時は流れ、日は進み、屋上はいつの間にかすっかり俺のお気に入りの場所になっていた。特に放課後、訪れる人もほとんどいないここはとても落ち着く。心を休めるのにいい場所だ。しかしいつもの様に屋上に来ると今日に限っ
ては先客がいた。夕日を背景に、髪の長い私服の女性がまるでここの主であるかのように俺に背中を向けて立っていた。気まぐれな春風がいとおしむ様に立ち尽くす女性の黒髪を撫でている。
「……」
しかし俺は、正直自分のテリトリーが荒らされたような気分がしてあまり愉快ではなかった。先生だろうか。だがそれにしては若すぎる。後姿だけの判断だが、どう見ても自分と同じ年代に見えた。俺はこの学校にいる若い先生
の姿をあれこれ思い返してみたが、該当する人は思い浮かばなかった。では教育実習生だろうか。しかしそれにしては時期が時期だ。まだそれには少し早すぎる。とは言え、私服で学校に入って見咎められないとは、ちょっと奇妙
だ。
そう思っているとその先客がこっちを振りむく。気配で感づかれたのか。長い黒髪が夕日を受けて橙色に輝いていた。
「えっと、見つかっちゃった」
その女性は言った。顔を見れば俺と同じくらいの年頃の女の子。むしろ俺よりも若く見えるくらいだ。だが何で私服で? 俺はいぶかしむ。
「……」
「あの、怒らないでね」
俺が黙っていると、女の子は続けてそんなことを言った。
「……」
「あの、えっと」
「……」
それでも俺が黙っていると、その女の子はおたおたと周囲に視線を泳がせる。俺のことが視界に入っていないようだ。俺はその女の子と離れているとは言えほとんど真正面に立っているのに。女の子はあちこちと首を動かし、あ
らぬ方向を眺めている。奇妙だ。もしかして、目が見えないのか。
……そうか、聞いたことがある。俺は思い出した。確か一つ上の先輩に目の不自由な女子がいた。
「えっと、いるよね? わたし、一人じゃないよね?」
小さな声で囁く様に、まるで自分に確かめるかのように女の子はそんな言葉を呟いた。声に不安感がにじみ出ている。そこで俺はようやく気がついた。俺が応答の声を出さなければ、この人は誰かがこの場にいることを確認する
ことができないのだということに。
「……」
女の子は寂しそうに下を向く。
「……すみません、状況が理解できていなくて」
俺はなんて言って良いのか悩んだが、ここは正直に謝罪することにした。
「……」
「……」
「……やっぱりいたんだ」
しばらくの沈黙の後、顔を上げて、視点を宙に泳がせながら女の子は言った。
「ええ、すみません……状況が理解できなくて」
俺はもう一度謝罪する。声で位置がわかったのか、俺のすぐ側まで歩を進め、見えない目で俺の顔を見つめ、そして、
「……うん別に良いよ。勝手に私服で入ってきたこっちが悪いんだし」と言った。
「……先輩、たしかこの間卒業した先輩ですよね」
俺は確認のため尋ねる。
「うん。わかる? 有名かな。わたしは」と、言って先輩は少し照れたのか、顔を赤らめる。
「ええ、名前まではわからないんですけど」
「そうなんだ…」
俺の無思慮な言葉に先輩が表情を曇らせる。俺は慌ててまた謝罪した。
「あ、すみません」
「いいよ、そういうのは、しかたないよね。わたしは川名みさき」
先輩は自分のあごに手を当てて、ちょっと寂しそうにも見えるような柔らかな笑みを浮かべながら自己紹介する。
「そうですか、すみません。じゃあ、これから先輩と呼びます」
「みさき、でいいよ」
「いえ、それじゃ俺のほうがなんだか困ります」
俺は困惑して言った。初対面でおまけに年上の女性をいきなり呼び捨てにするのはどうもはばかられる。
「困ったね」
「では、みさき先輩というのはどうですか?」
どう見ても先輩の表情は困ったものには見えなかったけれど、俺はあれこれ必死に考えて妥協案を提出した。
「うん、それでいいよ」みさき先輩は楽しそうに頷く。その様子は俺の困惑ぶりを楽しんでいる風にも見える。
「そうですか、それじゃ、これからそう呼びます、みさき先輩」
俺は安堵しながら言う。いや実際、俺は激しく混乱していた。屋上に見も知らぬ私服の先輩が立っていて、その人は目が不自由で、いや、目が不自由だからこそ俺なんかに言葉をかけてくる。想定外のことだった。確かに屋上に
は俺以外の人は全くこないということは無いし、実際、幾人の姿を見かけたことはある。だが、その人たちは目が見えるわけで、俺に向かってわざわざ『いるよね』なんてことを言うわけが無い。つまりここで声を掛けられたのは
実際今日が始めてのことだった。
「えっと、私の目のことは知っているんだよね?」
俺がそんなことを考えているとみさき先輩が言葉を発する。俺はまた正直に答えた。
「……ええ」
「……」
「あの、さっきは本当にすみません。気がつくのが遅くて」
「大丈夫。慣れてるから大丈夫だよ」
そう言って先輩は大丈夫のゼスチャーをする。俺は無意味にも頭を下げて謝った。
「すみません」
俺の謝罪の言葉の余りの多さに、みさき先輩は少し苦笑した様だった。
「きみは何年?」みさき先輩が訊いてくる。
「俺は三年になったばかりです」
「そっか、一つ下なんだ」
少し驚いたように言う。……そんなに三年らしくないかな。
「はい…」
「ここへは良く来るの?」
「ええ、三学期のあたりから」
「じゃ、私と入れ違いだね」
「そうなんですか」
「うん、ここは私のお気に入りの場所だったんだ」
「……じゃあ、俺はみさき先輩のちょうど後釜ということですね」
「そうなるね」
みさき先輩は笑って腕を上げて、体をうーんと伸ばし風を感じるように軽く体を一回転する。そして信じられないほどの正確さで俺の顔を見上げると、笑みを浮かべていった。
「そっか、もうここはきみの場所なんだ」
「いや、先輩が使いたいならいつでも使っていいですよ。別に決まりがあるわけじゃないですし」
そんなことを言われても困る。ここは誰のものではないし、別に許可があるわけじゃない。じっと見上げられて混乱したせいもあったが、俺は変な生真面目さを発揮して、慌ててみさき先輩に言う。
「……そうなんだ、ありがと。じゃ遠慮なく使わせてもらおうかな」
「って、卒業してからもよくここに来るんですか?」
「うん、懐かしくなるとね」
意外な言葉に俺は驚く。しかし、
「…そうなんですか。でも先輩、わざわざこんなところまで来るのは大変じゃないですか?」
俺は疑問を口にする。目が不自由なのに、わざわざ卒業した後もここにくるのは大変だろうと思う。
「ん、それは大丈夫。私の家すぐそばだから」しかし俺の疑問はあっさりと答えられる。
「あ、そうなんですか」俺は少し拍子抜けした。ここまでくるのにどれほどの苦労があるだろうと思ったが、そんなことはないようだ。少し安心した。
「うん、大丈夫」
そしてみさき先輩は笑う。
「あ、あと、先生には黙っていてね。こんなところ見られるのは、ちょっと恥ずかしいよ」
「あ、すみません」困ったな。そんなことを言われるとまた謝ってしまう。
「あ、いいんだよ」みさき先輩は手を振って答える。そして会話が不自然に途切れた。
「……」
「……」
俺は何回『すみません』と言っただろう? 急に会話が途切れて俺はそんなことを考えてしまった。これは実際されるほうはかなり不快なのではないだろうか。何だか媚びている様で。
「ねえ」
あれこれ考えているとみさき先輩に唐突に声を掛けられて俺は驚いた。
「はい?」
「ここ夕焼けが綺麗だよね?」
夕闇の中、みさき先輩が無邪気な笑顔をたたえて俺に聞いてくる。
「ええ、俺も好きです。心が落ち着くというか」
俺はそう答えた。実際ここへは夕焼けを見に来ていると言っても過言ではない。ここは本当に夕焼けの特等席で、正直今まで話題になっていないのがおかしいとすら思っていた。周りに余り高い建物が無く、西空いっぱいを焼き
尽くしながら山の端に没してゆく夕日は本当に綺麗で何時見ても飽きない。先輩の言うとおりだった。
「わたしが卒業しても変わらないんだね」先輩が言葉を続ける。
「まだ先輩が卒業してから少ししか経ってないじゃないですか」俺は答えた。
「そうなんだけどね」
「そうなんだけど?」
俺は鸚鵡返しに訊いた。するとどうしたわけか先輩は顔を赤らめてしまう。そして小さな声で言った。
「ううん、なんでもないんだよ」
「……」
俺は答えようもなく沈黙する。あれこれ詮索するのは無粋だし、きっと先輩には色々言いたくないことがあるのだろう。それよりもわざわざ訊き返したりしなければ良かったのに。俺はそのことを悔やんだ。俺がまた余計な気遣
いをしているとみさき先輩が静かに言った。
「……そろそろ、戻ろうかな」
「……ええ、そうしたほうがいいと思いますよ。そろそろ最終下校時間ですから」
「あ、もうそんなになるんだ」
みさき先輩はいまさらの様に驚きの声を上げる。
「ええ」
俺は腕時計を見ながら言葉を返す。
「じゃ、わたし帰るよ」
「……先生に見つからないように、お気をつけて」俺は言う。
「うん、それは大丈夫だよ」
俺はみさき先輩の自身ありげな言葉に首を傾げ、答えを待ってみたが、すぐにそれでは相手がわかってくれないことに気がついた。疑問を実際に口にする。
「どうしてですか?」
「巡回のパターンがあるんだよ」
それは知らなかった。俺は素直に感心した。
「さすが先輩」
「だてにとしは食ってないんだよ」
と、言ってみさき先輩はにっこり微笑んだ。
「いやみさき先輩は俺より若く見えますよ、きっと」その笑顔がちょっと綺麗だったので俺は少し顔を赤らめた。
「ふーん。わたしにはわからないんだけどね」
俺の言葉にみさき先輩は可愛らしく首をかしげる。
「まあ、私服というのは目立つかもしれません」
俺はちょっとまずい領域に話題が入り込みそうだったので慌てて話題を修正する。
「じゃあ、こんどから制服にしようかな」
みさき先輩は青のスカートの端っこをちょっと摘むとそんなことを言った。
俺は笑って「ははは、まだ似合いますよ、きっと」と答える。後で思い返せば、俺が笑ったのは本当に久しぶりのことだった。
「そうかな?」
「ええ、そうです」俺は保障する。
「うん、覚えておくよ」
「ええ、それじゃ」
「うん、またね。バイバイ」
そういうとみさき先輩は軽やかな身のこなしで何の迷いも戸惑いも無く屋上を後にした。そのあまりの自然さに俺は目の見えないはずの先輩の手助けをしなければと思うことすらできない。
「……不思議な人だな」
そして屋上に一人残された俺は小さく呟いた。四月の風が春の香りを運んでくる中、俺は奇妙な昂揚感に囚われていた。人とこんなに普通にしゃべったのは本当に久しぶりだった。なんだかとても胸が温かい。
俺はしばらくの間、この場所を離れることが出来なかった。何か変わりそうな気がほんの少しだけした。夕暮れの風が本当に心地よく、戯れに俺はさっきみさき先輩がしたように手を広げてその風を受け止めてみる。そして最終
下校時刻を告げる放送部のアナウンスが聞こえる中、俺は金網に寄りかかり、そっと目を閉じた。
まあまあ上手く応対できたかな。実際先輩が俺のことをどう思ったか確かめるすべは無いけれども、それなりに上手く応対できたんじゃないかと思う。
しかし、そう考えるのはよくないなと思う。俺はこの出会いをどう思っただろうか。
……。
楽しかった? そうだ、楽しかった。そしてそのことがすごく嬉しい。そして先輩も同様に喜んでくれればいいがと思う。
(怪物が)
弾かれたように俺は目を見開いた。しかし目の前の光景は何も見えない。眼底を忌まわしい記憶が雷光の様に駆け巡る。
…何を楽しいなんて言っているんだ俺は。輝きの消えた瞳。……また思い出してしまった。あのことを。胸がむかむかする。二人きり。あの匂い。あの声。
(怪物が)
楽しい? 楽しかった? それは何だ? 俺に言えた義理か? 俺にそんなことを言う資格があるとでも?
怖い。普通にあの盲目の先輩と話せてしまった自分が怖い。いつ自分の中の下劣な怪物が目を覚ますかもしれないのに。どうして俺は。
――あんなに楽しそうに先輩と話せるのだ?
「嫌だ」俺は心の中で泣き叫ぶ。
このまま罪悪感に支配されたまま生きるのは嫌だ。怪物なんかになりたくない。俺は話したい。俺は普通にしゃべりたい。初めて会ったばかりだけどあの優しい先輩とまともに話したい。自分の罪の意識はそれすらも禁じるのか
。
……どうすればいい?
一体、どうすればいい?
俺は必死に考える。このままでは駄目だと思った。あの事件のことをこのまま放置することは良くないと思った。
(こんど、もし、機会があったら)
歪む視界の中ぼんやりと考える。
(長森さんに言って謝罪しよう)
今度というのが何時かわからなかったし、それがどのような形になるかはわからなかったが、それでも心が少し落ち着いた。とにかく、この状況を打破しなくてはならない。俺は屋上の上でそう決心した。
2―1
そしてそれは偶然だった。
夏服を着ようか冬服を着ようか迷うような、そんな陽気の日のことだった。放課後、いつもの様に俺は屋上に佇み、眼下に広がる風景をぼんやりと眺めていた。
視界の下にはさまざまな部活がさほど広くない校庭をそれぞれが邪魔にならないように分け合って練習をしているのが映っている。
俺はしばらくの間、いつもの様に彼らや彼女らが汗を流しているのを見物していた。やがてそんなパズルみたいに細々と分けられた部活動の練習風景を眺めるのもいいかげん飽きて来て、首をほぐすように曲げると、俺は屋上に
自分以外の人間がいることに気がついた。
(みさき先輩か?)
と思ったが、そうではないことはすぐに分かった。その人はいつ来たのか屋上の片隅に座り込んで、なにやら桃色のぬいぐるみを両手で肩の高さまで掲げている。見知った顔の人だった。俺はその女の子のことを良く知っていた。
……。
少しウェーブのかかった栗色の長い髪。
……。
その髪を後ろで束ねる山吹色のリボン。
……。
それらが緩やかにそよぐ風に吹かれてゆらゆらと揺れている。長森さん。俺は心の中でそっと呟いた。
……。
長森さんはどうやら俺の存在に気がついていないようだった。しかし久しぶりに見た長森さんの端正に作られた顔はどういうわけか悲しみに沈んでおり、その瞳は彼女と向き合うように掲げられたぬいぐるみの目だけを捉えてい
た。そんな長森さんの様子は、まるで彼女がそのぬいぐるみと話か何かをしているかのように俺には見受けられた。
長森さん。俺はまた心の中で呟いた。声をかけることはできなかった。そんな彼女の様子を黙って見つめているだけだった。
そして俺は一月四日の出来事を思いだし、一人戦慄した。嫌な記憶がいつものように目を覚ます。あの日の出来事がどんどん心に浮かび上がって来る。胃のあたりがきりきり痛む。胸が締め付けられる。頭の中がぐるぐる回る。
帰りたい。
そう思った。あの扉を抜けて。俺は憑かれた様に校舎内に続く鉄の扉を見つめる。あそこまで、長森さんに気づかれずに辿り着けるだろうか?
俺はゆっくりと通用口の方に進んでいった。彼女の邪魔をしないように、そして、彼女に気づかれないように。でも、半分まで着たところで長森さんがゆっくりを顔を上げた。俺は歩みを止める。そして長森さんは視線を俺の方
へと向けた。
「あっ…」
そんな声がした。声を出したのはもちろん長森さんだ。その声を聞いて俺の心はきりきり痛んだ。しかし長森さんは今まで自分がしていた行為を何か恥じいるかのようにぬいぐるみを下に隠すようにして置いて、少し頬を染め、
そしてぺこりと頭を下げた。
俺も反射的に頭を下げる。そして考える。
――もしかして気づいていないのか。ならばこのままここを立ち去ろうか。そんなことを考える。だがまたすぐに思い直す。
「こんどあったらきちんと謝罪しよう」
そう決めていたんじゃないのか俺は。
「きちんと謝罪しよう」と。
……。
大きく息を吐く。
そして俺は意を決した。心の中のきりきりの音がまた近く、そして高くなる。それはさっき以上に俺を苛む。だが、ここでそれに負けるわけにはいかない。ここで罪悪感に負けることはすごくすごく惨めなことだ。負けるわけに
はいかない。
「長森さん」俺は言った。
長森さんが俺の顔を見る。冷たいまなざしをしている、そう思った。俺が誰か、どんなことをした奴か気づいた様に思える。……。そして二人きりと言うこの状況はあの時に酷く似ていた。正直怖い。背筋が震える。のどまで出
かかった言葉がまるで一人、見捨てられるのを怖れるかのように絡まる。声が出ない。
「……」
長森さんはいぶかしげな表情をして俺の様子を伺っていた。
――何か言わなければ。そう思った。のどを鳴らす。
「……今日は折原といっしょじゃないの?」
結局、のどが発するのを許可した言葉がこれだった。……また自分が嫌になった。俺は顔を背ける。どんよりとした雲が見えた。
「……おりはら……?」
長森さんが呟く。
しかもよりによってあの男の名前を。
「そう、折原浩平。いつも長森さんといっしょにつるんでいるあいつ。今日はいつも見たくいっしょにいないけれど。どうしたの今日は?」
早口で呟きながら俺は思う。俺にあんな事をさせた男の名前を口にするなんて、あまりにも惨めだった。
……知らず、周りの景色が暗転し見えなくなる。惨めだ。くそ、涙まで出てきやがった。
「……」
あんなやつのことの話題でしか長森さんに話しかけることができないなんて。…まあ、そういえば元から接点なんてものは無かったんだよな。ははは。俺は心の中で一人虚しく自嘲する。
「……覚えているの……?」
長森さんは言った。ああ、忘れるものか。絶対に。ゆるさない。あいつのことは。そしてもちろん、自分のことも。ゆるせない。自分が。あんな事をした自分が、あんな事をさせようとした、折原が。長森さんにあんな事をしよ
うとした自分が。長森さんにあんな事をさせようとした、折原が。たぶん、許してもらったとしても。長森さんに許してもらったとしても。世界中の人たちから許してもらったとしても。たとえ、神様に許してもらったとしても許
せない。自分が。そして、折原が。たぶん、一生。……一生だ。
………………。
後は、もう言葉ではなかった。言葉にならない、罪悪感と憎しみと絶望が、俺の心の中を暴れ回る。
「覚えて……いるの……?」
今度ははっきりとした声。まるですぐ隣で発せられたような。
だから忘れるものか。俺は目を見開く。そして驚いた。
視界が戻る。
すぐ目の前に長森さんが立っていた。俺は慌てて距離をとる。
長森さんは泣いていた。
赤みがかった大きな瞳から大粒の涙をぼろぼろとこぼしていた。
俺はその姿に何かいたたまれないものを感じた。
「浩平のことっ、覚えているのっ!」長森さんはもう一度強い語調で言った。
「ああ……。覚えて、いる……けど……」
俺は疑問を胸に抱いたまま、信じられないほど弱々しく頷き、長森さんに答えた。だが、どうして長森さんは俺にそんなことを訊ねるのだろう。覚えている? それは一体どういう意味なんだ?
「……そうなんだ、わたしだけじゃないんだ」
どこか悲しそうに、でも嬉しそうに長森さんはそんな言葉を口にする。
「? いったいどういうことだ?」
俺は訊く。勝手に得心されてもこっちとしては困ってしまう。
「……」
「……」
長森さんは涙ぐんだまましばらく黙っていたが、やがてそっと涙を拭うと、
「えっとね。上手く言えないんだけど……」
そんな前置きすると長森さんはポツリポツリと話し始めた。折原のこと。折原の幼い頃の契約のこと。えいえんのせかいのこと。折原は長森さんを置いてその世界に旅立ってしまったということ。でも長森さんは折原が帰ってくる
ことを信じているということ。それは二人で約束したから。そしてこの世界の人はみんな折原の存在を覚えていなくてただ一人長森さんだけが覚えているということ。自分には理解を超えた話だった。
「でも一人じゃなかったんだ……よかったよ」
そして安堵したように最後に長森さんは付け加えた。
「……」
俺は黙って長森さんの言うことを聞いていた。正直信じられない話だった。そんなことがあるはずがないと思った。えいえんのせかいなんて話は理解できない。死後の世界とは違うのか? 忘れ去られるとは一体何故なんだ?
疑問があとからあとから湧いてきて、頭の中で渦を巻く。
「やっぱり、信じられない」
俺はかぶりを振るとそう答えた。
「……そう。……やっぱり、そうだよね。でも浩平のこと覚えている人が一人でもいてくれて嬉しいよ」
「ほんとうにそうなのか? みんな折原のこと忘れてしまっているのか?」
「……うん、確かめてみれば分かると思うんだよ」
言って長森さんは寂しそうに笑う。
「……そうか」
確かめてみる…か。折原のことを周囲に聞いて回るのか。折原の痕跡を廻るのか。瞬間的に胸に不快感がこみ上げる。……はっきり言って嫌だ。
「……。考えておくよ」
俺は言った。そして背を向ける。
「うん…」
「じゃ、俺、これから用事あるから」
「うん…」
俺は歩み去る。何か言わなければいけないことがあったはずだが、長森さんの話のせいか、全て頭の中から抜け落ちていた。蛆の様に湧いてくる疑問に頭を悩ませながら気の抜けた夢遊病者のようにふらふらと疲れた足取りで、
俺は長森さんを残し屋上を後にした。
家に帰って風呂に漬かっている時にようやく俺は俺自身の罪深さを思い出す。
「……」
すっかり忘れていた謝罪の言葉。恥知らずな自分。余りの自分のふがいなさに頭の中で火花が飛んで俺は頭を湯船に沈めた。鼻に自分や家族の汗その他が混じった汚い湯が入り込み、むせて咳をする。
「……」
一体何をやっているんだ。俺は額に手を当てる。湯がはねて、辺りを濡らした。
……ふと、屋上で見た長森さんの泣き顔を思い出した。
悲しみに沈む長森さんの姿を思い出した。
胸が痛くなった。だから俺は独り言を言った。
「……確かめて、みるかな」
それは俺が彼女に負わせた傷へのあがないになるかもしれない。つまりは、そう俺は決心した。
そして、次の日から俺は、それとなく折原の話題を周囲の人に話してみることにした。確かに折原の事を覚えている人間はいなかった。それではと、次に彼のことを良く知っているはずの連中に折原の話を振ってみることにして
みたのだが、こっちも驚いたことに誰も折原のことを覚えている人間はいなかった。長森さんの話は確かに本当だった。だがよくよく探せばいくつか折原の存在した痕跡はあちこちに残っている。上からボールペンの二重線で消さ
れた名簿、いらないものとして二年のときの教室のロッカーの後ろに詰まれていた折原の荷物。俺は何回もそれらの遺留品を折原の存在の傍証として示してみたが、鼻で笑われただけだった。誰もそれを認識しない。まるで世界中
が折原の存在を消しにかかっている。そんな感じに俺には思えた。道理で誰も折原の話をしないわけだし、俺がいままで折原の話題を耳にすることが無いわけだ。折原はこの世界から消えてしまったのだから。長森さんの言葉を信
じるのならば、えいえんのせかいに旅立ってしまったのだから。
そのなかで長森さんだけが折原の記憶を持ち続けている。そして、どういうわけか、この俺も。
(俺も忘れてしまえれば楽なのにな)
正直、そう思う。折原のことを一番忘れたい人間はおそらく俺だ。なんで他のどうでもいい奴から彼の肉親までもが、折原のことをすっぽりと忘れてしまっているのに、忘れたいとこれほど願っている俺は折原のことを忘れてい
ないのか。不条理だ。
しかし覚えている以上は仕方ない。そういうものなのだ、きっと。自分を納得させてみる。だがどうして二人だけが覚えているのだろうか。
俺の方はきっと心からの憎しみで。長森さんの方はきっと、……腹立たしいことだが折原のことが本当に好きなのだろう。でなければ覚えてくれている人がいたというだけの事であんなに喜ぶはずがない。きっと、本当に好きな
んだろう。実際、これも不条理だ。俺にとっては。あの事件を知る俺にとっては。
「不思議ですね」
屋上で俺は言った。隣には制服姿のみさき先輩がいる。制服姿なのはどうやら俺の言ったことを真に受けた様だった。まあ、実際似合っていたからそれは構わない。しかしつい興味深げにじろじろ見てしまったが、それはは別に
邪な理由があったわけでもなく、みさき先輩はこんな格好で学校にいたのか、どこかで以前ひょっこり見た事は無いだろうかと思っただけだった。
そういえば話の途中だった。俺はみさき先輩に折原のことを話していたのだ。俺は言葉を続ける。
「つまり、その長森さんの言ったことはどうやら本当みたいなんですよ」
「不思議だねぇ」
みさき先輩は本当に驚いているんだろうが、様子を見ているとなんだか可愛らしい仕草だ。俺はどういうわけか少し顔を赤らめ先輩に同意した。
「ええ、本当に不可思議です」
そこで俺は思った。案外こういう人は多いのではないだろうか。記憶から消されてしまうのならば、俺たちにはわかりようが無いし、後になって調べることもできない。
「もしかしたら、他にも折原の様にいつの間にか世界から消された人間がいるのかもしれないですね」
「……なんか、そういうの、嫌だよね」
ふと思いついただけの俺の言葉だったが、みさき先輩は顔をしかめる。
「ええ、気がつくこともできずに周りから人が消えてしまうと言うのはあまりいい感じしないです」
俺は静かに相づちを打つ。
「それが友達だったり好きな人だったりしたら、悲しいね」
「そうですね……」
「わたしも、もしかしたらその……」名前のところでみさき先輩は言葉に詰まる。
「折原浩平」俺は小さな声で言った。
「浩平くんに会ったことがあるのかな?」
「……そうかもしれませんよね」
「もし、そうだったら、なんか、その浩平くんに済まないよ」
みさき先輩は下を向いてしまう。その本当に悲しげな口調に俺も俯いた。床には、二つの影が絡まることなく屋上の端まで長く伸びている。
「……」
「……」
そして二人とも黙った。俺は折原のことなんて本当はどうでもよかったが、みさき先輩はほんとうにすまなそうに俯いている。それを見ていて俺はなんだか悲しくなってしまった。あんな奴、別にみさき先輩の同情に値するよう
な人間じゃないのに。無意識のうちに俺は指で屋上の金網をカチカチ叩いていた。
「どうしたの?」
「いえ、ちょっと。…あまり深刻に考えないほうがいいと思いますよ」
俺は金網の錆が付着した手を引っ込める。
「でも、その長森さん、かわいそうだね」
「ええ、本当に可哀想です」
これは俺の本心だった。確かに好きな人が自分の側どころかこの世界におらず、二度と会えそうも無い、連絡も取れない、そしておまけに、周りの人みんなに忘れられてしまっていると言うのは、もしかしたらその人が死んでし
まうことよりも辛いことなのかもしれない。周りの人に忘れられてしまったら、その人のことを懐かしく話すことも出来ない。……。実際それはどっちが悲しいのだろうか。よくわからない。
「でも、どうして覚えているの?」
俺があれこれ考えていると不意にみさき先輩が尋ねてきたので俺はうろたえる。
「え、俺のことですか?」
言って俺はみさき先輩にはわかりえないにもかかわらず、自分のことを指差した。
「うん。何できみは恋人でもないのに浩平くんのことを覚えているのかなぁーって」
にっこり笑顔でみさき先輩は訊いて来る。
「…俺は…」
俺は口ごもった。正直にはもちろん話せない。そういうことをみさき先輩の前で口にしたくない。憎しみの感情を人の前で晒すことは恥を知らない人間がすることだと思う。
「うん」
「えっと…」
嫌だな。考えれば考えるほど苦い記憶が目を覚ます。こんな黒い感情をみさき先輩には悟られたくなかった。防衛本能が働き――、…俺は何も言えなくなる。
「うん」
みさき先輩は相づちを打って俺の返事を待っている。なんか答えなければならない。気持ちばかりが焦ったが、どうにも言葉が出ない。
「……」
「……」
「……俺は特別な人間だから……かな」
そして俺は切れ切れに言った。頬が熱くなっているのが分かる。下手な冗談でも自分で自分をほめるというのはこの上もなく恥ずかしい。が、本当のことをいうよりはずっといい。俺は進んでへたくそな道化を演じた。
「…へえ、そうなんだ。こんどから気安く呼べないね」
「からかわないでください」
「からかっているのはそっちだよ?」
みさき先輩はにっこり微笑んで言う。口元は笑っていたけど表情は真剣だった。俺は下を向き、黙り込む。
「……」
黙っているとみさき先輩が尋ねてくる。
「好きなの?」
「誰が!!」
俺は思わずその言葉に激発してしまう。
「……じゃあ、嫌いなんだ」
誘導尋問に引っかかったと思ったときにはすでに遅かった。俺はみさき先輩の言葉に息が止まる。
「忘れられないくらい、嫌いなんだ」
「……」
そう言ってみさき先輩は手を後ろで組んでおどけた笑顔を見せる。その様子はまるで、(きみのこころはわたしぜーんぶ分かっているんだよ)と言っているみたいだった。
「……先輩」
俺は敗北感にうなだれた。知られてしまった。顔が真っ赤になる。下を向く。
「つらいね」
先輩が言った。
「……先輩に知られたことが辛いです」
俺は下を向いて呟く。
「わたしは先輩だから、先輩はちゃんと後輩の面倒を見ないとね」
みさき先輩はこっちに向かって歩きながら心から楽しそうに言う。肩でもぽんぽんと叩いて慰めてあげようとでもしたのだろうか。だが俺はその行為には耐えられなかった。慌てて先輩から距離をとる。
「……?」
思っていたところに俺の姿が無いのでみさき先輩は意外そうな顔をする。
「……いや、ここにいますよ」
心配をかけたくは無かったので俺は声を出した。
「……そう」
みさき先輩は寂しそうに言った。避けられていると思ったのかもしれない。いや、そう思っている。俺の胸はちくちくと痛んだが、弁解は出来なかった。目を伏せる。こうやって俺はまた人を傷つけている。……。
「泣いてるの?」
唐突に尋ねられた。そうか俺は泣いていたのか。涙こそ流してなかったけれど、俺は確かに泣いていた。自分の惨めさに泣いていた。
「いえ、それはきっと俺が悪いんです」
「わかんないけど、そんなことないと思うよ」
その言葉はとても遠くから聞こえてくるように思えた。俺は言った。
「いえ、きっとそれは全部、俺が悪いんです」
――みさき先輩からの答えは無かった。
2―2
それからしばらく経った、ある雨の日の放課後のことだった。閑散とした長森さんのクラスで俺は折原のことについて聞いて回っていた。実際その時を見計らっていたのだが、教室に長森さんの姿は無い。なんとなくだが長森さ
んのいる前ではこんなことはしづらく思えたのだ。それはあの時の出来事のせいもある。俺は折原が在籍するはずだったクラスをきょろきょろと見て回り、一人の女生徒の前で立ち止まると言った。
「ちょっと、この名簿、上から順に読んでくれないかな」
「嫌です」
「……そう」
手痛い先制パンチだ。俺は諦めて後ろの確か住井と言う男子生徒に尋ねてみる。
「じゃあ、ちょっと悪いんだけど、この名簿上から読んでくれないかな」
「……まあ、いいけど」
その男子生徒は律儀に声を出して上から順にこのクラスの生徒の名前を読み上げてゆく。しばらく俺はそれを聞いていたが、やっぱりなと思って制止する。
「あ、もういい。わかった」
「おい、まだ俺は『か』のところまでしか読んでないぞ」
「いいんだよ」
俺は言った。やはり折原のところは読み飛ばされていた。俺はポケットからもう一枚名簿を取り出し、比較させるように横に並べる。
「んで、さっき読んでもらったのは二年のときの名簿なんだけど、これは三年のときの名簿。違いが分かるか?」
俺の言葉に男子生徒はいかにも訝しそうに声を出す。
「……同じだろ。うちの学校は二年から三年はクラス換えなしだろ?」
「よーく目を凝らしてみろよ。当たったら千円あげるよ」
「ホントか?」
俺の言葉にいかにもやる気のなさそうだった住井が目を輝かせる。
「ああ、嘘は言わないよ」
俺は安請け合いをした。
「……」
安請け合いのせいで俄然張り切ったのか、住井は目を皿の様にして食い入るように二つの名簿を見比べる。しかし、思ったとおり違いが見つけられないようだ。しばらくして観念したように顔をあげて言った。
「いや、降参、マジでわからん」
「うーん。『お』のところを見比べてみろよ」
「お?」
「ほらここ。二年のときは一人名前が多いだろ」
「あれ、ほんとだ。誰だこいつ? えーっと……おりはらこうへい? こんな奴クラスにいたっけ?」
「いたんじゃねーの? 名簿に書いてあるんだから」
どうも男相手だと必要以上に柄が悪くなるな、自分。少し反省する。
「里村さん、こいつ知ってる?」
さっき『嫌です』といった女子に男子生徒は尋ねた。ふーん。さっき俺が声をかけようとして断られた女子は里村という名前なのか。尋ねたのは別に不埒な理由があったわけではなく、たまには女子にも聞いてみようと思ってみ
ただけなのだが。
「……いえ、知りません」横目でちらりと俺たちのほうを見て女生徒は答えた。
「? でも何で分からなかったんだ? おまえなんかした? なんかのトリック?」
「いや、違う」俺は断言する。
「は、何でこんなの見落としたんだ俺?」
「さあ? でも誰がやっても見落とすと思うね」
「はぁ? 何でこんな簡単なの見落とすんだよ」
「現に見落としてるじゃないか?」
俺はありのままの事実を告げてやる。しかし面白いようにみんな折原のことを認識しない。そして教えてもあまり覚えていてくれない。まるで世界のどこかから折原に関する情報を脳に記憶しないようにって言う電波でも発信さ
れている様だった。
「うーん」
「……」
「で、見落とした名前、誰だっけ?」
やはりこういう質問がくる。でもいくらなんでもちょっと早いぞと思う。それは折原の痕跡さえもだんだんと薄れてゆく結果なのか、それともこの住井という男子の記憶力が格別に弱いのか。やれやれ。俺は答える。
「折原浩平」
「えーっと、どこに書いてあったっけ……」
「……ここだよ」
俺は眼を泳がせているその男子に指で示してやる。
「おー、あったあった。で、こいつ誰だっけ?」
「クラスメイトだろ? 本当に覚えてないのか?」
ちょっと棘のある言い方になってしまったかもしれない。でもそんなことは気にしてないようだ。正直ありがたい。
「うーん、知らんなぁ。里村さん、覚えてる?」
また住井が隣の女生徒に助け舟を求める。
「……いえ、知りません」
さっきは嫌ですといわれて少し不快だったが、こうしてみるとなかなかかわいい顔立ちの人だ。ほこほこした焼栗を思わせる明るい黄色の髪で作った大きなお下げがチャームポイントか。
「目立たない奴だったんじゃないの?」
「そうかもな。でもみんなに忘れられてしまっているというのはどうだ?」
俺はちょっと踏み込んでみる。この住井と折原がどういう関係だったのかは知らないが、結構馬が合いそうに思える。間抜け具合とかが。もしかしたら友人だったのかもしれない。
「はぁ、そんなことあるわけないだろ」
しかし逆に心底馬鹿にしたように言われる。確かにそうなんだがやっぱり心外だ。
「可能性として言ったまでだが……」
とはいえ説得できる事柄ではないので俺の声はトーンダウンする。
「うーん」
その男子も考え込む。助かった。案外こういった話が好きなのかもしれない。俺は言葉を続ける。
「例えば、この世界から消えてしまって、それから人々の記憶からも消えてしまう、とか」
ガタン。
「どうしたの? 里村さん」
不意に立ち上がった少女を見て、少女の隣に座っていた別の男子が尋ねる。たしか南と言ったはずだ。
「いえ、なんでもありません」
そう言うと、里村さんと呼ばれた髪の長い女子はまた席に座り直す。
「んで、そんなことがあるわけないじゃん」
住井はそんな女子の様子を少し驚いて見ていたが、向き直ると言った。
「でも覚えていないんだろ?」
俺は重ねて質問する。
「いや、これ名簿のミスだって。俺こんな奴の名前聞いたことないよ」
「そうかな。……まあ、そうかもしれないな」
「こんなこと聞いてどうするんだ?」
「ちょっとミステリーだろ?」
折原の話はいつもこうやって締めくくることにしている。身近にあるミステリーというの結構人の関心を呼ぶものらしく、これで本気に怒られたことは今のところない。とはいえ、普通こういった学校の怪談じみた話はあっとい
うまに校内に広まって、逆に俺に『この二つの名簿見てよ』と尋ねてくるようなことがあってもいいものなのだが、あいにく、俺以外に折原のミステリーをする人の話を聞かない。やはりどこかで途切れてしまうようだ。まあ、そ
れはどうでもいいことなのだが。
「うーん、まあな。見慣れていたはずの名簿にこんな秘密が隠されていたとはねぇ」
言って男子は腕を組む。
「じゃあ、時間取らせて悪かった」
「ああ、じゃあな」
「……」
俺は付き合ってくれた男子生徒にありがとうを言うと、折原がいたはずのクラスを後にしようとして急に背中に痛いほどの視線を感じ、入り口のところで振り返った。
「……」
さっき里村さんと呼ばれた女子が俺のことをじっと見つめていた。
「……」
俺が視線を合わせると、その女子はすぐに視線を逸らしたけれど、その様子が見るからに怪しい。何か知っているのかと思い、訊いてみようと思った。俺が行こうと決心したその時、座っていた女子は静かに席を立ち、鞄とピン
クの傘を持ってこっちに向かって歩いてくる。
「……あの」
俺はすれ違いざまに彼女に呼びかける。
「逆です」
「は?」
唐突な言葉に俺の思考回路が固まった。
「……みんなが忘れてしまうから、しょうがないからその人は、この世界から消えてしまうんです……」
「……」
俺がその言葉の意味を考えているうちに彼女は僕の目の前を素通りして歩み去ろうとする。俺は慌ててその後姿に呼びかけた。
「あ、待ってくれないか?」
だが、その女子は立ち止まってはくれなかった。
「……」
行って引き止めることは彼女の背中が拒否していた様に思えて、俺は伸ばしかけた手を引っ込めると、少女の寂しそうな後姿を黙って見送ることしか出来なかった。
「……」
放課後、いつもの屋上。俺は背後に気配を感じて振り返る。そこにはぽつねんと立ちすくむ一人の少女の姿。俺は静かな声で呼びかけた。
「……長森さん」
もう一学期の終わりに近い頃だった。この前ここで別れてから、かなりの時が経っていた。俺は幾度か長森さんに会おうとは思っていたのだが、なかなかその機会がつかめずにいた。それは恐ろしかったからだろう。あの時長森
さんは俺が一月の夜の実行犯だと言うことに気がついたのではないだろうか。それが恐ろしくて、今まで会うのを先延ばしにしていた。
だが、長森さんの今の姿を見て、わざわざここまでやってきた姿を見て、俺は自分の考えが間違っていたことに気がついた。長森さんは俺が折原のことを調べて、自分が言ったことの正しさを証明してくれるのを待っていたんじ
ゃないだろうか。そう、居間までずっと。きっと待っていたのだ。……。そう確信し、同時に俺は激しく後悔した。俺は長森さんに向かって聞こえるように叫ぶ。
「折原のこと」
俺はいの一番に、長森さんが他人の口から聞きたかったであろう人間の名前を口にする。
「……」
「本当だった」
「……」
「ほんとうに折原、みんなの記憶から消されている」
「……」
「まさかそんなことがあるなんで思ってもみなかった」
「……」
俺は大声で届けとばかりに叫び続ける。
「えいえんのせかいだっけ? 折原が行ったという世界。それってどんな世界なんだ?」
「……分からない…」長森さんはここに来て初めて言葉を発した。
「……そう」
そして言葉が続かなくなる。何かできることは無いだろうかと思う。俺はもっと早く言ってあげれば良かったのだ。その寂しげな顔を見ながら俺は本当にすまない気持ちでいっぱいだった。いままで何をしていたのだろう。何の
ために俺は折原の消息を追っていたのだろう。そう、全ては長森さんのためだった。俺は叫ぶ。
「俺に何か出来ることないかな。手伝えることがあれば手伝うよ」
俺の言葉に長森さんは顔を上げ一言、
「信じて」と言った。
「何を?」俺は尋ね返す。
「浩平が、浩平が帰ってくるって」
俺は長森さんの言葉に息を詰める。
「……」俺はその言葉に本当に『うん』と言うべきなのか?
「信じていれば、きっと帰ってくるから」
「……」俺はその言葉に本当に『信じる』と言うべきなのだろうか?
「……」長森さんは俺の顔を真摯なまなざしで見つめている。その必死で追い詰められたような姿。俺は目を閉じて、天を一度だけ振り仰ぐ。
そうか…。
「……わかった、信じる」
そして俺は約束した。
「……ありがとう」
長森さんは少し目に涙を浮かべていた。俺はその様子を見て、今まで逡巡していたことがらを実行に移すことにした。
「……あの、よかったらさ。俺、折原の話聞くよ。長森さん、折原のこと誰にも話せなくて辛いだろ? そっちさえ良ければ話し相手になるよ」
長森さんのことを『かわいそうだね』と言っていたみさき先輩のことが脳裏に浮かんでいた。そうだ。長森さんは俺たちが屋上でぼんやりと考えたよりも千倍も悲しいに決まっている。
「……うん、ありがとう。……正直ね、そうしてくれないかなーって思ってた」
俺の提案にそう言って長森さんは笑った。それは俺のよく知っている笑顔だった。
「あはは、まあ、がんばるよ」
俺も出来る限りの笑顔を作って、長森さんの言葉に答えた。俺たちは微妙な距離をとりながら屋上の片隅に腰掛けて、そして夏の長い長い日が傾くまで、もうこの世にはいない人間のことについて語り合った。とは言え、ほとん
ど長森さんが一人でずっとしゃべりっぱなしで、俺は相づちを打っただけだったんだけれど。
長森さんは話している間ずっと楽しそうで、色々な折原を俺の目の前で聴かせてくれた。楽しい折原、バカな折原、面白い折原、…優しい折原。長森さんの頭の中は本当に折原浩平でいっぱいで、正直なところ聞かされる俺にと
ってこの時間はあまり楽しいものではなかった。嫌いな人間のことを好きな人からさも楽しそうに聞かされることがこんなに心苦しいものとは思わなかった。俺はその心の苦痛に耐えながら笑顔を作るのに精一杯だったから、話の
内容はほとんど覚えていなくて、少しそれが申し訳なかったけれど、楽しそうな長森さんの顔が間近でたくさん見られたから、それでよかったかなと思う。
「ごめんね。なんかわたしばっかり話しちゃって」
別れ際に長森さんはすまなそうに言った。
「いや、いいよ」
俺は言う。折原について俺が特に話すなどなかったし、話なんてしたくないと言うのが正直な気持ちだった。あのことに触れることになるからな。俺は心の中で思う。……そうだった。そういえば俺はまた言いそびれてしまった
。でも長森さんはあの時の顔を覚えているのだろうか? 実際どうなのだろう。何も言ってこないところを見ると、もしかしたらあの事件の共謀者が俺だと気がついていないのかもしれない。
いや、そんなことはないだろう。
でも、もしかしたら。
……今走っていって訊いてみようか?
――いや、それは良くない。
いまのところ上手くいっているんだ。それをわざわざ壊すことはない。
……。
わざわざ壊すことない。……言い聞かせた胸が少し軋んだ。
なんだかせつない。――そういえば。俺はあることを思い出してゆっくりと立ち上がると、埃のついた尻を叩きながら屋上を後にした。
一人俺は廊下を歩く。ある部屋の前で立ち止まった。久しぶりだな、ここに来るのは。そんなことをまず思った。鍵を回し戸を引く。
夕暮れの軽音楽部部室。俺は備品の弦の張りっぱなしのアコースティックギターを取り出し、机にだらしなく腰掛けて、音程の外れたままでぼんやりとコードを進行させる。どういう風の吹き回しなのか自分でも不思議だ。だけ
ど男には急に無性にギターが弾きたくなる時と言うのが、多分年に一回ぐらいあると思う。
「へたくそ」
ちっとも上手く弾けないので何度も同じコードを鳴らしていると後ろから声を掛けられる。振り返ると、後ろに俺と同じ軽音楽部員の氷上シュンが立っていた。
「なんだ、氷上か」
俺は言った。こんなところで会うのは久しぶりだ。俺が部室にめったに顔を出さないと言うのもあるが、それは氷上の方も似たようなもののはずだ。最近、廊下で出くわすということもなかったので、本当に彼に会うのは久しぶ
りだった。
「やあ」
氷上はゆっくりと俺のところまでやってきて、傍らに佇んで窓の方を見た。浅い夕日が彼の顔をオレンジ色に染めている。
「やっぱり腕がなまっているかな」
俺は横目でそんな氷上のどこか現実離れしたような顔を見ながら言った。
「なまる以前の問題だと思うよ」
こっちの方を見て、氷上は無邪気に笑う。氷上の言葉は事実だったから、あまり嫌味では無かった。
「……人のこと言えないくせに」
「まあね」
と、言って氷上は隣の机に片膝をついて腰掛ける。机に上履きを乗せるのは正直感心しないが、妙に決まっているのも確かだ。俺は言った。
「久しぶりだな、会うのは」
「君がここに来ないからだよ」
「そうだな」
俺の言葉にどういうわけか氷上は少し笑った様だった。俺は氷上に尋ねる。
「何の用だ?」
「部員が部室にいるのはおかしいかい?」
「……いや、そうだ。確かにそうだ」
何でだろう、氷上は俺に会いにきたのかと思った。
「そうだ、氷上、お前、折原って覚えているか」
俺はせっかくだから氷上にも折原のことを尋ねてみることにした。まあ、どうせ覚えていないだろうけど。いや、これはすでに俺にとっては習慣みたいなものだ。
「折原?」
氷上は不思議そうに訊き返す。
「……うん」
「……」
「……」
「……いや、知らないね」
しばらくの沈黙の後、氷上はそう答えた。
「……そう」
やっぱりそうか、ま、そんなものだろう。俺は得心するとまた弾けないコードを押さえようとするが、やはり上手く押さえられない。えっと、こうだったか?
「やっぱり、へたくそだ」
氷上は俺が苦心しているのを見ておかしそうに笑った。
「……ああ、そうだね」
俺もつられて笑う。まったくその通りだ。もう一度、コードを押さえる。傍目にも外れた和音が部室を満たし、開かれた窓から夕空の下に飛び出して、消えてゆく。
「里村さん。ちょっと、いいかな?」
「嫌です」
ある朝、昇降口で俺は里村と言う女生徒と偶然出くわした。俺はこの機会を捕らえてこの生徒にもっと色々詳しく話を聞こうとしたのだが、彼女の返事はそっけないものだった。
「それはそうだと思うんだけど」俺は苦笑しながら言う。しかし俺のせっかくの笑顔をわずかに一瞥すると里村さんはすたすたと教室に向かって歩み去ろうとする。
「待ってよ」俺は必死になって呼びかける。里村さんは振り返った。長い質量のありそうな髪が静かに揺れる。
「……」
「何か知っているんだろ」俺は言った。
「別に」無表情で返してくる。正直辛い。こういう対応をされると死ぬほど辛い。別にこの里村さんが悪いわけではなく、全ては自分の後ろめたさから来る過剰な反応だとは思うのだが、こうしてあからさまな拒否のポーズを女の
子にとられるとなんだかとても切ない気持ちになる。……。だが、ここでくじけるわけには行かない。俺は極力里村さんと目線を合わせるように試る。
「折原のことは覚えていないんだよね」
コクリ。里村さんは無言で頷いた。俺は言葉を続ける。
「でも、この世界から消えた人のことについて何か知っているんだよね」
「……」里村さんは何も答えなかった。
「教えてくれよ。これは良くある事なのか? 人が消えてしまうと言うのは。みんなに忘れ去られてしまうって言うのは」
「……私は一つの例しか知りません」
里村さんは言った。そして悲しそうに横を向く。
「だから、あなたの役には立てません」
「いや、そんなことない。 ……よかったらその話、聞かせてくれないか?」
「嫌です」
また言われた。本当に俺のこと嫌っているのではないだろうか。あの日の長森さんの姿が急に目の前に浮かんで来る。……。俺はうつむく。小さく呟く。
「そう」
……。……負けたくない。こんなことで負けたくない。大丈夫だ。きっと俺が必要以上に過敏なだけだ。そう言い聞かせ、俺はつとめて笑顔を作ると会話を何とか続けようと試みた。
「でも話したくなったら聞かせてくれないか?」
「こんなことに首を突っ込んでどうするんですか?」
里村さんは俺の言葉には答えずに、逆にこんな疑問を投げかけてくる。
「いや、首を突っ込んでいるわけでは」
俺は慌てて否定する。が、里村さんはもう一度、俺のほうを睨みつけ、さっきよりも激しい口調で、
「こんなことに首を突っ込んで、一体あなたに何ができるんですか?」
と言った。そして悲痛な表情でかぶりを振る。それで、たったそれだけのことで俺はもう何も言えなくなってしまった。口を噤む。
「失礼します」
そう言って里村さんは立ち去った。俺はと言えば心を粉々に打ち砕かれて、その場に立っているのがやっとだった。瞳に涙まで滲んでいた。零れ落ちない様に天井を見上げ思う。この程度で泣くなんてな。自分の心がここまで脆
くなっていたのかと思い、また悲しくなって、ますます涙が滲んでくる。悲しみのスパイラルに陥った様で、自分では止められそうも無い。
(あーあ、かっこ悪いなぁ)
(やっぱり嫌われてるんだなぁ)
(なにしろ強姦未遂をやってのけた人間だからなぁ)
「最悪だ」
……俺は屋上に行くことにした。今、一人で泣けるのはそこしか思いつかなかった。
もしかしたらと思っていたのだが、やはり先客がいた。
「こんなところでサボってちゃ駄目だよ?」
「みさき先輩……」
俺には行くところが無いのか。心の中で自嘲する。一体俺はどうなってしまったんだ。何時から歯車が狂ってしまったんだろう。
(あの日からさ)
……そうか。その通りだな。全て自分の弱さがもたらしたことか。ならば俺はそれに立ち向かわなければならない。この状況を上手く切り抜けるんだ。泣いていることをみさき先輩に感ずかれてはならない。もう、弱さも強さも
誰にも見せない。見せたくない。俺は歯を強くかみ締める。
「授業ちゃんと出ないと、立派な大人になれないんだから」
(大人になんかなりたくないです)
「先輩こそどうしたんです。こんな時間に」俺は答えた。
「わたしには暇な時間がいっぱいあるんだよ」
「そうなんですか、俺に少し分けてくださいよ」俺は答えた。
(分けてくれなんて言わないから、俺は自分が泣く時間が少し欲しいよ)
「それは残念だけど、無理だよ」
「えー残念だなー」俺は答えた。
(どうして普通に会話しているだけなのにこんなに疲れるのだろう?)
(……)
「ふふふ、こんな時間にここに来るなんて。さては嫌なことがあったんだね」
「……」そして気付かれてる。俺は亀の様に固まった。
「もしかして、わたし邪魔かな?」
「……」く。図星を突かれ声を上げて泣き出しそうになる。
「どうしたの?」
耳ざとく聴きつけたのか、みさき先輩がゆっくりこっちに近づいてくる。
「いえ、なんでもないです」
もう駄目だな。さっきの応対で失敗した。何黙っているんだよ。失敗だ。すぐ前に誓ったことすら俺は守れやしない。情けない気持ちで一杯になる。
「嘘はいけないよ?」
「俺は嘘は嫌いです」
「困り事があるんだね? わたし聞いてあげるよ?」
「……」
「後輩が困っているのにほおっては置けないよ?」
「だいじょうぶです。たいした事じゃありませんから」
これは本当のことだろう? 女の子に話し掛けようとして断られた。ただそれだけのことだ。全然たいしたことじゃない。滑稽なまでにたいしたことじゃない。俺もこんなことが原因で泣くなんて自分が信じられない。己を取り
戻すんだ。俺は自分を必死に叱咤する。だけど自分がもう、わからない。崩れそうになる自己を必死に支える。
「ねえ、今度は逃げないでね」
どこかへ。
どこかへ行ってしまいたい。
そして気がつけばみさき先輩の姿はすぐ前にあって。
「……避けられるのはわたし寂しいよ」
ゆっくり、そしておずおずと手を俺に向かって差し出してくる。
「嫌だ! 止めてくれ」
伸ばした指先から逃れるように俺は大声で叫んだ。全身の毛穴が逆立つ。嘔吐感がこみ上げ、視界がくらくらする。歪んだ視界のまま、俺はどこかに向かって走り出した。
ガシャン。
金網に体を酷くぶつけた。俺はぐりぐりと体を押し付け外に出ようとする。何度も体を叩きつける。
ガシャン、ガシャン。
ガシャン、ガシャン、ガシャン。
「畜生~~~~~~~~~~~~~~~~~~!」
そして俺は声を殺して泣き叫ぶ。もう全てが嫌だった。こんなときにもわざわざ周りの人に聞こえないように声を押し殺す自分にも。金網に酷く体をぶつける。床に崩れ落ちる。
どこかへ。
誰もいないどこかへ。
この惨めな俺でも生存を許されるどこかへ。
体を酷く叩きつける。脳に火花が飛ぶ。
無様だ。
気がつけば俺は屋上に一人だった。心の嵐は収まったが、俺は仰向けに転がり、手を額に当てる。さっきまで忘れていた涙が、今ようやく溢れてきた。
(またか)
(まただ)
こんどは先輩か。次は誰だよ。……誰を傷つければ気が済むんだ? 何人傷つければ気が済むんだ? 俺は自問する。
「先輩なんて言ってた?」
俺の耳には届いていた。先輩は言っていた。『……避けられるのはわたし寂しいよ』……。俺は先輩のことなど何も思いやることが出来なかった。
「違う、畜生、違う」
もうこの場にいない人に俺は弁明する。泣きながら子供の様に弁解する。傷つけたくなかっただけなのに。……本当にそうだろうか。もう、良くわからない。
(頭の病院に行ったほうがいいな)
(それともえいえんのせかいとやらに行ったほうがいいか?)
そうすればきっと誰も傷つくことは無いのだろう。他人も、そして自分も。俺は荒く息をする。
一人だ。望んでいた一人だ。だけど、なのに、どうしてこんなに悲しいのだろう。
ここにはもう誰もいない。夏の熱い風が埃と砂を立ち上らせながら、横たわる俺の体に吹きつける。細かな砂が汗ばんだ顔に当たって痛い。口の中がざらざらしている。苦い。俺はまた一人になってしまった。あの時の屋上と同
じ。季節と時間が違うだけだ。何も進歩していない。
「……」
あの時、すこし風が吹いたと思っていたのに。また自分で壊してしまった。いやそんなもの、もともと無かったのかもしれない。金網に押し付けていた肩が痛い。俺は身を起こすと、太陽に背を向けて座り、痛む肩を手で押さえ
る。手で触れると、体に金網の跡がしっかり刻まれていて、触れるたびに鈍い痛みが走る。俺は口を歪める。
「少し落ち着いた?」
後ろから声を掛けられる。夏の太陽を背に、俺がさっき傷つけた女性が立っていた。
「みさき先輩…」
「ほら、ジュース買って来て上げたよ」
「……」
「間違えてホット押しちゃったんだけど。これでいいかな?」
そうやってみさき先輩はいままでずっと後ろに回していた手を前に出して、とっておきの宝物でも見せるかのように、なにやらジュースの缶らしきものを俺に見せた。
「みさき先輩、何でここに」
あんなに酷いことをしたのに、どうして。
「わたしには暇な時間がいっぱいあるからね」
みさき先輩の答えはこうだった。そしておかしそうに言う。
「それと言ったよね。後輩が困っているのを黙って見ていられないって」
「先輩。…ごめん。本当にごめん」
俺はみさき先輩の顔をまともに見られなかった。下を向き謝罪する。
「……いいんだよ」
「先輩傷ついたよね。俺のせいで傷ついたよね」
よくないと思った。先輩はそう言っているけれど、俺の心が自分を許せそうもなかった。俺は床に手を付き身を屈め、必死に言葉を紡ぎ続ける。
「だから、もう」
「ほおって置けないって言ったよね」
先輩が俺の言葉を遮る。俺は顔を上げる。どこか悲しそうな表情で、みさき先輩は俺のほうを見つめていた。合う事の決して無いはずの目が合った。
「……はい」
憑き物が落ちたようだ。俺はゆっくりと頷いた。
「立てる?」
「……はい」
俺は恐る恐る立ち上がる。……みっともないところを見せてしまった。埃だらけの汚い体を掃う。体のあちこちが痛む。
「いったいどうしたの?」
みさき先輩が尋ねる。
「……」俺は答えたくなかった。
「話したくないんなら、わたしはそれでもいいんだけど」
そして儚げに笑う。
「……昔、好きだった女の子を自分のせいで酷く傷つけたことがあるんです」
俺は風にかき消されそうな程小さい声で言った。答えたくなかったが、言わなければならない気がした。どこか遠くを見ながら、俺は自分の気持ちと自己を弁護するように言葉をいちいち選びながらみさき先輩に伝えようとする
。
「自分の心が押さえられなかったんです。それで、……酷いことをしてしまって。やった後に気がついたんです。それまで、自分でも全然気がつかなかった。むしろ、……」
俺は口ごもる。
「……その時から、女の子に触れるのが怖くなって。……また傷つけるんじゃないかって。また誰かにそんな酷いことをしてしまうんじゃないかって。自分が怖いんです。……頭ではわかっているんですけど、どうしても普通にで
きないんです」
「傷つけた女の子って、長森さんのこと?」
俺の言葉にみさき先輩は的確な指摘をする。
「……なんでわかるんですか」
「ふふ、きみは女の子の話と言えば長森さんのことしか話していないからね」
「……」
俺はみさき先輩の顔を見つめる。そうか、何でもお見通しなんだな、先輩は。もちろんそんなことを思うのは俺の勝手で、それはきっと先輩に対する過剰な期待でしかないのだろうけど、それでも心がすごく落ち着いた。つまり
、俺はだれかに甘えたかったんだな。そして先輩は甘えさせてくれた。静かに考える。なんだかそれが嬉しい。
「先輩、ありがとう。この言葉が言えて、本当に良かった。あのまま外に飛び出さなくて本当に良かった」
俺は先輩に向き直る。素直な感謝の気持ちを伝えたかった。人の優しさがこれほど親身にこたえた事は今まで無かった。俺のことを許してくれて、俺の話を聞いてくれて嬉しかった。俺は頭を深々と下げる。みさき先輩はちょっ
と困ったように照れて、頬を少し染めると
「じゃあ、金網にも感謝しなくっちゃね」と言った。
「…そうですね。ありがとう金網君」
俺は自分が体をぶつけた方を向き、金網にも頭を下げる。本当にそのとき、俺は金網にも感謝したかったのだ。もしもそのまま飛び降りていたら、俺はみさき先輩を傷つけたまま、謝罪することも出来ずに死んだだろう。考える
だけで恐ろしい。そんな俺の言葉と行動にみさき先輩は優しく微笑む。
「ふふふ。ジュース、飲む?」
「…はい、いただきます」
俺は素直に答えた。
「ここに置こうか?」
俺のことを慮ったのだろう、そう言ってみさき先輩は缶を床に置こうと少し身をかがめる。
「いいえ、直接受け取ります」
もう、これ以上みさき先輩を傷つけたくなかった。心の底からそう思い、そう考えると心にかすかな勇気がわいてくる。さっきはあんなに会話するのが辛かったのが嘘みたいだ。
「じゃあ、気をつけてね」
「はい」
そう言ってみさき先輩は缶を前に差し出す。俺はゆっくりと前に進んで幼稚園の卒業式の時みたいに緊張しながら、それをおずおずと受け取った。
「よく出来ました」
みさき先輩がからかう。
「からかわないでください」
俺は温くなっていたけど別の意味で暖かいジュースのプルを引く。餡子の甘い香りが鼻をくすぐる。あれ、これは…? 俺はいまさらながらこれがどんなものか気が付いた。俺は先輩の名前を呼ぶ。
「みさき先輩」
「何?」
「これお汁粉ですよ」
俺は真実を告げる。別に責めている訳じゃない。先輩の目が不自由だと言うことをおちょくったわけでもない。ただ、俺は先輩に本当のことを言いたかった。本当のことだけを。自分の心から素直に出たことだけを。
「……困ったね」みさき先輩は首をかしげる。
「少なくてもジュースではありませんね」
「どうしよう?」さすがにこの言葉にはちょっと困ってしまったようだ。俺はこれで全然構わないのに。俺は言う。
「いいえ、甘いのは好きですから。…いただきます」
そしてゆっくりと口をつける。甘くておいしかった。でもそれだけじゃない。なんだかとてもどきどきする。さっきまでこれにみさき先輩が触れていたからか。
「おいしいですよ、先輩」
「無理しなくてもいいんだよ?」
先輩が笑う。
「全然無理なんてしてませんよ」
俺も笑う。
「そう?」
「ええ」
そう言って俺はまた缶を傾ける。そして砂とかとしょっぱい涙とかとお汁粉とか、その他全部を一緒くたにして丸ごと胃の中に流し込む。
「じゃあ、ちゃんと授業出なくちゃね」
「はい」
そう言って俺は、みさき先輩と別れた。
時間は一時限目の真っ最中だった。随分長く屋上にいたような気もするが、それほど時間は経っていなかったらしい。階段を降りて、自分の教室に戻る。ふと、見覚えのある後姿を発見した。氷上だ。
氷上は部室のある棟に向かっているようだ。こんな時間になんでそんなところに行くんだ? 俺は不思議に思ったが、それ以上詮索はできずに、氷上の消えた先をじっと眺めるだけだった。
授業に戻ってから、ふと、心に浮かぶことがあって、少し考えていた。どうしてみさき先輩は卒業したのに今でも屋上に、いや学校に来るのだろうか。
……。
良くわからない。
放課後、また屋上に上ってみたが、先輩の姿は無かった。
俺は端まで歩いていって、自分のせいでひしゃげた金網を可能な限り元に戻してやる。
ふと、空を見上げた。
「もう夏か」
暑さに淀んだ空に、白い入道雲が湧きあがっていた。
2―3
また時は流れ、夏が過ぎ、二学期になっていた。俺を除くクラスメイトはそれぞれ受験の用意に追われていたが、俺はなんだかその流れに取り残されているようだ。教室では模試や偏差値の話題が花を咲かせ、どこの大学がいい
か、どこを滑り止めにするか、試験科目の少ない学部はどこかとか、いつの間にかついていけない話題に俺は翻弄されていた。何度も何度も卒業後の進路を書かされ、そのたびに俺は適当なことを書き込んだ。しばらくは前の進路
と違うと言われ、変えた理由なんかを進路指導の教師に問い詰められたが、そのうちそんな小言も聞かされなくなった。俺は一体何になりたいんだろう。いや、何になれるんだろうか。何が出来るんだろうか。
「大学のサークルで可愛い後輩のふりでもすれば、女のセンパイがてとりあしとり」
「やだー」
爆笑が起こる。……希望か。そんなのでも一応希望だよな。
……希望のある奴はいいよな。
俺だけなのか。心の中の怪物を飼いならせない奴は。
あそこで笑っている男どもは自分の心にどんな醜いものが眠っているのか知らないのだろうか? 知っていて笑っているのだろうか。
あそこで笑っている女子は今話している男どもの心にどんな恐ろしいものが眠っているのか知らないのだろうか? 知っていて笑っているのだろうか。
……。
自分の席に身を沈める。
俺は自分のことが嫌いだけど、なんだかそれがとても情けなく思う。
「……長森さん」
屋上で、俺は探していた人の姿を見つけて駆け寄った。長森さんに対するあの日の出来事は胸をまだ傷めていたけれど、以前の様に心に嵐となって吹き荒れるようなことは無くなっていた。とはいえ、その傷は心から消えたわけ
ではなく、ただ後ろに引っ込んだだけで、俺の全ての心象を操っているような気がする。しばらく世間話や、入試のことやその流れに両方ともどうも取り残されているらしいことなどをしていたが、
「浩平のこと、覚えてるよね」
と、長森さんが唐突に言った。
「ええ、まだ覚えていますよ」俺はそう返す。実際、どういうわけかまだ俺は折原の事を覚えているのだ。
「あはは、よかった」
また辛いことがあったみたいだな。会話を交わしながらなんとなく俺はそう思った。
俺が観察できる範囲で言うと、長森さんの様子は折原がいた頃と余り変わっていない様に思える。明るいし、女の子の友人と楽しそうに話しているのを何度か目撃したこともある。折原の存在を抜きにすれば、以前と何も変わら
ない日々を送っているように思える。
だがそれでもやはり辛いことはあるのだろう。いや、折原のことを忘れてしまった人の前では寂しいなんていう感情を出すことすらできないのかもしれない。
「今日も折原の話でもしましょうか」
だから俺は、なるべく長森さんが折原の話をし易いように心がけていた。それは自分に課した償いの意味もある。だが今日に限って長森さんが少しとまどいの表情を浮かべた。
「え……ちょっと恥ずかしいよ」
「どうしたの?」俺は訊いてみた。
「うん、なんだかのろけ話を人に話すみたいで」長森さんなりに俺のことを考えてくれているようだ。
「あはは、のろけでもいいんですよ」俺は何だか可笑しくなって笑う。
「でも……」
「じゃあ、たまには俺のほうが話しましょうか。折原のこと」
困っている様なので、俺は無い脳みそをフル動員して折原のことで何か話せるようなことはないかと考える。しばらくして、うろ覚えだったがなんとか話になるような出来事を思い出した。
「え……うん」
「じゃあ、軽音部であったことなんだけど…」
そして俺はうろ覚えの出来事を途中途中つかえたり脱線しながら長森さんに話した。その話がどんな内容だったのかは、今では覚えていない。
「へえ、そんなことがあったんだ」
話し終わって長森さんは一応驚いてくれた様だった。俺は言う。
「ええ、じゃあ、今度はそっちの番ということで」
「え、うん……」
俺の話ですこし気持ちがほぐれたのか、長森さんはいつものように大好きな折原のことを話し始めた。
「へえ、あの折原がねぇ」
「……へえ」
「ふーん、そんなことが……」
「……」
やっぱり辛いものは辛いな。相づちを打ちながら思う。俺はこんなことをして何をやっているんだろう。何が望みなんだろう。長森さんの側にいることだろうか。二人で共通の話題を持つことだろうか。わからない。ただ、この
人の悲しそうな顔はもう見たくないと思う。
「……」
俺が物思いにふけっていると、いつの間にか長森さんの話は終わっていた。
「あれ? もう終わり?」
俺は尋ねる。長森さんは恥ずかしそうに、
「あんまり話すと帰ってきたときに浩平に怒られちゃうよ」
と、頬を染める。
「それもそうだな。俺があいつの立場だったら余り……」
嬉しくないと言いかけて俺は口ごもる。
「何?」
「いや、別に」
俺はとぼけてみる。そして話題を変えるために俺は、消えた人のことについて何か知っていると思われる女生徒のことを長森さんに話してみることにした。
「そうだ。長森さんと同じクラスの里村さんって知ってる?」
「里村茜さん? 知ってるよ。その人がどうかしたの?」
「いや、何か知っているらしい」
「何を?」
「……この世界から消えた人達のことを」
「……」
「この前話を聞こうと思ったけどあっさり断られた。まあ、たしかに聞いても俺に何が出来るってわけじゃないし……。でも長森さんなら話を聞いてもらえるかも知れない」
その少女については嫌な記憶も思い出すが、あれは俺のほうが過敏だったと思う。それに女の子同士のほうが何かと話しやすいこともあるだろう。
「他にもいるんだね……そう言う人」しんみりと長森さんが言った。
「ああ、こういうのは調べ様も無いから、実際どのくらいいるのかわからないけど」
「……」
「とにかく、俺も、もう少し色々と調べてみるよ」
そして俺は立ち上がる。こっちはこっちで個別にまた里村さんと話してみよう。落ち着いて根気良く話せば、消えた人のことやえいえんのせかいについて何か教えてくれるかもしれない。無駄かもしれないけど。
「無駄じゃないよ」
「へ?」俺は振り返る。
「……何も出来ないなんてこと、無いんだよ」
そして恥ずかしそうに横を向く。
「……ありがとう」俺は言った。下を向いた長森さんからの返事は無かった。
帰り際に、長森さんが静かに言った。
「ねえ、浩平は、きっと帰ってくるよね」
「……」
「帰ってくるって信じているよね?」
「……俺はそう信じているよ」
しばらく迷ったが、俺はいつもどおりの言葉を言った。
だが、本当に俺は、折原に帰って来て欲しいのだろうか?
もしも、折原が帰ってくることで長森さんが幸せになるのなら。それで本当に幸せになるのならば。……。
……それでも、俺は折原に帰って来て貰いたくはなかった。拳をぎゅっと握り締める。
「男の嫉妬は醜いね」
誰かが遠くで言ったような気がする。……少し疲れているのだろうか。俺は頭を左右にぶんぶんと振った。
校門を出てから、一度だけさっきまでいた屋上のほうを見た。夏の名残の高い空と白い雲。その下で、影の様に聳え立つ校舎。
……。
何故か胸が震えた。
そして、一瞬だけ感じた。溶けるような空漠感。
それは何ものかに見捨てられたような感覚と寂しさ。
……。
……。
……もう、今は感じない。
俺は向きかえり、また歩みだす。前へ。前へ。
「あの、さ」
ある雨の日の放課後、俺は廊下で見知った後姿を呼び止めた。ピンクの傘を右手に持った長く腰まで伸ばされたお下げの少女が当惑気味に振り返る。
「何ですか?」
俺の姿を見て少し驚いた様だった。まさかこの期に及んでまた話し掛けてくるとは思わなかったのだろう。もしかしたら忘れていただけかも知れない。考えるのは後回しにして、俺は間髪をいれずに用件を切り込むことにした。
「前言ったよね? こんなことに首を突っ込んで何が出来るのかって」
「……はい、確かに」
里村さんはしばらく考え込むように黙っていたが、ようやくそう言った。とはいえ、その後の話の組み立てなんて実際考えていなかった。俺はやっつけの言葉を紡ぐ。
「正直、役にたっているか分からない」
「辛いことも多いしね」
俺は畳みかける。頭から湧き出た言葉をそのまま目の前の少女に叩きつける。そうしないとまた『嫌です』と言われそうだ。以前は虚飾や作った笑顔なんてものに頼ったのが間違いだったと思う。
「苦しんでいる人がいるんだ。…助けてやってくれないか」
「……」
「本当によかったらでいいんだ。強制はしない。でも、苦しんでいる人がいるんだ。大好きだったはずの人が消えてしまって、みんなに忘れられて」
俺の言葉に心底悲しそうに里村さんは目を伏せる。そしてしばらくして、
「……それは長森さんの事ですか?」
と言った。
「……そうだよ」俺は答える。
「長森さんから話を聞きました」
そして、ふう。と里村さんは目を閉じてため息を吐く。そして少しためらった後、無表情のままで言った。
「……私にも、長森さんと同じ事が起こっただけです」首を振る。
「それだけです。他に何も言える事はありません」そして横を向く。
「……期待はずれでしょう」最後に本当に小さな声で言った。
「いいや、そんなことはない」里村さんのその声には少し感情がこもっていた。それはほんの僅かな揺らぎだったが、それだけにむしろ沈痛だった。俺はなだめようとする。しかし、里村さんは表情を隠したまま、
「本当は忘れてしまうべきなんでしょうね」と呟いた。
「……」
俺には答えようも無かった。俺が黙っていると、少しして落ち着いたのか、里村さんが目だけをこっちに向けて尋ねてくる。
「あなたは、長森さんのことが好きなんですか?」
「……ああ、そうだよ」
俺は廊下という場所も考えて少し躊躇したが、結局本当のことを言った。
「……長森さんから聞いたのですが、消えたクラスメイト、…名前忘れました」
「折原浩平」
俺はフォローを入れる。
「そうでした、その折原という長森さんの恋人の話を聞いてあげているそうですね」
里村さんは正面に向き直る。その時は、もういつもの表情に戻っていた。
「ああ。そうだよ」俺は答える。
「あなたは、その折原と言う人も好きなんですか?」
「……いいや、大嫌いだね。名前を聞くだけで腹が立つ」
俺は言った。しかし先輩といい、この里村さんといい、どうして好きとか嫌いとかにそこまで気にするんだろう? 面倒くさかったので俺は率直に答える。
「……」
「……」
「あなたは不思議な人ですね」
しばらくの沈黙の後、当惑気味に里村さんが言った。俺にはそのとまどいの意味がわからない。雨はますます激しくなり、廊下の窓を叩きつける。
「そうかな?」
里村さんが何を考えているのかわからず、俺は少し首をかしげる。
「あなたは何がしたいんですか?」里村さんが訊く。
「……俺は何をしたいんだろう」俺はその言葉を反芻する。実際、自分が何をしたいのかよくわからない。
「なぜ、長森さんのためにそんなに一生懸命なんですか?」
「その人のこと嫌いなら話を聞かなければいいじゃないですか」
「長森さんが消えた恋人のことを話すたびに腹が立つなら、あなたは正直に言って止めるべきです」
「それに帰ってこない人のことをずっと待ち続けることなんて、いい事じゃないですよ」
「それは里村さんも同じだろ」
俺は切り返す。そんな選択は俺には出来ないのだ。特に長森さんに対しては。とは言え痛いところを突かれ、少し語調が荒くなる。
「私はいいんですよ……」里村さんの声が小さくなる。そして目を伏せると、そっと自分に言い聞かせるように
「……私はふられたんです、きっと」と言った。
「それは確かめたのか?」
俺は言った。里村さんの言葉にどういうわけか苛立ちを覚えた。
「……」里村さんは俯く。
「心が納得していないことを、無理に押さえつけることはないと思う」
「何も分かっていない人が」
俺の言葉に一瞬だけ、里村さんの瞳に悲痛と怒りの炎が立ち昇った。だが、それは一瞬のことでしかなかった。すぐに表情を消す。
「……そんなこと言わないでください」里村さんのその声はあまりにも自然で静かなものだった。
「……悪かった」
俺は正直に謝った。いまの姿を見てわかったことがある。里村さんは別に好きで感情を押し殺しているわけではないのだ。おそらく以前はもっと素直に感情の出せる人だったのだろう。やはり俺は何もわかっていなかったのだ。
俺は静かにため息をつく。そして、
「俺も里村さんのこと言えないな」と呟く。
「……何をですか?」
里村さんが尋ねてきたので俺は正直に答えた。
「心を無理に押さえつけていること。正直、胸が苦しくてね。長森さんに折原のこと話されるとさ。世間ではこういう感情を嫉妬って言うらしいな」そして視点を落とす。
「そうですか……」里村さんは呟いた。
「……」
「ところで、俺に何かできること無いかな」
顔を上げて俺が尋ねると逆に、
「あなたが私に何かを頼みに来たのではないのですか?」
と言われてしまう。そういえばそうだった、俺は頭を掻く。
「そういえばそうだったな」
「……」
そして思い出す。俺は里村さんの事情について何も知らないと言う事を。
「よくよく考えると、俺に出来ることって、あんまり無いな」俺は目を伏せて言った。
「何もできることは無い、が正解です」里村さんが返す。
「……つらいな」
俺は呟く。
「……」
「誰も彼も、つらいな」
「……同情なんて要りません。……好きでやっているんですから」
里村さんは寂しそうな表情を浮かべる。俺は押し黙る。
「……」
「でも」
ポツリと口を開く。
「長森さんとはもう少しだけ話してみようと思います」
里村さんはその時、わずかに表情を緩めた様だった。
「……ありがとう。そうしてくれないかな」俺は言った。
「では、失礼します」里村さんは一礼すると背を向ける。と、俺の遥か後方から少女の高い声が聞こえてきた。
「あ! 茜!」
「詩子」
里村さんはその言葉に振り向き、俺の背後に視線を向ける。俺がつられて振り返ると、他校の制服を着た少女が俺たちのほうに全速力で駆けて来るところだった。少女は里村さんの前で立ち止まり、両膝に手をついて、少し呼吸
を落ち着けてから、わざわざ姿勢を正すと、里村さんの方を向いて、
「また、雨の中知らない人を待つんでしょ? 今日こそそんなことは止めさせようと来たんだから! ……さあ、一緒に帰ろう?」と里村さんのほうに手を差し伸べた。
「すみません、詩子。一緒には帰れません」里村さんは悲しそうに首を振る。
「駄目だよ茜! いつまでもそんなことしてちゃ! ねえあなたもそう思うでしょ?」
俺がそんな二人の様子を横で見ていると少女は突然俺に会話を振ってきた。
「……」
「……」
俺はいきなりなことなのでとまどう。しかし二人の少女は俺のほうを向き、横目で俺が何を言うか見つめている。……なんだか困った。正直、こんな状況に陥るとは思わなかった。俺はどう答えるべきだろうか。
「……いや、俺は里村さんがしたいようにすればいいと思う」
結局、俺はこう言った。どちらが正しいなんてわからなかったが、俺は里村さんの思いの方を信じることにした。
「ちょっとぉ! なんだか知らないけど、随分友だち甲斐の無い発言じゃない?」
予測していたが他校の少女は俺に噛み付いてくる。そして俺は理解する。ああ、この少女は本当に里村さんの親友なのだ。本当に里村さんのことを心配しているのだ。だが、それは里村さんにとってはつらいことでしかない。い
や、心配していることが痛いくらいわかるからこそ、里村さんのほうはどうにもできない苦しみに引き裂かれるだけなのだろう。それは俺が長森さんと話していて痛いほど感じたことだった。
「ごめんなさい」
一方、里村さんの方は、俺に噛み付く少女の隙を突いてそう言うと、身を翻して昇降口のほうに駆け出す。
「ああ、待ちなさい! 茜! 大体何? あなたは?どうして茜のあんな行為を弁護するの? どうしてよ!」少女は俺を問い詰める。実際のところ俺は里村さんがこの激しい雨の中、何のためにどこへ行ったのか全く知らなかっ
た。事情を知る彼女にとって俺の言葉はとうてい理解できないのだろう。友人にそれほど心配させるような行為を里村さんはしているのだろうか。だがそんなことはどうでも良かった。
「里村さんのことが心配なのか」俺は尋ねる。
「当たり前じゃない、友だちなんだから」
即答が帰ってきた。……そうか。友だちだもんな。
「つらいな」
俺は言った。
「何よ?」
「誰も彼も、つらいよな」
なんだか、悲しかった。
「どういうことよ」
「えいえんのせかい、……か」
一体なんなんだろう。それは。
「はぁ? ちょっと話し通じないじゃない。頭おかしいの?」
「心配なら、里村さんを追ったら?」
俺はようやく他校の生徒に言葉を返す。他校の少女は、
「行くところはわかっているもの、慌てて追う必要は無いわ」と俺の目を見て言う。
「いや、追うなら今すぐ追ったほうがいいと思う」
もしもその少女が里村さんのことを本当に思っているのなら、そうすべきだと思う。
「……そうかもね。あなたの言うとおりだわ。……話し通じない人に何を言っても仕方ないもんね。邪魔したわ。それじゃ」
その他校の生徒は俺に向かって嫌味たっぷりに吐き捨てると、里村さんの消えた方向に駆け出していった。その様子に不思議と腹立ちとかは感じなかった。必死なのだ。誰も彼も。折原を待ち続ける長森さんも、雨の中恋人を待
ち続ける里村さんも、そして俺を罵倒して消えていったさっきの少女も。
(みな必死なのだ)
(誰も彼も必死なのだ)
(必死に思いを伝えようとしているのだ)
(必死に誰かのことを愛しているのだ)
「では、俺は?」
胸を押さえる。俺の心は空っぽだ。何も入っていない。カスだけだ。俺は自分のことが嫌いだし、客観的に見てもどうしようもない人間だ。
「だけど」
「いつか自分のために歌を歌おうと思う」
遠く雨音が鳴り響く中、俺は天を振り仰ぎ、そしてこの雨の中、黙ってあて無く立ち尽くす優しくも儚げな少女と、その少女を諌めに駆け寄る心優しい少女の姿を夢想した。