2024.4.16:第17・21段落を修正。
エクセル日本海軍 1891年1月 金剛丸事件
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歴史を紐解いていくうえで、諸君らはこのようなことを意識したことがあるだろう。
回帰不能点
このような発想は、歴史上で諸君らが、または諸君の帰属する集団が、悲劇的な歴史上の出来事があると知っているから生まれるものとも言える。
1890年代初期の日露関係は、1890年時点から良好なものとは言えない。当時、ロシア帝国と大日本帝国の北方領土は、国境が定まっていなかった。千島列島から樺太に至るまで、この地はロシアは東シベリア総督府や日本の開拓使が入り乱れる無法地帯だった。
特に樺太は日本人とロシア人、アイヌ人も雑居し、民族的にはっきりしない場所であったため、どちらの領土するかについて、日本政府は深く言及しなかった。ヨーロッパでの南下政策に興味の重心を置いていたロシア政府は、そもそも樺太の帰属について注意を払っていなかった。
ただし、奉天丸事件に関して、日本に反発していたことから、樺太がロシアの領土であるという認識が、ロシア政府の中にあったことは確かだろう。
そんな、悪化していく両国の仲を破局に導く出発点となるものが、この「金剛丸事件」だった。
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金剛丸は、大連丸級砲艦の3番艦であり、排水量1,200トン、主砲に5インチ砲を2門搭載した艦艇だった。
当時、ロシア帝国海軍の中で、唯一極東に展開していた大型艦、砲艦キエフは排水量2,000トンの艦艇であり、金剛丸は規模としてはキエフの0.8倍の大きさだった。
この点で、金剛丸がキエフに比べて小型な艦であることが分かるだろう。
この2隻の艦艇は、1890年12月の日本海軍の緊急出動によって、初めて顔を合わせた。
金剛丸は、姉妹艦の大連丸、興安丸の2隻とともに、ウラジオストクで警戒線を張っていた。そんな中、ウラジオストクの軍港警備に就くキエフは、たびたびこの3隻に接近することもあった。
日本海軍としては、ウラジオストクに入港する艦船の監視という任務だったが、軍港警備を任務とするキエフにとっては、この3隻の旭日旗を掲げた艦艇の存在は無視できなかった。
接近や探照灯の照射など、危険な行為を繰り返す4隻の衝突は、現在から見て、不思議なことではない。
そして、1891年1月13日の5時15分ごろ、ウラジオストク沖で巡航していた金剛丸は、警備任務中だったキエフと衝突した。濃霧の中で互いに威嚇をしていた両艦は、霧のために目測を誤り、衝突した。
両艦は、互いの相対距離を過小評価してしまったのだ。
キエフは衝突により、右舷のカッターが落下、艦首を僅かに損傷しただけであったものの、金剛丸の被害はそれとは比べるまでもなく深刻だった。
艦の航行には支障は無かったものの、艦後部の鉄板が歪み、リベットが数本吹き飛んでいた。また、不運なことに、甲板で作業をしていた3名の水兵が海に投げ出された。
衝突したキエフは金剛丸の救援に回り、行方不明になった3名を、近くに居た大連丸と興安丸と共に捜索し、2名を救助したが、残り1名の発見には至らず、冬の日本海では生存は絶望的とされ、捜索は打ち切られた。
金剛丸とキエフの危険な航行が招いた事故は、政府間の怒号と責任転嫁の応酬を招き、当然のことながら、両国の世論は沸騰し(特に日本は死人が出たことから)、関係の改善は全く見通せなくなってしまった。
いよいよ、両海軍との交戦開始の確信を深めた日本海軍とロシア帝国海軍は、戦争準備を着々と進めていった。
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ロシアとの戦争を本気で考えていたのは、日本海軍だけではなく、日本政府も同じくらいに危機感を持っていたと思われる。
それは、1891年1月の海軍予算の大幅増額に見ることができる。
1890年12月には5,812であった月あたりの予算は、6,458と、およそ10パーセントの増額が行われた。年間予算に換算して、69,750から77,500と、7,750の増額。日本海軍の予算は1か月分の予算以上の増額である。
これまでの予算増額の中で最も規模が大きく、実質的に、戦時予算と変わらないものである。
このように、海軍予算1つを取っても、日本という国がロシアとの戦争を本気で覚悟していたことが窺える。
んあー! 艦艇紹介、何を紹介すれば良いのか思いつきません!