871年の日清修好条規、1874年の台湾出兵、1875年の琉球処分、1876年の江華島事件。

 

 日清関係は確実に破局の道を歩み始めていた。

 

 1882年には壬午軍乱が発生、1886年には日本の支援もと金玉均ら独立党が甲申事変を発生させる。

 

 最早、彼らが共に穏便に過ごすということは不可能だった。

 

 

 

 1896年1月8日、釜山周辺を中心に大規模な農民反乱が発生、当時、朝鮮で民衆の支持を大きく得ていた東学党などの新興宗教団体などもこれに便乗し、李氏朝鮮は半島南部での主導権を喪失した。事態を重く見た朝鮮は、清に援軍を要請した。

 

 こ朝鮮の宗主国を自認する清は淮軍の派遣を決定したが、朝鮮半島を勢力下に置こうと画策する大日本帝国もこれに反応した。

 

 清としては朝鮮は属国であり、応援要請もあってのことでの軍事支援だったが、これは日本にしては安全保障上、容認できない事態だった。

 

 というより、帝国海軍がこれを問題視していた。

 

 朝鮮半島南部は九州地方・中国地方の北部にあり、地理的に近い所に位置している。また、対馬海峡という要衝の一角も占めていた。

 

 そして、これが最大の問題点であり、朝鮮半島南部沿岸部の地形だった。朝鮮半島南部はリアス式海岸を持ち、水深が深い海岸が広がっており、天然の良港だった。

 

 つまり、朝鮮半島南部は大艦隊の停泊できる基地を整備する余地があるということだった。

 

 これが、帝国海軍の危惧するところだった。

 

 本土近辺の釜山や半島の沿岸部に北洋艦隊が展開されては、九州地方・中国地方近辺の制海権の確保や沿岸防衛が危機に晒されるリスクが高くなる。

 

 よって、朝鮮半島南部への清軍の派遣は帝国海軍に危機感を持たせ、結果的に陸軍の派遣が決定された。

 

 しかし、1月15日に帝国海軍の支援を受けた帝国陸軍半島派遣軍が釜山に上陸した際には、既に淮軍により反乱農民のほとんどは鎮圧されており、帝国軍が入り込む隙は無かった。

 

 結果的に帝国軍は半島から撤退せざるを得ず、「何もせずに帰ってきた」陸軍、中央官庁や民衆から、半島南部への出兵を提案した海軍は非難されることとなった。

 

 また、反乱の再発防止のために清軍の一部が駐留することとなり、釜山には北洋艦隊の艦艇が出入りするようになった為、日清の対立は一層深まっていった。

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