ここはすごく静かで、俺はとても落ち着いている。
ここには何もないけれど、思い出だけはたくさんあるからそれでいい。
時間ならいくらでもある。
ありすぎて困るくらいだ。
もう少し休んでいようか。
……。
何時までも休んでいられそうだ。
まあ、悪くはない。
ここはすごく静かだから、騒がしかった頃をよく思い出す。
ここには何もないから、いろいろあったあの頃が懐かしい。
……。
もう少し、思い出をいじくって遊べそうだ。
何をしよう。
……。
そうだ、あのことはどうだろう?
そうやって俺は何度も何度もあのことを思い出している。
俺は本当にあの頃が好きだ。
あの思い出が好きだ。
……。
1―1
それは、まだ年が明けてまもない、一九九九年の一月三日のことだった。
「電話だよ。学校の同級生だって」との母からの声に答え受話器を取ったのは、たしか午後九時過ぎだったと思う。
「? 誰だろう」
母から受話器を受け取りながらまずそう思った。新年早々からわざわざ電話をよこすような友達など、俺にはいないはずだった。
そう思っていると相手は、「俺だ…覚えているか? 折原浩平。隣のクラスの…」と名を名乗る。
知っている相手だった。折原浩平。俺と同じ軽音楽部に所属する同級生。また、幽霊部員であるということも一緒である。そして彼の言う通り、俺と折原は隣のクラスだった。
(しかしなぜこんな日に電話を…まさか部活関係だろうか?)
折原と俺はそんなに親しい間柄ではない。一年の時も別のクラスだったし、接点と言えば同じ部活をしていることぐらいしかない。つまり俺と折原は友人と言う関係ではない。俺はいぶかしく思う。
「何の用だ?」と、俺は訊ねた。部活のことは考えるのも嫌だったのでわざと口には出さなかった。それに、こんな新年早々学校まで行くなんて面倒だ。もしそうならなんと言って断ろうか?
だが折原の用件は俺の予想とは異なっていた。彼は唐突にこんな事を切り出したのだ。
「ながもり…長森瑞佳って知ってるか…?」
ながもりみずか。長森瑞佳。知っている。折原と同じクラスの女生徒だ。
「うん、知ってる…そいつがどうかしたの?」
『そいつ』なんて言ってしまったが、俺の声は多少調子の外れたものになっていた。声の変化を折原なんかに気取られなければ良いが。いや、気づかれただろうか。それよりも、どうしてここで長森さんの名前がでてくるのだろう
か。長森さんがいったいどうしたというのだろうか。俺はそれがとても気にかかる。
「おまえ、さ」
折原が言う。俺は無意識のうちに受話器に耳を押し付ける。しかしそこで言葉は途切れた。
「ん、何だ?」
折原の沈黙が長かったので俺は尋ねる。一体、長森さんのことで俺にどんな用事があるのだろうか。しかし受話器の向こうの折原の声は鈍く、話すことをためらっている様で俺を苛立たせた。早く用件を言ってほしいと思う。し
かし、折原が次に発した言葉は俺を真実、混乱させた。
「……おまえ、長森とやりたくないか」
「……っ!」
俺の驚きに折原は沈黙を持って答える。
「……どういう意味だ?」しばらくして俺は訊ねた。声が自然と低くなった。
「言葉通りの意味だ」折原は冷たく言い放つ。
「じ、じゃあ…どういうことだ?」
なぜ折原がこんな事を言い出すのか俺には全く理解できなかった。
「……理由か。……嫌なんだよ」
「嫌……」
俺は受話器の向こうでうなだれた様に呟く。正直、あの長森さんを嫌だという折原の神経が俺にはまったく信じられない。
「そう、嫌なんだよ、あいつが…あいつにつきまとわれるのが!」
折原は声を押し殺して受話器の向こうでそんなことを言う。その言葉はなんだか悲痛な叫びの様にも感じられて、俺の背筋が震えた。
……つきまとわれる…か。いや、実際そうなのか? 俺は考える。折原と長森さんは聞いた話では幼なじみで、家が近くて、小学校が同じで、中学も一緒だと聞いたし、高校も一緒で、いつも二人して仲良くつるんでいる所を俺
は良く目にしていた。大抵毎朝二人は一緒に登校しているのも知っている。俺も何度も見た。……でも、つきまとわれる…か。校外でも彼らはつるんでいて、商店街のゲーセンで二人が遊んでいたのも見かけたことがある。それで
一緒に帰って……それでも、つきまとわれる…か。……どこでも、彼らは二人仲良く一緒なのに……それがつきまとわれる、なのか? ……だが、だが、それは…。
「……おまえたち、付き合っているんじゃないのか?」
そう思っていた。俺も、そして、たぶん二人の周りの人たちも。別に統計を取ったわけじゃないけれど、二人を知る人ならば、十人中九人までがそう答えるだろう。
「……」
折原は答えなかった。
「……」
俺も自然と黙った。
「……」
「……」
しばらくの間、二人ともそうして黙っていた。やがて折原が口を開いた。
「……おまえもか、…でもそんなんじゃない」吐き捨てるように言った。
「……そうか」俺は言う。なぜか少し安堵。
「……それで、どうなんだ?」
「えっ……」その安堵も折原のその言葉であっさりと消えた。
「どうなんだ。やりたくないのか?」さらに折原が訊ねる。
「……いいのか?」
俺はいつの間にか口の中に溜まっていた唾を静かに飲み込むと尋ねた。
「俺は別にかまわない」折原は言った。
「そう…でもどうやって? お前達付き合ってないんだろ?」
「それについてはお前が心配することじゃない」折原は冷たく言った。
「……そうか。でも……」
疑問が残っていた。折原はこう言っていた。「長森とやりたくないか?」と。紹介してくれるのではなく、やる。つまり…彼は…折原は…俺に…長森さんとセックスしたくないかと聞いているんだ…。長森さんと。
想像するだけで耳たぶが熱くなる。背中はこんなに寒いのに。しかし、なぜなんだろう。どうして折原はそんなことを言うんだろう。いや、言えるんだろうか? 俺は不思議に思う。
「……でも……何だ?」折原の声がなんだかとても遠くから聞こえるような気がした。
「……」俺はその言葉に答えられない。
「……でも……何だ?」しばらくの沈黙の後、折原はもう一度聞いてくる。
「その…やるって……紹介とかじゃなくって……やるって…つまり…どうして……?」
俺は言った。うまく言葉にならなかった。
「言葉通りの意味だ」折原は前に言った言葉を繰り返す。
「……」そう…長森さんと俺が……。
「じゃあ明日の…八時…そうだな…長森は時間に正確だからな…」折原は小さく、かつ早くつぶやくと「午後七時三十分に……学校の校門前で」と話をまとめるように言った。
「ちっ、ちょっと待てよ!」俺は叫んだ。なんか変だ。俺と折原はそれほど親しい間柄と言うわけではないが、俺の知るかぎり、折原はもっと明るく、それでいてバカな奴だったはずだ。しかし今の折原の語調は、そのような明る
さを全く感じさせず、そして黒いものを胸に抱えている――そんな口ぶりに思えた。
「何だ……?」折原が訊ねる。
「やっ、やっぱ、俺、断るよ……」俺は言った。何かおかしい。普通じゃない。そう思った。
「そうか……」折原が呟いた。どことなくうなだれた様な言葉。
「うん……悪いな」これでこの忌々しい会話にけりが付くだろう、俺はそう思った。しかし……折原は消え入るような声で、おそらく独り言だろう、こう言った。
「じゃあ、他の奴に頼むとするか…」
「……」その声がやけに俺の耳に残った。他のやつ。他の人間。他の男。俺以外の誰か。折原以外の誰か。俺は息をのむ。鼓動が速くなる。胸が不快感で満たされる。受話器を握る手に汗がにじむ。
……今ならこのとき俺の体を駆け抜けたこの感情を言い表すことができる。
だけどそのときはそれが何であるか、よく考えてみることができなかった。ただ単純に嫌だなと思った。ただ単純に、そんなことは絶対に嫌だなと。
結局。
――俺はその言葉に落とされた。
「それじゃあ悪かったな、そんなこと聞いたりして」
迷っている暇なんてなかった。折原はもう受話器を置こうとしている。急がなくてはならない。俺は慌てて今にも受話器を置きそうな折原を必死に呼び止める。
「待ってくれ」俺は言った。
「……」折原は答えない。
「わかった、いいよ、やるよ」思っていたより力強い声が出た。
「……」折原は答えない。受話器をもう置いたのか? 俺は焦り、大声を出す。
「明日の……午後七時半に学校の校門前でいいんだな?」
「……ああ。そうだ。……本当に、いいんだな」ようやく、受話器の向こうの折原が俺の声に答える。その折原の声も俺と同様に冷たかった。
「ああ、いいよ」
俺は即答する。
「……。んで、どんな感じ? その、さ」
そして一応訊いてみた。折原の口調からは長森さんに対する悪意がにじみ出ていたので、まともな方法じゃないことはなんとなくわかったが、それでも折原の真意を確かめてみたかった。
「……まず、お前が暗い教室で待機する。俺がうまく長森を呼び出してそこに連れ込む。あとはお前がご自由に。詳しいことは明日話す」
折原のあんまりな計画に俺はおもわず息を呑む。レイプじゃないか、それ。
「俺に犯罪行為をしろと?」俺は小さく言った。
「辞めるか?」
折原が尋ねる。
「……」
俺は考えてみた。ここで断れば、折原はさっき言ったとおりに別の男を見つけてくるだろう。長森さんを好きな男子は意外なほど多い。そして、その全てが善人なわけじゃない。それは俺もそうなのだが、この計画に乗る奴もき
っと出ることだろう。出来ることならそいつらには渡したくない。しかし…。
「どうする」
俺が考えていると折原は再度尋ねてくる。
「いや、やる」
もう引き下がれない。俺はそう判断した。それに思う。折原から『やりたくないか?』と冷めた声で訊かれた時に、俺はすでにこのことを頭の中でわかっていたんじゃないかと。そして考える。どうしてすぐさま『ふざけんな』
と返して受話器を置かなかったのだろうと。わかっていたのだ。実際そんなものだと。理解していながら、俺はそう訊かずにはいられなかっただけなのだ。
「そうか」
折原は冷徹な声で言う。
「…ああ」俺は答えた。小さかったが、掠れた物ではなかった。しっかりと自分の意思を乗せていた。
「じゃ、それだけだ」折原が締めくくる。
「ああ、それじゃ…」
俺はゆっくりと受話器を置く。気がつけば全身にびっしょりと汗をかいていた。大きくため息をつき、俺は寒さに一人身震いした。
階段を昇り、自室に帰る。ベッドにごろりと横になって、さっきの電話のことを思い返してみた。
冷静に考えて、あの電話の折原は明らかにおかしかった。そして自分がとんでもないことを約束してしまったことに気がついた。
(やはり犯罪は犯罪じゃないか)
それはよくよく考えれば当たり前のことだ。だが折原の許可があれば別に問題ないのではないだろうかとも思う。電話ではあんなにも否定していたが、折原と長森さんが付き合っている、あるいは付き合っているも同じだという
ことは、学校中誰もが知っていることである。たしか年末に折原が長森さんにようやく告白したという噂が一部で流れたが、何をいまさらと言う感想しか出てこなかったのを覚えている。
「……」
天井を見上げる。……一体何を考えているんだ、折原。なぜ付き合っていないなんて言ったのだ?
不快な気分が胸に溢れてくる。なぜ長森さんにそんなことをしようとする?
そして、俺はどうして折原の無茶な計画を諌めなかったのだ?
(…何故なんだろうな)
……だが、答えはわかりきっていた。
――罪深い。まったく俺は罪深い。犯罪だとわかりきっているのに、こんなにも胸に高鳴りを感じる。胸に手を当てて、収まれと心の中で呼びかけてみる。
それでも、胸の高鳴りは収まることなく、罪と肉欲、そして恋慕の意識に俺の心は引き裂かれてベッドの中で俺は煩悶する。
くそ、なんだって言うんだ。
……なんだって言うんだ。長森さんの姿が頭の中にこびり付いて離れない。
チャンスなんだ、これは。胸のどこかで誰かが言った。
「……もうすっかり諦めていたのにな」
額に手をあてがって、俺は小さく呟いた。そうか、チャンスか。転がり込んできた、チャンス。あの長森さんをこの手に出来るチャンス。頬が熱くなる。
「俺、諦めは良い方なんだと思っていたんだけどなぁ」
俺はぼやく。胸の高鳴りは全く止む気配が無い。思い返す。あの顔。あの瞳。通りすがるときにかいだあの匂い。あの胸のふくらみ。桜舞い散るあの入学式で見たあの姿。
「何か言ったー?」俺のぼやきが居間まで届いたのか、階下で母が言った。
「なんでもねーよ」
俺は大声で言い返し、布団を頭からかぶった。……まったく妄想が穢れる。そしてまた思い返す。あの体を。あの動作。あのしゃべりかた。あの笑い方。あの男のほうに向けられた優しい視線。
(ずっと手に入らないものだと思っていた)目をぎゅっとつぶる。
そして今、俺が一度諦めたものは、思いがけない形でまた目の前に晒された。俺が諦めるきっかけになったあの男のせいで。本当に思いもしなかった姿で。
「…く」
俺はベッドで体を転がす。なにをいまさら、と思うのだが、それではこの胸の異常な高まりは理由がつかない。
(案外本気だったのか、自分)
(いや、そうでもないだろう)
考えれば考えるほどよくわからない。どっちだとも言える。もう、考えるのも疲れた。俺は電気を消して目を閉じる。眠りに落ちるのに酷く時間がかかった。
次の日。俺は折原との約束の時間より少し前に学校の校門前に到着した。
本当に俺はこうしたいのだろうか。折原を待っている間にぼんやりと考える。考えれば考えるほどこのまま何もかも放り出して逃げ帰りたい気分に襲われた。
「……」
本当に帰ってしまおうか。空を見上げる。綺麗な冬空を見ながらそう思う。まだ約束の時間には少し間があったが、もう俺は待っていることに耐えられそうもない。それでも、折原と一度約束したことだ。たとえそれがどんなこ
とでも、約束を破るというのはどことなく心苦しいものがある。
ぼんやりとポケットをまさぐる。夏に友人から冷やかしにもらったスキンが一枚入っている。貰った時は使うことなんて別にないだろうと思っていたのだが。手で軽く掴んでみる。
「……」
なんか変な感触だ。これをつけてあの人と交わるのか。……。なんだかひどく困惑する。そして少し高揚した感情が俺の胸に沸き起こる。それは不自然なことじゃないだろう。だが急に不快な感情が胸にこみ上げてきた。俺は吐
き気を催して小さくうめく。辺りに人はいないのでその声は聞かれることはなかったはずだ。誰もいない校門前で俺は呼吸を落ち着ける。
「……」
やはりもう帰ってしまおう。こんな強姦まがいなことに加担するべきじゃない。俺は踵を返し、家に帰ろうとした。
「よう、早かったな」
「……」
俺が振り返るとちょうどそこに折原が立っていて、こちらに向かってくるところだった。俺は時計を見る。時間ちょうどだった。俺は帰ろうとしたのがばれたんじゃないかと思い、少し慌てる。そんな俺の様子は傍から見れば滑
稽なものに見えたのだろうか、折原が言った。
「……どうした、おじけついたのか」
「そんなんじゃねーよ」
俺は言い返す。心の不安感を悟られるのも嫌だが、怖気づいた負け犬と思われるのはもっと嫌だった。折原はわかっているのかわかっていないのか、口の端を歪めて「じゃ、行こうか」と言った。
「どこへ?」俺は訊き返す。
「ここじゃ、目に付きやすいだろ? 校舎内に入って、舞台はそこだ」
「……わかった」
俺は言った。
「こっちから入れる。来いよ」
俺はその言葉にうなずくと先行する折原の後を黙って付いて行った。折原は途中で何度も何度も俺のほうを振り返る。それはなんだか、本当にいいのか?と問い掛けているようにも思えた。俺は闇に表情を隠し、なるべく折原の
顔を見ないように歩く。裏山のフェンスを乗り越え、敷地内に進入する。星明りの下、昇降口の扉は開いていた。
「……ずいぶん無防備なんだな」
俺は随分と場違いな疑問を口にする。不快に思ったのか、折原は何も答えなかった。
月と星とに照らされた暗い廊下を二人で歩く。俺たちに連帯感なんてものは無く、終始無言だった。ふと、折原が立ち止まる。俺は折原が立ち止まった先のネームプレートを暗がりの中読んだ。
長森さんのクラスだった。
折原は屈みこむと、慣れた感じで教室と廊下をつなぐ低い通気孔を開けてするりと教室内に入る。俺が持っていると、鍵の開く音がして教室のドアが開く。そこから顔だけを出した折原が、「入れよ」と俺に呼びかけた。
俺は促されるままに教室に入る。
「……」
暗い。そして凍えるくらい寒い。ここは廊下より遥かに闇に閉ざされている。目が慣れるのに本当に時間がかかった。それでもようやく中の様子が薄ぼんやりと俺の視界に入ってくるぐらいで、ほどんと見えないも同じだった。
誰もいない夜の教室はどこか薄気味の悪いものに思えて、俺は腕をよせて身震いする。
「ここで、長森が来るのを待っていてくれ」
折原は暗闇の中、ドアの死角になっているところを指差して言う。
「俺が合図をしたら、後はお前に任せる。好きにしてくれ」
「……あの、本当にそんなんでいいのか?」
俺は寒さとそれ以外に震えながら言った。
「そう言っただろ」
「……お前はどうするんだよ」俺は尋ねる。
「出て行くさ、すぐに」
「……知っているのか? このこと。あの、相手は」
長森さんとは言えなかった。なんだか口にするのがはばかられた。
「長森か? もちろん知るわけないだろ」
折原は暗がりの中、どこか馬鹿にしたように笑った様に見えた。笑わなくてもいいじゃないかと思い、俺は俯く。
「……」
「いま、長森を呼んでくる。気配がしたらここで待機しろ」
「……」
俺は本当は色々と折原に訊きたい事がまだあったんだが、折原の口調に押され、何も言えずに頷いてしまう。
「じゃあ、よろしくな、しっかり頼むぜ」
そう言って、折原は出て行った。そして暗闇の中には俺一人が取り残された。
「……」
完全に折原の気配が消えたのを確かめてから、俺は大きくため息を吐いた。窓の外には漆黒の闇が広がっている。外から何か悪いものが俺の事を見ているんじゃないか。そんなことを考えて気分が悪くなる。両手で胸を押さえる
。俺はどうしてここにいるんだろうとか何度も考えてみる。でもそれは結局自分で決めたことという事に気づく。疑問は結局自分を苛む棘となって全て自分に跳ね返ってくるものなのか。痛い。胸がめちゃくちゃに痛い。
「……」
長森さん。俺は心の中で思う。こうでもしないと俺はきっと長森さんに触れることすら出来ないんだろう。寒い。胸が凍える。教室の中は凍えるように寒い。身を震わせる。
漆黒の闇の中、俺は憑かれた様にポケットを何度も何度も探る。そのたびに恥ずかしい気持ちと情けない気持ちが胸に溢れて来る。苦しい。
「はぁ…」
壁に頭をぶつける。固い壁は氷の様に冷えていて、俺の熱っぽい頭を冷ます。しかし俺は一体何をしているんだろう。
……。長森さん。長森さん。助けてよ。俺は情けないことに心の中でそんなことを懇願する。あれこれと考える。
受け入れてくれるといいが。考える。……そんなことはない。絶対にない。……そんな奇跡みたいな事あるわけない。
では、なるべく、優しくしたいと思う。そう考える。だからどうした。――何も変わらん。そう思って少し笑う。……冷たい壁に頭を打ち付ける。……でももしかしたら。……いや、絶対に無い。
これから俺が犯す行為は男として、人として最低の行為だから、許されるはずは絶対に無い。でも、それでも。考える。考える。頭が痛くなるほど考える。
だけど、罪悪感が深まれば深まるほど、同時に背徳的な期待感も深まってくる。不思議だ。内罰の声とは裏腹に心臓の音がどんどんどんどん高くなり、頬が勝手に熱くなる。考えてみれば理由はどうあれ俺にとってこれが初めて
なわけで、初めてがこんなのというのははっきり言えば恥辱であるけれど、やはりはじめてであるわけだ。
「……」
頭を何度も壁に打ち付ける。いとおしくて、恋しくて仕方ない。こんなにも俺は彼女に恋焦がれていたのか。いまさらながらそのことを認識する。声をかけたことすらないのに。すでに諦めていたと思っていたのに。
長森さんの傍にはいつも折原がいたからな。俺の初恋は始まる前からすでに終わっていた。俺は長森さんは折原と付き合っているんだとずっと思っていた。もう、折原のものだと思っていた。
……ほかならぬその折原からの誘いなんだ。別に良いんじゃないかと思う。汗ばんだ手を握り締める。……長森さん。折原が言ったんだ。犯して良いって。あの折原が言ったんだ。抱いても良いって。だから俺は、そうしようと
思う。そうじゃなければこんなこと考えもしなかった。……いや、考えても実行には移さなかっただろう。
それでもきっと、ほんの僅かだけ罪が軽くなるだけなんだろう。いや、軽くなんてならない。むしろ人に責任を押し付けるなんて、俺はよっぽど、罪が重い。自分の汗でぬかるんだ手を僕はズボンにこすりつけた。こんな汗ばん
で汚い手で彼女に触れるわけには行かない。
「……」
廊下に人の気配がする。……どうやら来たみたいだ。俺はくらくらする頭を押さえ身を起こし、逃れるように暗闇に身を潜めながら耳を澄ます。……もう迷っている暇はない。ここまできたら、あとはどう行動し、どう犯すか。
それだけだ。…たぶん、それだけだ。何度も自分に言い聞かせる。
「……」
「ここ?」
長森さんの声が聞こえる。折原の声も聞こえる。
「ああ、ここ」
教室の前で二人は立ち尽くす気配がする。自分の高鳴る心臓の音が聞こえる。俺は唾をごくりと飲み込んだ。
「浩平…?」
長森さんが言った。壁一枚隔てた向こう側。長森さんはすこし震えているようだ。それはそうだろう。新年早々こんな人気のない夜の学校にやってくるなんて、本当なら尋常なことではない。むしろ折原はよく誘えたものだ。や
はり付き合っていないと言うのは嘘なのだ。
ドクン。心臓が早鐘を打つ。
ドクン。ドクン、ドクン。
俺は声を立てずに冷笑する。今、ことの前にこんなにも高揚している自分を発見した。壁向こうに何も知らない獲物がいる。俺の存在を知らない、愚かな獲物。傍にいる人間が、どんなに信頼できない存在か知らない哀れな獲物
。俺たちの獲物。
興奮に瞳孔が開いたのか、さっきまであんなに暗いと思っていた教室がまるで嘘の様に、隅の角まで見渡せる。道中あれほど会話の無かった折原が、今ではまるで十年来の戦友の様に思える。
「電気つけないと飾りつけ見えないよ?」
長森さんが言う。意味が良くわからない。だが折原が長森さんを騙してここに連れてきた事は分かった。……ひどいな、折原。ちょっとだけ、そう思った。
ドクン、ドクン。
心臓はますます高く波打ち、力を指の先々まで運ぶ。体は火の様に熱く、湯気か何かが立ちそうだ。
「なに、浩平…」
急に音がして、二人の姿が視界に入ってくる。折原が強引に教室に連れ込んだのだ。俺のすぐ傍の壁に長森さんは惨く押し付けられた。手を伸ばせば届きそうなところに長森さんの肉体がある。あと少し。あと少しで始まる。心
臓がバクバク言っているのに不思議なほど落ち着いている。後は折原の合図を待つだけだ。俺は息を殺してその時を待つ。
「寂しかったか、長森…」
ふん、これから寂しくなるのさ。俺は思った。信じていた人に裏切られて。
「え…」
「辛かったか、長森…」
辛いのはこれからだ。俺は思った。信じていた人に裏切られて。
「どうしたの、浩平…」
「いや、なんでもない…」
嘘付けよ。俺は心の中で笑う。何がなんでもないんだよ。お前はたいしたタマだよ。思いながら俺は折原の合図をじっと待つ。
「…………」
思ったよりも時間がかかったが、暗がりに立つ俺に折原の手が触れた。それが合図だった。俺は音も立てずに長森さんの前に立つ。
……ひどいな、俺。心の中で小さく呟くと、一気に長森さんに襲い掛かる。
まず、がむしゃらに長森さんの体を抱き寄せる。自分の顎を長森さんの頭にぶつけた。鋭い痛みと血の味が口中に広がるが、俺は意に介さず左手で長森さんが逃れられないように固め、右手をずらすように動かして長森さんの以
前から気になっていた豊かな乳房を激しく揉みしだく。右手は大きな乳房では足りなくて、首筋や、腋、やわらかい太ももや下腹部を撫で回す。そしてさっきからずっと固く勃起していた自分のペニスを長森さんの腰に犬のオスの
様にこすりつける。いや、このままぶち込んでもいいくらいだ。
「浩平っ…?」
長森さんが折原の名前を呼んだ。だが折原が答えることは無い。なぜなら彼は長森さんを陥れた張本人だからだ。俺は右手で長森さんの上着を剥ぎ取ろうとする。早く直に触れたい。早く直に触れたい。柔らかい乳首を摘みたい
。吸い付きたい、むしゃぶりつきたい。俺は逆の手で長森さんの体を乱暴にゆすり、もっともっと、自分の体と長森さんの柔らかい肉とを密着させようとする。
「浩平っ…?」
また長森さんが折原の名前を呼んだ。やはり嫌がっているのか。だが、肉体的抵抗はほとんど無い。ただじっと黙って俺の行為に耐えている。それが、すごくそそる。愛らしい声が聞きたい。早く聞きたい。はぁ。俺は息を大き
く吐く。とにかく服を脱がさなければならないと気持ちばかり焦るがなかなか上手くいかない。くそ、なかなか難しい。服を引き剥がしたいのに体はくっついていたいという矛盾した俺の欲望のせいもあるが、まずなによりもこの
繋がれた手が邪魔だ。…折原、何やっているんだ? 早くその繋いだ手を離せ。長森さんから離れろ。もう、俺のものだ。そうじゃないのか? …くそ、これじゃ脱がせられない。俺は乱暴に手を振って、長森さんの服を脱がそう
とする。
「くっ…」
暗闇の中、誰かが何か言った。それが折原の苦悶の声だと気がついたときには、もう全てが終わっていた。
ドン!
すぐ耳元で壁を殴る強い音と心臓が止まるほどの衝撃。そして煌々と輝く明かり。すべてが一瞬のことだった。
「えっ…」
爆発したかのように眩い光は、広い教室の本当の片隅で繰り広げられていた俺たちの所業をまるで嘲笑うかのように照らし出す。俺は明るさに壊れそうな眼球を必死に手でかばう。一体何が起こったんだ? この明るさは俺には
耐えがたい。目が焼け死にそうだ。脳にまたたく赤い輝き。刃の様に眼底に突き刺さる。そして俺は死にかけた視界の中で見た。
昏い瞳をした長森さんが俺と折原の顔を交互に見上げてるのを。
「あ…あれっ?」
そして長森さんは言った。……。
「…浩平…?」
その言葉にいま気がついた。俺は頭を動かし折原の顔を見た。裏切ったチキン野郎の顔を見た。実際、どんな顔しているのか俺はすごく見たかった。
だけど折原は走って逃げようとする最中で、俺はあいつの後姿しか見えなかった。
「あ、…浩平!」
長森さんが壁に押しつてられたままの状態で、なんとか手を伸ばして折原を呼び止めようとしたが、そんな言葉も耳に入らないようで折原は振り返りもせずに俺達の前から消える。
「……」
「……」
そして後には俺と長森さんだけが残された。
……。
……これでどうしろというのか。俺は呆然とする。しかし目が慣れるにしたがって、ようやく俺はことの重要性に思い至る。
おい! 折原! これで本当にどうしようっていうんだ! 続けていいのか? 止めるべきなのか? ……答えを出してくれる人はいない。くそ、どうすれば。冷たい教室と電気の光の下で、すがるものは無いかと少し俺は腕に
力をこめる。腕の中には暖かい存在。長森さん。息を吐くたびに長森さんの体が大きく揺れる。運動の後のような激しい心臓の音まで体を通して伝わってくる。そして温もり。……。俺はゆっくりと長森さんを解放した。そして少
し彼女から離れる。自分が逃げられるように、そして、もしものときは飛びかかれるように。
俺は汚い人間だな。自嘲する。こんなとき、頭が上手く働かないときにも自分は冷静に保身だけを考えている。顔を手で覆い隠す。長森さんは呆然としたまま乱れた着衣も直さずにその場に佇んでいた。上着は半ば引き剥がされ
、酷い格好だ。そして死んだような彼女の表情。痛ましくて見ていられない。
それは全部自分がやったことだ。……その爆弾が胸の中で炸裂した。視界が歪む。糸の切れた人形の様に自分の体が上手く制御できない。立っているのが精一杯だ。神経が心の爆風のせいでどこかねじれたのだ。
そうだった。それは自分がやったことなのだ。自分が手を下したことなのだ。俺が闇に塗れて何をしていたのか、俺が闇の中でこれから何をしようとしていたのか、その全てがこの光の中、鮮やかなまでに暴露されていた。
「……どうしよう」
何を言っているんだ? 誰に言っているんだ俺は。長森さんが答えてくれるわけ無いだろう。あんなに酷いことしたのに。
だが実際、俺も折原のあまりな行動に、あっけにとられてどうすればいいのか分からない。それは長森さんも同じだろう。いや、今まで信じていたものに裏切られた長森さんのほうが傷は深いはずだ。
……なんだよ。もう終わりか? まだまだやりたりないぜ。下半身はそう訴える。
どうすればいいんだ? 何が一体どうなったんだ? 頭の中が渦を巻く。
目の前には傷ついた女の子がいる。
傷をつけたのは自分だ。
……逃げ……るか?
俺も折原みたいに。
ようやくその考えに思い至った。俺は弾かれたかのように顔を上げる。長森さんは呆然としたまま目も空ろで、俺のことなど視界に入っていない様に思えた。……いまなら逃げられる。
そうか。逃げちまえ。
「……」
そうか。逃げちまえ。
「……」
……くそっ。逃げないと。
「……」
いや、その前に何か言わないと。なんとかここに至った経緯を説明しないと。このままでは、逃げるに逃げられない。戯言にしかすぎないだろうが、俺は何かを言わなければならない。……だが一体なんて言えばいい? 俺には
今どんな言葉が許されている?
「……好きだったんだ」
やがて俺は静かに言った。この煌々と照らされた世界で、その言葉はあまりにも浮世離れしていて、みっともなくて、情けなくて、……そして無様だった。
「……」
そうか、そうだったんだ。――そうだったけな。
いまさらながら俺は自分の思いを再確認する。
そしてそれが酷い形で壊されてしまったということも。
堪え様も無いくらい、酷い形で壊れてしまったと言うことも。
「……本当に、好きだったんだ」
俺は長森さんに向かって一歩踏み出す。
「!!」
長森さんの体が急に反応し、慌てて俺から距離をとった。恐ろしいものの様に俺の顔を上目遣いで見上げ、体を震わし、手で精一杯の自己防御を試みている。
俺から逃れようとしている。……それも当然か。
「……なにか、答えてくれないか?」
でも、もう一歩、もう一歩だけ距離を詰める。だが、そこが限界だった。
これ以上、近づけない。
これ以上、長森さんを壊せない。
自分のわがままで、これ以上長森さんを傷つけてはいけない。
――でも俺は長森さんに何でもいいから答えて欲しかった。
……このままでは、俺はまるで言葉の通じない怪物みたいじゃないか。
そうか、俺は怪物だったのか。だから、きっと、誰も答えてくれないんだ。折原も。長森さんも。
――誰も俺の声に答えてくれないんだ。
「……ごめんね」
俺は世界の外から呼びかける。だがその声も届かないだろう。
静かに背を向けた。
「……浩平……どうして?」
後ろでそんな声が聞こえた。
どうしてだろうな。俺にはもう良くわからなかった。静かに、本当に静かに俺は教室を抜け出す。
結局俺は逃げ出した。わざと折原とは逆の方向に。それは最後のプライドだったが、自分では歩いているはずだと思っていたのに、気がつけば息を切らして走っていた。
しかし、折原が逃げた方向の以外の昇降口は開放されていなかったようで、外に出られない。どこも施錠され、閉ざされている。俺は校舎から出られずにあちこちを必死になって走り回った。
開いているはずの昇降口には逃げられない。折原がいるかもしれない。そして長森さんも。会いたくない。……会うのが怖い。
ガラスを割るのもまずい。音がする。後になってここで何かが起きたことを気づかれる。じゃあ一体どこに逃げればいい? 走る。走る。息が続かなくなる。ここは狭苦しい。閉じ込められるのは嫌だ。どこかへ。どこかへ行か
ないと。もっと広い、もっと広い開けたところへ。
気がつけば、荒い息で俺は屋上に続く重い扉を開いていた。
満天の星空が見えた。白い俺の汚い息が立ち上り、空に帰ってゆく。
馬鹿は本当に高いところが好きだな。そんなことを思う。誰かに追い詰められたらどうするつもりなんだ。呼吸が苦しい。破裂しそうなのどを手で押さえる。
だがこの夜空はちょっと綺麗だった。俺は銃か何かで撃たれたかのように両手を挙げて仰向けにひっくり返る。後頭部を痛打して涙が出てきたがそんなことはどうでも良かった。冬空は視界が滲んでいてもどういうわけか明るく
て、目が痛い。俺は手で瞳を拭う。心臓と肺が落ち着いてくると、こんどは別の理由で涙がこぼれる。俺はとんでもないことをしてしまった。もう、二度と長森さんに会えまい。それどころか、下手をすれば警察沙汰だし、そうな
ればもうこの町にはいられまい。家族にとんでもない迷惑がかかるだろう。俺は呆然とコンクリートに横たわる。もうどこへも行けない。
……狂っていた。誰が?
誘った折原か。計画を受け入れた俺か。
そして狂っていたからとしても罪は消えるのか。
……俺らの罪は消えるのか。
そして怒り。
あの野郎、一人で勝手に逃げやがって。勝手にお膳立てをして勝手にぶち壊していきやがった。一体何を考えているんだ。人のことまで巻き込んで。俺と長森さんを巻き込んで。怒りで自分の心が汚くなる。ではそれまでは汚く
なかったのか?
……長森さんを騙して体をまさぐっていた自分は?
自分の罪は無いのか?
本当に無いのか?
自分の体を震える手で掻き抱く。
俺はこの体が恐ろしい。あんな邪な欲望が俺の体に眠っていたとは、知らなかった。人を一人破壊しかねない力と欲望。光の消えた瞳。乱れた頭髪と着衣。そして闇の中、それに欲情していた自分。狩る側であることにこれほど
までに陶酔していた自分。もしもあの時光が灯らなかったら。俺は闇の中で完全に長森さんを陵辱し破壊し尽くしていただろう。俺は吐き気を催す。腹を押さえる。そして自分で自分を嫌悪した。
……くそ、俺はもう嫌だ。こんな自分が嫌だ。腹立たしくてならない。気色悪い。自分の力と体が気持ち悪い。自分の存在すら気持ち悪い。光の消えた瞳。笑いの消えた顔。何度も何度も頭にフラッシュバックする。そのたびに
体のどこかでなにかが炸裂する。嵐。体内の嵐に、俺は振り回され続けていた。俺は苦しみに一人喘ぐ。ここには誰もいない。ここには誰もいない。俺は歯を食いしばり、空を掻き毟る。
怪物め。
怪物め。
怪物め。
俺め。おぞましい怪物め。
……。
……。
疲れ果てて俺は床に横たわる。乏しい知識で冬の大三角を空に探してみたがどうしてもそれが見つからない。
この満天の星の下、凍えるような寒さの中で考える。
どこかへ。
本当にどこかへ行ってしまいたい。
でもそれがどこなのかわからない。
どこというのがどこだかわからないのは当たり前なのだが、それでもどこかへ行ってしまいたい。
白い息が唇から零れ落ち、霧散して消える。
ここはひどく寒いな。
だが、これに慣れなくてはいけないと思う。
これから俺の歩む道はここの寒さよりももっと寒いだろう。
慣れなくてはいけない。
俺は目を閉じる。
本当に寒い。
……死ねるか? このまま死ねるか?
それもいいなと思う。
……そうか、どこかというのは死の世界か。
悪くない。
まったく悪くない。俺はそこに行きたい。
怪物のような自分よ。俺はそこに行きたい。
そして、滲む世界でぼんやりと思う。
――折原もこの寒空の下、空を見上げ続けているのだろうか。
1―2
幾日か過ぎ、新学期になった。
あれから俺は魂の抜けたような日々を過ごしていた。学校なんて行きたくもない。しかし、俺は親にはあまり心配をかけたくなかった。それはくだらない理由かも知れないが、俺は何とか気力を振り起し、登校しようと思う。あ
の夜に体調すら崩さなかった自分の頑健さが恨めしい。もしも何事か起こるとしても、それまでは、最後の最後までは平穏に日常を過ごしたいと思う。あたかもそんなことは無かったかのように、日常を過ごしたいと思う。
俺は何も入っていない鞄を手に持つと家を出た。
「……」
何度も帰りたい帰りたいと思う気持ちを押し殺して、俺は道を歩く。向かう目的地は俺が罪を犯し、長森さんを汚した場所だ。正直気が重い。頭ではわかっているつもりでもどうしても自分の歩みがゆっくりになってしまうのが
止められない。
ぼんやりと物を思う。ふとしたことで立ち止まってみる。……。どれもこれも、くだらない時間稼ぎにしか過ぎなかった。その様子が人から見て滑稽で不愉快なものに見えるんじゃないかということに気がついて俺は俯きがちに
歩く。
明るい声が聞こえた。何か前のほうで騒いでいる。俺は緩慢に首をもたげた。視点の定まらない視界の先には一組のカップルがなにやら話しながら道を歩いている。
「……」
それは俺がもう捨ててしまった光景だった。俺は立ち止まり、憧れをこめてその初々しさの残る恋人達の諸作を眺める。見ていると彼らは本当に恋人になりたての様で、微笑ましい。今まで俺は、こうした人前でいちゃつくカッ
プルに対しては、心の底からの嫌悪感しか抱いていなかったのだが、今日からは違うのだ。自分に決して訪れないであろうこんなささやかな幸福を隅から覗き見ることは、羨望とどこか懐かしさを心に呼び起こさせる。僅か数日の
間に、俺はひどく年をとってしまったようだ。
若い恋人達を眺めていて、俺はほんの少しだけ幸せだった。幸福な人がいるということはすばらしいことで、本当に嬉しい。誇らしくさえ思う。そしてこんなふうに二人並んで登校するなんていう、ただそれだけのことで幸せに
なれる彼らが本当にうらやましくてしかたがない。自分の罪のせいとはいえ、事件後あんなに暗いものだと思っていたこの世界が少し明るい気持ちで見られるような気がする。やはりこの世界はすばらしいのではないだろうか。美
しいのではないだろうか。そう思う。少し心が軽くなる。俺はささやかだが強く胸いっぱいに息を吸い込んだ。乾いた冬の空気。自分の息を確かめるように何度もそれを繰り返す。意識的に閉ざしていた視界が開ける。若い恋人達
の美しい姿が見える。
「……!!」
そして俺はあんまりな真実に気がついた。前を歩く一組の恋人達。それは他ならぬ折原浩平と長森瑞佳の二人だった。
「……」
……何だ? 俺はそれはそれを認識した瞬間、固まったままその場を動けなくなる。錯覚だと思い、もう一度彼らの姿を視界に捉える。やっぱり折原と長森さんだ。錯覚ではない。心臓が凍る。世界が回る。頭が痛い。黒い疑問
が沸き起こる。……どうして。
――この情景は、この地上では起こりえないはずなのに。
……。いや、なんで、あんなにあいつらは楽しそうに歩いているのか。どうしてそんなことができるのか。あいつらはたった四日前のことをもう忘れているのか。いや、それはまったく無かったかの様に、二人は実に仲睦まじく
歩いている。
そしてそれは一体どういう了見なのだろうか。俺自身は全く忘れていないのに。忘れることもできないでいるのに。あの出来事のせいでこんなにも胸を苛んでいるのに。どうして彼らはこんな恋人同士のように明るく、楽しそう
に、並んで歩いているのだろうか。俺には理解できない。本当に理解できない。絶対に理解できない。何もわからない。
気がつけば家のベッドに潜り込みうずくまっている自分を発見した。さっきの光景は夢だったのかと一瞬だけ思ったが、自分が制服を着たままということと、床に投げ出された鞄、そして部屋の時計の針がその出来事が本当にあ
ったことを無言で語っていた。ベッドに伏せる俺の瞳からは情けないことに涙が溢れ、とめどなく溢れ、目を閉じても溢れ続けていた。折原は自分だけ救われたのだ。そして自分だけが罪を抱えて一人ここに寂しくいた。湧き上が
る怒りに任せて壁のあるほうに何度も拳を振り伸ばす。放った拳は幾度となく空を切りそれがむしろ腹立たしい。そうして俺は嗚咽した。体が憎しみでどうにかななりそうだ。あいつのことを一瞬でも美しいとか微笑ましいとか思
った自分にも腹を立てた。あのような存在を許し続けるこの地上にも同様に腹を立てた。
畜生。畜生畜生畜生畜生。すべてを恨みすべてをねたみすべてを侮蔑して、俺の三学期は始まった。
「おまえ、少し変わったか?」
よく言われるようになった。たしかに俺は変わったのだろう。自分でもわかる。あまり笑えなくなった。そしてあまり人が好きでなくなった。人と距離を置くようになった。よく泣くようになった。俺は俯いて答える。
「そうか」
「うん、冬休み、何かあったのか?」
その友人は心配そうに訊いてくる。正直、心苦しい。ますます下を向いてしまう。
「別に」
「最初のほう休みがちだったし」
「そうだな」
俺はなんだかその友人に対してさえ、休んだことがすまないという気分になってしまう。
「あと、最近よく屋上に行くけど、なんか用事でもあるのか?」
そんなことまで詮索するなよと思う。そのことは俺にとってあまり知られたくないことだった。一人になりたいから屋上に行くのに、誰かに知られては意味が無い。だがそれも当たり前か。俺はぼんやりと考える。あれこれ嫌な
ことを思いながら俺は友人の質問に上の空で答えた。
「……いや、急にあそこが好きになってね」
「……」
「……」
「じゃあ、俺部活あるから」
友人が会話を打ち切った。それはそうだろう。つまんないもんな。俺も正直ほっとした。こんな会話を続けることは本当に心が痛い。なんとか昔みたいに普通に話せるようになりたいのだが。どういうわけかそれが、それすら上
手くいかない。今まで俺はどうやって話していただろう。思い出そうとしてみたが、そのたびに自分が今までいかに短慮、軽率、不適当な言動を続けてきたことで胸を苦しめるだけだった。
「ああ、じゃあな」
俺は顔を見ずに言った。友人は教室を出て行く。会話を打ち切った友人を憎いなんていう感情は湧いてこなかった。ただただ自分のふがいなさに打ちのめされるだけだ。
「……」
引き伸ばされた時。猶予の時間。その中を俺は生きていた。長森さんの一件はなんだかうやむやになっていた。少なくとも、俺はあの事件のことが話されているのを聞いた事が無い。しかし、だからといって折原に対する俺の憎
しみが消えたわけではなかった。それは俺の犯した罪と後悔の念と同じで、胸の奥底でくすぶり続けている。
たとえば、もし誰かがここで折原のことを話しただけで、俺の心は容易くかき乱されてしまうことだろう。しかし、折原の話題を最近はどういうわけか聞くこともなく、こうして薄められて水のような日々を俺はぼんやりと過ご
している。
そして、俺が折原のことを聞かないで済んでいるのは実のところ全く幸運以外の何ものでもなかった。この学校で悪名その他高き彼のことは、他のクラスにいたとしてもごく自然と話題になったし、実際去年は授業中に転校生の
制服をオークションにかけてぼろ儲けしようとしたり、学校に紛れ込んだ傍から見たら知的障害児にしか見えない幼女を自分のクラスに編入させたりとまさに八面六臂な活躍ぶりであった。
……。
いや、無理に折原の事を思い出すのは止めよう。こうしているだけで胃がきりきり痛んでくる。しかし、彼の話題を聞かないということは少しはあの事件に彼も懲りて大人しくしているのだろうか。
……。
……参った。折原のことは極力思い出さないようにしているのに。
「……はぁ」
ため息一つつき俺は席を立つと、鞄を持ってまっすぐに家に帰る。気が向けば屋上でぼんやり日を過ごす。そんな日々が続いた。そうして季節が廻り、春が来て、いつの間にか、なりたくもないのに俺は三年生になっていた。その間、折原の消息は俺の耳にまったく届くことはなかった。