エクセル日本海軍 1890年11月・12月 出師準備
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当時の日本海軍の仮想敵は、清の北洋艦隊である。これは、周知の事実である。
しかし、日本海軍にとって最初に直接的な対立を迎えた相手は、北洋艦隊ではなかった。
ロシア帝国海軍
ロシア帝国は、当時、世界第3位の海軍を持ち、最強の陸軍を兼ね備えた最強の専制君主国家である。大日本帝国と同じ帝国を名乗る国であったが、その力には天と地の差があった。
陸軍は比べるまでもなく、戦艦の保有数、総排水量はロシア海軍が101,100トンであったのに対し、日本海軍は12,800。比は9対1であり、仮に戦争となった場合、制海権を握るのはどちらであるかは明白であった。
そのため、日本政府は最も近い列強であるロシア帝国とは良好な関係を維持しようと腐心した。特に、共同出兵に参加したことに対し、ロシアは不快感を隠しておらず、関係改善に外務省は走り回ることとなる。
しかし、そんな日本政府の努力を明後日に追いやるような事件が起きてしまったのだ。
1890年12月2日、ロシア帝国海軍オホーツク小艦隊所属の砲艦キエフが、樺太近辺で情報収集中であった仮装巡洋艦奉天丸を拿捕、日本側は乗員の即時解放と奉天丸の返還を求めたが、ロシア側は応じず、日本海軍の領海侵犯に対し、日本政府に賠償と謝罪を求めた。
ところが、それまでの融和的な姿勢と打って変わって、日本政府は賠償と謝罪の必要は無いとして、ロシア側の要求を拒否したどころか、緊急出動した日本海軍がウラジオストク周辺に展開・威圧した。
極東の小国のあまりの豹変ぶりに、ロシア帝国、欧米列強は戸惑った。
先述のように、ロシア帝国海軍と日本海軍の戦力差は決定的にロシア側に傾いており、戦争になった場合、日本海軍は圧倒的な劣勢に立たされることは、日本政府も理解していた。
日本は何を考えている?
奉天丸返還交渉でも、日本政府は、ロシア帝国に対して強硬姿勢を貫いた。
日本政府の態度の変化には、「声の箱」によるロシア帝国海軍の分析結果が大きな影響を与えていたと言われている。
当時、ウラジオストクに駐留していたのは、ロシア帝国海軍オホーツク小艦隊という、オホーツク海・樺太の警備を目的にした警備部隊のみだった。驚くべきことに、ウラジオストクに日本海軍に対抗できる戦力は存在しなていなかったのだ。
海軍戦史研究所には、このような文言を残した文書が存在する。
ロシア帝国海軍は、亜細亜では虚妄に過ぎない。
この頃は、シベリア鉄道ですら建設工事が始まっておらず、ロシア軍のアジアにおける兵站は壊滅的だった上に、ロシア帝国はアジアにおける南下政策に、大して関心を示していなかった。それは、1890年にアイスランドの親露派勢力に対して資金・武器援助をしてクーデター準備を手助けしていたことからも明白である。
実際、奉天丸の拿捕に対し、日本海軍が全艦艇を戦闘態勢に移行させて緊急出動をかけていた頃、ウラジオストクに展開していた大型艦艇はオホーツク小艦隊の砲艦キエフのみであり、仮に日本海軍が武力行使に出た場合、ロシア海軍の極東警備が崩壊し、敗北するのは目に見えていた。
ロシア帝国海軍は樺太に案山子しか立てていない。
ロシア帝国海軍の戦力配置に対して、そのように主張するメディアも現れ、この機に樺太を奪還しようという声も強くなり、日本国内でロシア帝国海軍を侮る声があがった。
ロシア国内でも、日本人に対する蔑視や日本政府の強硬姿勢に対する不快感、ロシア帝国海軍のアジア方面が手薄なことに対して批判が集まり、ロシア世論は打倒日本で沸騰していた。
日本海軍の緊急出動・出師準備に、ロシア帝国海軍は流石に事態のまずさに気づき、12月には黒海艦隊とバルチック艦隊の一部艦艇の極東派遣を決めている。
日本海軍も、第1戦艦戦隊、第1装甲巡洋艦戦隊、第2装甲巡洋艦戦隊で編成された聯合艦隊を編成、全主力艦を戦闘態勢にし、砲術・魚雷訓練を開始、ロシア帝国海軍に対する情報戦も開始され、日本海軍は、世界第3位の列強に対する戦争準備を始めたのだった。
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1890年11月、装甲巡洋艦八雲、磐手がイギリスから回航され、就役した。
それと同時に、日本海軍は常盤型の次期装甲巡洋艦の構想を始めた。
3ヶ月にわたる構想の末、日本海軍は排水量7400トンの装甲巡洋艦の発注を決定した。ドック拡張事業を始めたとはいえ、1890年11月時点での呉海軍工廠のドック規模は6000トン規模の艦艇しか建造することができず、必然的に、良好な関係を持つヴィッカース社への発注となった。
7400トン級装甲巡洋艦「十勝級」は、対ロシア戦を意識して構想されたものだった。当時のロシア帝国海軍が建造していた最新鋭装甲巡洋艦「クロムボイ」の排水量は7400トンという推測であり、その数字に基づいて、新型装甲巡洋艦の排水量は7400トンまでという決定がなされた。
十勝級は、防御方式に防護甲板を使用していないことから、浅間級の系譜にあると思われるかもしれないが、実は、彼女たちは思想としては常盤級の系譜にあたる。
浅間級と十勝級の最大かつ決定的な違いは、主砲に連装砲塔を使用していないということだった。
日本海軍は、浅間級の運用実績から、連装砲塔の揚弾機が射撃レートに追い付かないことを見て、費用対効果の観点から、連装砲塔を採用することよりも、6インチケースメイト砲を大量に搭載するのが正解ではないかと考えた。
結果、浅間級は主砲として8インチ砲を単装砲塔2基に収め、副砲として6インチケースメイト砲を驚異の14基、3インチ単装砲を12基装備した。
6インチ砲の片舷指向数を見るならば、浅間級は常盤級に匹敵する火力を有していた。
その為、浅間級は「常盤級の縮小改良艦」と見るのが適当だろう。
日本海軍は、1890年11月に、新型装甲巡洋艦3隻を建造する計画を承認した。この艦たちがどれほどの成果をあげるかは、誰も知ることではなかった。
なお、余談だが、八雲の公試により、常盤級は設計重量を超過していることが確認されたが、この結果が建造中の常盤に生かされることはなかった。
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1890年11月まで、日本海軍は175の赤字を計上し続けたが、12月には1698の黒字を叩き出した。
しかし、これは手放しで喜べることではないことは、当時の「声の箱」でも分かっていたことだろう。奉天丸事件により、海軍予算の増額は成されていたが、出師準備と磐手、八雲の就役により、艦艇の維持費は424から1063と2倍以上に増加した。
幾つかの財政上の変化が絡み合ってできた黒字であり、ただ財政状況が改善した訳ではなかったのだ。
年間予算700の増加では、艦艇維持費を相殺することができないのは明白だったが、この問題は、望まない形で解決されることになる。それは、次の稿に回すべきことである為、ここで述べるのは差し控えたい。
艦艇の建造ペースを落とさざるを得ない予算状況だったが、ただ、設計作業な構想に時間がかかるため、どの道建造予算を1890年1月から1890年11月の水準に戻すことはしばらく無理だった。