CDFE   作:remono

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 また部室に顔を出してみたときのことだった。

 調律されていないギターを適当に弾いていると、いつものように後ろから声をかけられる。俺は振り返りもせずに言った。

「最近良く会うね」

「部活に顔を出すようになった証拠じゃないの?」

 影が部室に入ってくるのを背中に感じた。ゆっくりとこっちに向かってくる。

「そうかもな」俺は相変わらず前を見たまま言う。

「色々嗅ぎ回っているらしいね、君は」

「あ? 折原のことか?」

 俺は驚いて今日初めて氷上のほうを見た。氷上はいつもの笑みを浮かべたままで、俺のほうをぼんやりと見ていた。なんだか今日に限って気持ち悪い。

「そう、折原のこと」

 氷上はどこか嬉しそうに頷く。

「それがどうかしたか?」俺は少し疲れていたので上の空で答える。

「いや、別に」

「……?」

 それで話は打ち切られた。俺は下を向き、またギターのコードを弾き始める。

「君のギターはちっとも進歩しないね」

 俺が苦労してコードを押さえようとしているところを覗き込んで、氷上が軽口をたたく。

「先生がいないからかな」俺は言った。

「僕も教えられないしね」

「困ったな」

「困っている様には見えないね」そう言って氷上は笑った。

「ああ、下手でもいいんだよ、でも、最近無性に弾きたくなるときが増えたような気がする」俺は弦を鳴らしながら答えた。しかし本当はここから滑らかに別のコードに行きたいのだ。

「欲求不満なんじゃない?」

「そうかな?」

「そうさ」

 ……。俺が答えないでいると、氷上はこんなことを言った。

「逃れられない罪の意識のために君はこんなところに逃げ込んでいるんだね」

「ああ、なんか言ったか?」

「……あれ?」

 振り返ってみるとさっきまでいたはずの氷上の姿はどこにもなかった。

「……おかしいな」

 見渡してみたが、無人の部室は夕日に照らされて赤く染まっているだけでどこにも氷上の姿はない。俺一人だ。

「……」

 なんだかさっきまでの会話は夢だった様な気がした。俺はギターを抱えてうまく押さえられないコードを弾く。

 本当はここから滑らかに別コードへ移行したいのだ。俺は弾けないコードをまた奏でる。

(…逃れられない罪か)

(…長森さん)

(……)

 

 

「やあ、また会ったな」

 騒がしかった蝉の死にかけた九月の終わり、偶然だが俺は誰もいない教室で里村さんに出会った。

「……どうも」

 里村さんは静かに一礼する。

「あの後どうだった?」

 俺はあの雨の日、別れた後に里村さんとその友だちがどうなったかを尋ねてみた。

「詩子のことですか。あの時はご迷惑をかけて申し訳ありません」

 もう一度礼。俺は少し笑う。

「いいんだよ、友達思いのいい奴じゃない」

「……ええ、そうなんです。本当詩子は私のことを心配してくれているんです」

 少し逡巡した後、恥ずかしそうに頬を染めて、でも切なそうに里村さんは言った。

「あこがれるねぇ。俺にはそんな奴いないからさ」

 窓の外を見る。まだ高い太陽は秋の長雨の合間を縫っては顔を出し、暑さを大地に注ぎ込んでいる。

「……」

「あれから長森さんと話をしました」

 俺が外を眺めていると、里村さんが言った。

「そう、どうだった?」俺は訊いた。

「どうと言われても」俺の言葉に里村さんは困惑する。

「また話そうと思ったとか、一緒にどこかに遊びに行こうとか、思わなかった?」

 よくわからないが女の子同士はそんなことをするのではないだろうか。

「傷の舐めあいはあまり好きではありません」

 里村さんは首を横に振る。どういうわけかその言葉に俺の胸がピクンと反応する。

「傷つくのが怖いだけだろ」俺は言う。

「……やけに突っかかりますね。長森さんの話ではあなたは優しい人とのことですが」

 さすがにちょっと怒ったようだ。でもそれがあの時と似ている。あの時の俺に似ている。

「里村さん、似ているんだよ」だから里村さんに俺は言った。

「誰にです」

「怒るなよ。……俺に」

「……」

 はぁ。どうしたらそんなことが言えるのでしょう? とでも言う風に里村さんは頭を左右に振る。

「俺にもどうしても忘れられない思い出があるんだ」

 俺は消え去りそうな声で告白する。里村さんが静かに顔を上げた。

「……」

「いや、傷だ。心の傷。忘れられない心の傷。全部、俺が悪いんだろうけどね」

「……」

「自分が以前やってしまったことで、今も苦しんでいるんだ。忘れたいけど忘れたくない」

「……どうして忘れられないんですか」里村さんが尋ねる。

「……自分のことが許せないからさ」俺は答えた。

「……」里村さんは押し黙る。

「ね、似てるだろ?」

 誰もいない教室で、俺は念を押すように言った。

「似てません」里村さんはきっぱりと否定する。

「そう?」俺は首をかしげた。

「……」

 里村さんは下を向く。俺はどこか遠くを見る。

「自分で自分が許せない。忘れたいのに覚えていなければならない。……自分のために、誰かのために。……誰かをこれ以上傷つけないために」誰に言うわけでもなく小さく呟く。

 俺は、もしかしたら自分自身に向かって話しているのかもしれない。自分自身を納得させるために、それだけのために。里村さんのことなど構わずに。

「……でも本当は、自分が傷つきたくないだけなんだ」

 ふう。俺は俯き下を向く。しかし俺は一体何を話しているんだろう。何故俺は面識もあまり無いこの少女の前で、こんなに自分の気持ちを話してしまうのだろう。

「あなたの罪とは一体何なのですか?」

 長い沈黙の後、里村さんがそっと尋ねる。

「……」

「あなたは何をしたんですか?」

 俺が答えないでいるともう一度、里村さんが訊いた。

「どうしてそんなに長森さんのために一生懸命なんですか?」

「……あまり話したくない」

 俺はどこかを見ながら答える。

「……」里村さんは少しの間ためらっていたが、やがて、意を決したように話し始める。

「あなたが長森さんのことが心から好きだと言うのは分かります」

「ああ、それはわかるんだ」俺はぼんやりと返す。

「あたりまえです。馬鹿にしないでください」心から心外そうに言われる。

「……そう」

「でもそれならどうして忘れさせてあげないんですか? その」

「……折原浩平」里村さんはいつもの様につっかえて、俺はいつもの様にフォローを入れる。

「……折原さんのことを」

「……里村さんは忘れたいのか?」

 俺は逆に尋ねてみた。

「何度も言いますが、私のことはほっといて下さい」

「……」里村さんの言葉に俺は口を噤む。その隙を突いて里村さんが言葉の攻勢をかけてくる。

「あなたが折原さんの代わりになるべきです。帰ってくるかも怪しい人をずっと待ち続けるのは…」

「つらい?」俺はまた口を挟む。

「……」俺の言葉に里村さんは下を向いて押し黙った。やがて下を向いたまま静かに言う。

「……時々忘れたくなるんです。あのひとのことを。でも私が忘れてしまうとあの人の思い出がこの世界から完全に消えてしまうんです。それは嫌なんです。寂しいんです」

 泣きそうな顔で里村さんは俯く。

「……ごめん」

 俺は謝った。

「……いえ、……いいんです。……全部、本当のことなんですから……」

 そして俺のほうに向き直る。

「……私は本心を話しました。今度はあなたがしゃべる番です。教えてください。なぜあなたはそんなに自分の気持ちを捨ててまで、長森さんの思い出を守ろうとするのですか?」

「聞いたら俺のこと、きっと嫌いになるよ。……嫌いになっても聞きたい?」

「あなたはそうやって人の心が容易く変わると思うのですか?」

「変わるさ。聞けばね。特に女の子が聞けば効果抜群。一発で嫌いになるね」

 あのことを里村さんに話すのか。気が進まない。しかし、里村さんになら話して良いような気もする。俺と似ているこの人になら。

「それでも聞きたいなら、話してあげるよ」

 俺は極力里村さんの方を見ないで言った。

「……」里村さんの返事は無かった。

「聞きたい?」

 里村さんが答えないのでもう一度尋ねる。

「……」

「聞きたい?」

 もう一度。本当は打ち明けたいのかもしれない。そうではないのかもしれない。よくわからない。自分の心がわからない。

「本当に聞きたい?」もう一度だけ、訊いた。

「はい」

「……」

「……」

「……そう」

 俺は目を瞑る。

「……」

「はぁ……。じゃあ、ちょっと、ここに座ろうか」

 俺は教室の空いていた椅子に里村さんに背中を見せる格好で腰掛ける。里村さんはわざわざ椅子を移動させ、ちょうど僕と真正面に向き合う形で腰掛けた。

「はい、では話してください」

「……」

 せっかく背中を向けたのに、なんでわざわざ正面に座るかな。俺の真正面に里村さんがちょこんと腰掛けている。この状況はなんだかすごく話し辛い。そんなに真剣になられても、なんと言うか、困る。理想としては簡単に聞き

 

流してもらいたい話なのだが。俺が言い辛そうにしているのを里村さんは不思議そうに見ていたが、やがて両手を差し出すと、どことなくおごそかに言った。

「手を握りましょうか?」

「何で?」俺は尋ねる。

「そのほうが話しやすいでしょう」

 里村さんは無表情のまま言う。

「……」

 そうかな。別にそんなことはないと思うけど。それに手を握るだって? 俺が応対に困っていでいると、里村さんはゆっくりと身を乗り出して俺の手を静かに掴む。同時に背筋に衝撃が走った。

「やめなよ」

 急に不快感と嘔吐感が込みあげる。手を握るな、俺の目を見るな。俺はそんな行為に値する人間じゃない。まだ、克服していなかったのか。ドクン。心臓が脈打つ、視界が歪む。

「俺はそんな行為に値する人間じゃない」

 俺は実際にそう叫んだ。

「そんなことは私が判断することです」無表情のまま、里村さんが静かに言った。

「やめてくれ、本当に止めてくれ」

 俺は懇願する。鳥肌が立ちそうだ。心の奥底まで一気に踏み込まれたような不快感。俺は手を振りほどこうとするが、里村さんはしっかりと俺の手を握っており、離れない。俺の手から変な汗がでて、それが里村さんの手を汚す

 

んじゃないかと心配で、不快がらないかと心配でしかたなくて、どうにかして手を引き戻したいんだけどできない。爪を立ててやろうかと思ったけれど、里村さんの華奢な手を傷つけるかと思うとできない。俺は誰も汚したり、傷

 

つけたくないだけなのに。ただそれだけなのに。泣きそうになる。

「逃げないでください」

 里村さんは耳を貸さない。ますます強く、俺の手を握り締める。

「話すから、話すから止めてくれ」

 俺の声は涙声になっていた。しかし里村さんは耳を貸さない。

「話してくれたらやめます」

 その言葉に、俺は動きを止める。黒い思考が染みの様に心を侵食する。

 ……。ああ、ああ、止めるだろうね、絶対に止めるだろうね。俺の穢れた手を振り払うだろうね。急に嘔吐感が止んだ。代わりに心に黒い炎が灯る。

 人をここまで憎むのは久しぶりだ、たぶん。くそ、絶対に手を離させてやる。そんなに俺のことを嫌いになりたいのか。里村さん、俺のことが嫌いになりたいのか。俺は里村さんのこと別に嫌いじゃないのに。……。俺のこと嫌

 

いになって欲しくないのに。誰にも俺のことを嫌いになって欲しくないのに。そのために必死に生きているのに。……わかった、もう、わかった!

「わかった、話す」

 繋いだ里村さんの手を握り締める。顔を上げ、里村さんの目を睨みつける。

「レイプしようとした」

 俺はわざと人を驚かさせるような汚い言葉を使って話し始めた。

「……」

「元はといえば折原の企みだった。俺は乗せられた。夜、学校に長森さんを呼び出してレイプする計画だった」

「……」

「長森さんは折原に連れられてやって来た。そこで俺が犯す手はずだったが、できなかった。途中で折原が裏切った。電気をつけて逃げ出した」

 淡々と語る。目を見据える。里村さんは俺の顔を無表情のまま見つめている。

「……」

「俺も逃げた。顔を見られたかどうか分からない」

「……」

「それでおしまいのはずだった。俺の恋も。折原と長森さんの関係も。それは当然だろう? あんなことしたんだから」

 誰かの同意を求めるように言う。

「……」

「でも、新学期、あいつ等恋人づらして仲良く歩いていやがった。俺はふざけるなって思った!」

 息を荒げる。思い出す光景。あまりにも自分が惨めだったこと。あまりにも彼らが幸せそうだったこと。朝の光の中、冬の寒さの中、壊された俺の心。

「あいつ等、きっと俺を嵌めたんだ」

 それは心にずっとしまっていた一つの闇だった。自己欺瞞。そう、そうやって怒りで自分の罪を消そうとした時もあった。

「……」

「俺の傷を抉って喜んでいたんだ。俺の好きだと言う気持ちを弄んだんだ!」

 違うことはわかっていたが、誰かにそう言って欲しかった。誰かに。俺は甘いのだ。…情けないほど甘いのだ。切れ切れに言葉を続ける。

「でなけりゃ、あんなに楽しそうに歩けるはずなんて、ない」

「畜生! 今でも思い出すだけでどうにかなりそうになる。どうにか、どうにか!」

 ダン!

 俺は視線を泳がしながら、里村さんのを巻き込みながら足を踏み鳴らす。高い不快な音が教室中に響いて、はじけ飛ぶ。

「……」

「……」

「……」

 少し落ち着いて、俺はまた話し始める。怒りの炎は胸の中で燃え盛り、俺の身を焦がして黒くする。黒く、黒く。

「……折原が消えたと聞いたとき、正直いい気味だと思った。二度と帰ってくるなって思った。……今でも思ってる。探偵ごっこもほとんど冗談交じり。折原のことなんて覚えていないって聞くたびに、胸が軽くなる。それを確認

 

するためにこんなことを続けているのかも。はは、すまないな、長森さん。長森さん。……ひどい協力者だ」

 俺は横を向く。長森さん。長森さんの顔を浮かぶ。長森さん。……。

「……」

「……」

「……」

「……でも、屋上で見かけたとき、長森さん、すごい寂しそうな顔してた。それが、俺が折原の話をするだけで、信じられないくらい表情が輝くんだ」

 少し休んでまた語り始める。

「……」

「……長森さんにはすまないと言う気持ちは確かにあるからさ、話とかは聞いてあげないとって思うんだ。……出来るのはこの世界でどうやら、俺だけみたいなんだし」

「……」

「……そうだな、もしかしたら、俺のやっていることは長森さんの苦しみを引き伸ばす結果にしか終わらないのかもしれない」

「……」

「でも、信じているんだよ。長森さん。折原が帰ってくるってさ」

 どういうわけか目が潤んでくる。しばたかせてごまかした。

「……」

「長森さんに酷いことをした犯人と気づかれるのも嫌、折原が帰ってくるのも嫌。折原の話をすることは本当は嫌。なんだか、嫌嫌尽くしだな。俺は結局何がしたいんだろう」

 俺は大きく息をついた。本当に自分が嫌になる。

「……」

「……」

「……」

「……」

 そしてもう何も言えなくなった。俺は打ちのめされたように下を向き、荒く息をつく。頭が真っ白になっていた。もう、何も考えられない。

 ぎゅ。握った手に力をこめられる。里村さんの手だった。まだ握っていたのか。俺のほうはずっと前から力を抜いていたのに。

 話す前はあんなに憎しみに燃えて握り締めていたはずなのに、そんなこといつの間にか忘れていた。心の屈折をぶちまけてしまってなんだか心が軽くなった気がする。……そうか、ずっと握っていてくれていたんだ、里村さん。

 ゆっくりと俺は手を引っ込める。約束通りに里村さんは手を離してくれた。汗ばんだ自分の手を俺は机の上で重ね合わせる。暖かいものを感じる。そして心の中で俺は里村さんに感謝した。

「ありがとう、里村さん」

 実際に口にした。

「私は別に何もしていません」静かな声で里村さんが答える。

「……」

「……」

 こんな俺の手をずっと握ってくれていて、本当にありがとう。今度は心の中だけで言った。

 そして俺は礼をするように腕を机の上に投げ出すと、頭をたれて下を見る。それ以上俺は何も言わなかったけれど、そのとき、涙が一筋俺の目から零れ落ちた。里村さんはそんな俺の様子を無表情のまま見つめている。

 なんて声をかけていいのか、わからないようだ。

 ……そして、胸の鼓動を数えながら気づいたことがある。

 

 ――もしかしたら、俺はこの少女のことが好きなのかもしれない。

 

 過去の記憶に囚われて、どこにもいけない、なにもできないこの少女のことが。

 笑うことも、喜ぶことにも罪悪感を思う、心を殺したこのいたいけのない、そして心優しい少女のことが。

 それは同情。

 そして共感。

 悲しいまでに安っぽい感情。きっとそれは全部俺の思い込みでしかない。だけど。

 だけど、俺は、この少女のことが好きだ。悲しみを胸に抱えたこの心優しい少女のことが。俺の告解を聞いてくれたこの少女のことが。……。

 

 ――いつか、この人のために何かをしたいと思う。

 

「あなたと私は、確かに似ているのかもしれません」

 本当に長い長い沈黙の後、里村さんは静かに言った。だがどうしてだろう、俺はそれには頷けなかった。

「似てないよ。俺は里村さんほど優しくなかった。人を傷つけることも平気だった。自分だけが良ければ、それで良かった」

 俺は思いをこめて呟く。どこか上のほうを見る。視線を戻す。そしてまた呟く。

「……俺はあの時どうすればよかったんだろう?」

「……」

「本当に、どうすればよかったのだろう?」

「私には、何も言えません……」

 夕暮れの近い教室で、死にかけた蝉が最後の歌を歌う頃、俺はまだ一人道に迷っていた。

 

 

 下校時。俺は空の鞄を持って一人道を歩いていた。さっきまで里村さんと話しこんでいたせいで、西空はすでに赤く染まっている。

(今日の夕日はあまり綺麗じゃないな)

 そんなことを思う。少し立ち止まり、また歩き出す。雑踏がなんだか息苦しい。さすがにちょっと疲れたかな。

(彼らはどこへ向かっているのだろう)

 頭。疲れた頭の中で急にそんな問いが湧き出てきた。

(家に帰るんだろ)自分に言い聞かせる。

(……違う。そう言う意味じゃなくて……)

 もっと大きな。もっと大事な。……何と言えばいいのかわからない。

(俺はどこへ向かっているんだろう)

 またそんな問いが湧き出てくる。自分で決めろよ。自分に言い聞かせる。……でも少しだけ、考えてみた。

(俺はどこへ行きたいのだろう)

 急に頭の中がごちゃごちゃになる。俺は目頭を押さえる。何かが脳髄からあふれ出てきそうな恐怖。それを押さえつけるように遥か上、紫色に染まった空の天上を見上げる。

 どこかへ。

 ここではないどこかへ。

 怖気を震う寒さ。あの時の寒さに似ている。そばにあったバス停のベンチに俺はしゃがみこんだ。

「……」

「……」

 しばらくして体の震えは収まった。

(何をそんなに震えていたのだろう)

 今になって思えば何てことないように思える。むしろこんなことで時間をとった自分がバカらしい。俺は立ち上がる。まだちょっとふらふらするが極力、気にしないようにした。

 俺は一人、家路を急ぐ。自分ではどうにも出来ない不安を抱えながら。

 

 

  3―1

 

 

「なんだか疲れました」

 屋上で俺は大きく息をついた。

「若いのに」

 俺の隣にはみさき先輩が佇んでいる。

「まあ、一応受験生ですから」全然勉強していないけど。心の中で付け加える。

「へえ、そうなんだ」

「そう言われると、なんだかそうじゃないような気がしてきましたよ」

「困ったね」

「ええ、困りました」

 そう言ってもう一度ため息。

「ふう」

「ふふ、本当に疲れているんだね」

 気の抜けたため息に、みさき先輩は笑う。

「ええ、疲れているんですよ」

 俺はそう返すといつもの様に夕焼けを眺める。

「気晴らしにどこかへ行きたいなって思うんです」

「へえ、どこに?」

「海なんてどうかな」ふとそんな場所が思い浮かんだ。

「海?」

 みさき先輩が尋ねてくる。

「ええ、季節外れの海と言うのは結構風情がありそうじゃないですか?」

「先輩は……」

『海見たことありますか?』と言いかけて俺は口を噤む。

「ん、何?」

「いえ、何でもありません」俺はそう言ったが、みさき先輩は俺が何を言いかけたのかわかっていたようだ。

「見たことあるよ、海なら。わたしの目がまだ見えた頃、何度もね」

 懐かしそうに俺に言う。

「……そうですか」

 ぼんやりと返す。

「うん。今でも覚えているよ」

「永遠は見つかりましたか?」ふと、そんな言葉が浮かんで呟く。何かの詩人の言葉だっただろうか。

「ん? 何?」

「いいえ、なんでもありません」俺は頭を振る。

「疲れているんだね」みさき先輩は少し心配そうだ。

「ええ、疲れているんです」

 そう言って少し考え、

「俺の罪は許される時は来るのだろうか」こんな弱音を吐いた。

「……言わないと、きっと届かないよ」

 みさき先輩は答える。

「そうですね」

「うん」

「でも本当に許してくれるかな」また弱音を吐く。

「……それは長森さん次第だね」

「そうですね」

 実際その通りだった。

「もし許された後、俺はどうするのかな」

「行きたいところに行けると思うよ」

 みさき先輩の言葉に俺は立ち上がる。

「行きたいところ……」

 茜色の空。

「そういえば、みさき先輩は、行きたいところってありますか?」

 しばらく俺はその空に見とれていた。やがて、空を見上げたまま訊いてみる。

「……」

「みさき先輩?」返事が無かったので俺は先輩の方を向き名前を呼んだ。

「無いよ」先輩の声は本当に小さなものだった。

「え?」俺は訊き返す。

「行きたいところなんて、無いよ」

 そのときにはもういつもの先輩に戻っていた。

「……そうですか、実は俺もなんです」

 俺は呟く。先輩の方の言葉は嘘だと思ったけれど、それは言わなかった。

「……本当は、あるんでしょ?」

 小さな声で先輩は言った。俺は先輩の顔を見つめる。

「え?」

「本当は、行きたいところ、あるよね?」

 本当、小さな声だった。二人だけの秘密を分かち合うような、魔法がかった声。

「……ええ、実は」それに捕われたようにかのように俺は頷いてしまう。心の中ではずるいなと思う。俺の方は詮索しなかったのに。

「どこ?」みさき先輩が聞いてきた。俺は考えてみたが具体的な地名は出てこなかった。

「……どこか、かな」俺は呟く。

「……そう」

 以前の様にからかっているのと言われそうだったが、不思議と先輩はその言葉を言わなかった。そっと目を伏せる。

「……みさき先輩は?」

 俺も尋ねてみた。

「……」

 沈黙だけが帰ってきた。

「みさき先輩、もう少し楽しい話しましょうか」

 やがて俺はみさき先輩の俯いた顔を見ながら言った。

「……そうだね」

 先輩も俯いたまま呟く。

 

 

「長森さんは折原のこと許してる?」

 ある時、不意に尋ねてみた。

「え、どういうことかな」

 夕闇の中、長森さんが振り返る。夕日の影を落とした顔が俺の表情をうかがう。

「いや、一人で勝手に消えてしまうなんて、よくよく考えてみれば酷いじゃないか。後に残されたほうの身にもなってみろよ。とうてい許せる行為じゃない」

 俺は自分の中の疑問をそう説明した。なんとなく、長森さんに答えて欲しかった。

「わたしは大丈夫だよ?」長森さんは健気そうに笑う。

「……長森さんががんばっているのは知っているよ。でも許せるか許せないかはそれとは関係ないと思うんだけど」

「うーん」長森さんは考え込む。

「……どうかな」俺は言う。

「よくわからないよ……また浩平に会った時に考えるよ」

 しばらくして長森さんはそう言うと、困惑の表情を浮かべる。

「そう……」

 俺は下を向く。言葉を考えているうちに、なんだかどうしても長森さんにこの質問を答えてもらいたくなっていたのだが、どうやら答えてもらえそうに無い。……。

(……逃れられない罪か)

 ふと思う。俺は折原への質問にかこつけて自分のことを許してもらおうとしているのかもしれない。

 なんだか、せつない。

「あ……でも、許せるかな。……うん、今なら許せる。また会ったとき、その時はわからないけど、今なら許すよ。浩平のこと」

 不意に思いついたように顔を上げて長森さんは言った。朱を深めた西日が静かに長森さんの顔を照らす。

「そう? 折原のこと全部、丸ごと?」俺は静かに訊いてみる。

「うん」

 そっと頷いた長森さんを見て俺は呟いた。

「そうか……」

「どうしたの?」

 長森さんが尋ねてきたので俺は空を見上げながら、大きく伸びをして正直な気持ちを言った。

「いや、うらやましいなぁって」

 ……。もし俺が消えたとしても、俺にはそんなずっと待っていてくれるような人はいそうもない。本当に信じていれば人は戻ってくるのだろうか。折原浩平はえいえんのせかいから戻ってくるのだろうか。

 少しだけそんな奇跡を見てみたいと思った。

 俺には決して起こりえない奇跡を。

「折原、帰ってくるといいな」俺は言う。

「……うん」夕日の中、長森さんは頬を染めて頷く。

 そして俺は長森さんに気付かれないくらい小さく息をつく。

 屋上に長く伸びた自分の影を見ながら思う。

 結局、自分は折原の影でしかないのか。

 影は光に照らされれば掻き消える。

 一瞬だけ自分の影が屋上から消える。

 夕日が雲に入ったのだ。きっと。

 一瞬だけ自分の姿がこの世界から消える。

「……」

 俺はゆっくりと目を閉じた。なんだかわかってしまった。静かにため息をつく。

「ん、どうしたの?」

 長森さんが訊いてくる。

「いや、なんでもない」

 俺は答えた。……本当に少しだけ、わかったことがある。

 

 ――影は影である限り、実像とその運命を同じくするということを。

 

 長森さんと別れて屋上を出るとそこにどういうわけか里村さんがいた。俺は黙って通り過ぎようとする。

「逃げるのですか?」

「このまま来たら、最後まで逃げ続けると言うのも悪くないかもな」俺は遠くを見ながら言う。

「……逃げ続けるのはあなたが思っているよりもつらいですよ」

「そうだな。でも、ま、もうすぐ逃げ切れるし」俺は口元を歪める。

「?」

「……いや、なんでもない」自嘲は人前でするものじゃないから、俺は表情を消す。代わりに言った。

「長森さんを待っていたのか?」

「はい」里村さんは答える。

「じゃあ、後はよろしく」手を振って別れようとする。そんな俺の背中を里村さんが呼び止めた。

「待ってください」

「何だ?」俺は階段の踊り場で振り返り、里村さんの顔を見上げる。

「ワッフル、食べに行きませんか?」里村さんが言った。

「……これから? 俺と?」

「はい」

「……そうか、俺は別に構わない」

 少し考えた後、俺は承諾した。

「……そうですか」

 自分で提案したことなのに、なぜか里村さんは意外そうに目を閉じる。

 

「そういえば、こんなことをするのは久しぶりだ」

 公園のベンチで無駄に甘いワッフルを食べながら、俺は里村さんに言った。これ、なんだかねとねとしている。このワッフルは人気店のものらしいが、俺は良く知らないので、注文を里村さんに任せたのは間違った判断だったよ

 

うだ。正直、水が欲しい。

「そうですか……」

 里村さんと言えば俺と同じ物を平然と食べている。なんだか凄いと思う。

「あの話を聞いてくれた里村さんのおかげだよ」

 俺は食べかけのワッフルをそっと袋に戻しながら言った。俺は甘党な方だと思っていたのだが、もう甘いのは一週間は食べたくない。

「私は何もしていません」言いながら里村さんは二つ目に取り掛かる。俺はただただ感心するだけだった。

「……」

「ところで、あなたの気持ちは打ち明けたのですか?」食べ終わって、満足したのか里村さんが訊いてくる。

「俺の気持ち?」俺は訊き返す。

「長森さんを好きだと言う気持ちです」

 紙ナプキンで口元を拭いながら里村さんが続ける。

「俺が言えた義理じゃないだろう」俺は答えた。

「……いつかは言わなければならないことですよ」

「そうかな?」

「そうです」

 なんだか今日の里村さんは饒舌だ。甘いものを食べると口が軽くなるのだろうか。

「もともと最初から機会なんて無かったのさ。それにいまさら言ったって……」俺は口を濁す。甘すぎるワッフルのせいか、頭が少しくらくらする。

「何かあったんですか? あなたの様子、変です」

 俺が額を押さえていると里村さんが言った。

「最近疲れていてね」俺は答える。

「それだけとは思えませんが」

 鋭いな。確かにそれだけじゃない。時折訪れる空漠感。自分が自分でなくなるような感覚。そして世界に溶けてゆくような不安感。さっき屋上で感じた直感。

「どうして急にそんなこと聞くんだ?」

 そんな不安を頭から振り払うと、俺は逆に尋ねてみた。

「……なんだか私、あなたのことが少し心配です」

 里村さんの答えはこうだった。

「俺のこと?」俺は訊き返す。

「……はい」

「里村さんが?」もう一度俺は訊いた。

「はい」

「……。……ふうん、変なの」

 俺は横を向く。

「そうでしょうか? 傍から見ているととても危なっかしく思えるのですが」

「……俺は全然大丈夫なんだけど」

 俺は向きかえり、里村さんの瞳を見つめる。

「……」

「……」

 やがて俺は視線を逸らす。どういうわけか、里村さんの眼差しを直視できなかった。

「……まあ、全然と言うことは無いかもな」

 そう言うと、俺はワッフルの入っている袋を置いたまま立ち上がり、里村さんに背を向ける。

「……俺はどうやら消えてしまうらしいし」

 そして小声で俺は言った。疲れたように目を閉じる。

「折原と同じだよ。そして、多分里村さんの好きな人と」

 言葉を続ける。それは予感めいたものか。それとも折原の話を聞いていたからそう思うのか。それが、全部思い違いであればいいのだが。

「……冗談、ですよね?」

「……いや、本当のことだと思う。……確証はないけれど」

「……どうして、なんですか?」

 里村さんが俺の顔を覗き込む。俺の不安感は消えない。むしろ実際に口にしたことにより確信に変わる。

「……どこかへいきたいって思っていたんだ」俺は視線を天に向けると夢うつつに呟く。

「ここではない、どこかへ」そして目で雲を追う。

「……今も行きたいのですか」里村さんが言った。

「……行きたくない。……でも、本当はわからない」

 俺は答えた。実際わからなかった。強い疲労を感じ、俺はゆっくりと背を丸める。

「じゃあ、あなたはどうするつもりなんですか……」

 彼方のほうから声が聞こえる。

「……わからない」

 俺は呟く。

「本当、わからない……」

 果てしなく低く、呟く。

 秋の日はもう落ちかけていた。

 

 

「もし、今度会う時があったら、きっと赤の他人だな」

 別れ際に俺は言った。

「帰ってこれますか?」里村さんが尋ねる。

「……たぶん、帰ってくるつもりは無いよ」俺は言った。

「……どうしてですか?」

「もう、誰も傷つけたくないから。もう、誰からも傷つけられたくないから」

「……結局、逃げるんですか」

 里村さんは寂しそうに呟く。

「ああ、逃げる。……遠くに。……ずっと遠くに。……ずっとずっと、もっとずっと遠くに」

 俺は弱いのだ。こんなにも弱いのだ。そしてわがままなのだ。

「……じゃあ、さよなら、里村さん」

 言い捨てて俺は背を向ける。

「……」

 里村さんは何も答えなかった。

 

 

  3―2

 

 

 それからしばらくして、ふとした用事で氷上のクラスの生徒に名前で呼び止められた。声をかけてきた女子のことを俺は少し知っていた。と言っても一年のときに同じクラスだったということでしかないが。ふらふら当ても無く

 

歩いていたのでちょうど適任と思われたのだろう。

 用件は演劇部の秋季公演の大きなポスターを張るのに端をちょっと押さえていてくれないかとのことだった。俺は暇だったし、その女子のことが別に嫌いではなかったので、快く承諾した。

『主演・上月澪』と大きく書かれたポスターを押さえながら、知ったよしみで少し雑談を交わす。ふとしたことで、氷上のことが話題になった。

「氷上君?」

 氷上と同じクラスのはずの彼女は心底驚いたような声を出した。

「うん。最近あいつクラスでどうだ?」俺は愛らしい衣装を身にまとった主演の少女の大きな瞳を見つめながら言った。

「氷上君なら今年の正月すぐに亡くなられたよ」

 突然の丁寧語に俺は凄い違和感を感じたが、それより聞き捨てならないことを聞いた。氷上が死んだ? 俺は驚いて尋ね返した。押さえていたポスターがずれる。

「うん、なんだか病気らしいよ。私は違うんだけど友達であの人のファンがいてね、大泣きで大変だったんだから」

 ずれたことを責められるかと思ったがその女子はどこか遠い目をして言った。嘘をついているようには思えない。

「いや、知らなかった」俺は言った。そっとポスターのずれを直す。

「確か同じ部活でしょ? お葬式、出てあげなかったの?」

 お葬式? そんなものまであったのか。いや、普通それが当たり前なのだが。どうやら俺はひどく混乱しているようだ。正直に言う。

「出てないな」

「ひどーい。友だちがいのない人ね」

 その口調こそ明るかったが、瞳の色が急に冷たくなった。なんだか怖い。俺は慌てて弁明する。

「というか、死んでたことすら知らなかった」

「それもホント? 結構大騒ぎだったんだけど」

 まだ誤解を解いてもらえないようだ。でも実際知らなかったのだから仕方ないと思う。

「それは女子だけの話じゃないのか?」俺は訊いてみた。

「そんなことないと思うけど? 本当に大事件だったんだから」

 ……まあ、学校の生徒の誰かが死ねば、普通、大事件になるよな。言い訳は効かないか。

「そうか…」

 そりゃすまなかったな、氷上。全然知らなかったよ。平然と部室に顔を出すんだもんな。まったく、新年早々といえばあの事件のせいで大変だった頃か。覚えていないのも無理はない。この女子は最近氷上によく会うと聞いたら

 

きっと腰を抜かして驚くだろうな。大騒ぎした友人と言うのはいままでの反応から見てきっとその女子自身のことと判断してまず間違いは無いだろう。……演劇部らしからぬ稚拙な演技だ。俺は少し口元に笑みを浮かべたが、すぐ

 

に閉ざす。そして思いを馳せる。……。そうか、氷上の奴、もう、死んでいたのか。

「……そういえば、あなた誰だっけ」

 物思いに沈んでいるとそんなことを言われた。

「さあ? どうでもいいじゃん。それよりポスター早く貼っちゃおうぜ」

 俺はおもわず呆けた表情になってしまったが、気を取り直すと努めて陽気に答える。

 

 あくる日の夕方。赤く染まる軽音楽部室。今日はギターを弾いていない。机の上で仰向けになっている。なんだか、諦めの境地だ。ちっとも上手くならない。もともと、上手くなろうとはあまり思ってはいなかったが、ここまで

 

上達しないとなると話は別だ。自分の才能の無さにうんざりする。

(そういえば、ここの部員。もしかしてもう俺だけか?)

 下級生が入ったという話は聞いていない。折原も帰ってこない。じゃあ、もうすぐ廃部か。少しもったいないな。そんなことをひっくり返りながら思っていると、いつもの様に音も立てずに彼がやって来た。

「よう、死人」俺は声を掛ける。

「……へえ、驚かないんだ」

 氷上は近づいてきて、俺の側の机に腰掛ける。そして俺が思っていたよりもやさしげな顔で微笑んだ。

「まあな。この世界から消える奴がいるんだし、別に死人が出歩いても驚かないね」

 そう言葉を投げかけて俺は話を続ける。

「知っていたんだろ? 折原のこと」

「まあね」氷上が答える。

「やっぱり。そんなことだろうと思ったよ」

 俺は言った。氷上は笑みを相変わらず浮かべている。

「ふふ、きみもすでに不思議な存在だよ」

「……そうか?」

「みんなの記憶から消えたはずの人のことを覚えていて、死んだはずの人間と話せる。それは不思議な存在以外の何ものでもないよ」

「……そうだな。みさき先輩に昔、冗談で言ったことがついに本当になっちまったか」

 俺は寝たまま頭を掻く。

「で、特別な存在は、消されなければならない」

 氷上はいつも通りの笑みを浮かべながら呟いた。

「……」

「どうしてだと思う?」

「それは不健全だから、世界にとって不健全だから、……か?」

 そして俺は氷上の言葉を引き継ぐ。

「……」

 氷上が目で笑う。

「……ふう」

 俺は笑う代わりにため息をつく。

「きみがそう望んだんだよ。えいえんのせかいを。誰の手から逃れられる、えいえんのせかいを」

 そうかもな。そうかもしれない。

「長森さんから聞いたとき、きみは憧れたんじゃないの? えいえんのせかいに」

 そうかもな。そうかもしれない。

「誰からの手から逃れられる、えいえんのせかいを。あさましい自分の罪から逃れられる世界。誰も傷つけない世界。誰からも傷つけられない世界」

 そうかもな。そうかもしれない。あの日あの時望んだ世界はそうだったのかもしれない。

 だけど。

「たしかにそこに辿り着けたのなら、俺の犯した罪は無くなるのかも知れない」

 俺は言う。

「だけど、そんなところ行きたくない。……それに、自分の罪の意識からは結局、逃れることなんてできない。たぶん、自分で自分を許さない限り、どこまで逃げても無駄だと思う」

 氷上は俺の言葉に不思議そうに俺の顔を覗き込む。そして、どこかおかしそうに言った。

「でも、もう始まっているよ」

「融通の利かない世界だな」俺はなるべく表情を変えずに答える。

「ふふ、まったく」言って氷上は笑う。

「……しかたないね、俺に残された時間の中で、自分で自分のことを許せるようなことをするだけだ」

 俺は目を閉じて誰に宣告するわけでもなく呟く。表情は変えない。変えるわけにはいかない。

「へえ、諦めがいいね」

 氷上が意外そうに微笑みかける。

「それだけが取り柄でね」

 俺は言った。

「本当に、それだけが取り柄でね」

 低く呟く。俺は弱さを打ち明けて生きてきたのだから、強くならなければならない。

 だが、一体誰のためにだろう?

 

 

「――もしも、ある人間が全ての人に忘れ去られてしまうとして、その理由がその人間は全ての人の集団から外れた存在、つまり群れからはぐれてしまった存在になったからというのはどうでしょうか」

 俺はみさき先輩にえいえんのせかいについて話していた。どうして人は消えるのか、どうして人が忘れられてしまうのか。俺なりに考えての説明だった。

「そんなので消えるなんて、つまんない理由だね」みさき先輩が言う。

「ええ、つまらない理由です」

 俺も実際そう思っていたので同感だった。

「本当、つまんない理由だよ……」

 急に寂しそうにみさき先輩が言ったので俺は少し驚いた。先輩の顔を伺い、俺は名前を呼ぶ。

「みさき先輩?」

「わたしはきっと外れたほうの人間なんだよね」

 胸に手を当て、寂しそうに、みさき先輩は呟く。

「……」

「わたしもこんなことを続けていたらみんなに忘れられてしまうのかな」

「みさき先輩…。俺は忘れませんよ? 先輩のこと一生忘れませんよ」

 俺は言った。たとえこれからどこに行ったとしても俺は先輩のことを決して忘れないだろう。だが、みさき先輩の言う『こんなこと』と言うのはやはり卒業してもここに来ることなのだろう。

「うん、ありがとう」先輩は少し微笑む。そして俺に向かって訊いてくる。

「ねえ、わたしはだれかの役に立てるかな? 本当に誰かの役に立てるのかな?」

「みさき先輩は充分すぎるほど俺の役に立っていますよ」

 俺は答えた。

「でももうすぐ卒業するんだよね」

「……ええ」俺は言葉を濁す。実際卒業できるかどうか、卒業までこの世界に留まれるとは思えなかったが、この世界から消えるのも、まあ卒業することとあまり変わらないだろう。

「そうしたらわたしは一人ぼっちだよ」

「俺の様にまた、ここを愛する奇特な後輩が現れるかもしれませんよ」

 俺は努めて明るく言ってみた。

「うん、……でも来なかったら?」みさき先輩が心配そうに言う。

「……。そのときは……」

 俺は言葉に詰まった。知らなかったことを悔やんだ。みさき先輩の寂しさを知らなかった自分を悔やんだ。そして先輩は俺のことをもうすぐ忘れてしまうのだと言うことを思い出す。この出会いも、ここであったことも、全部先

 

輩は忘れてしまうのだ。

 そうなのだ、先輩は全部忘れてしまうのだ。

 自分のことなんでどうでもいいはずなのに、先輩のことを考えると、なんだかひどくすまない気持ちになる。

 ……。何かしなくては。みさき先輩には十分すぎるほどの恩を貰った。今のうちに何か先輩に恩返しをしなくては。忘れられてしまう前に。忘れられてしまうとしても。先輩のために。……自分のために。

「……」

「みさき先輩」

 俺は言葉に真剣さをこめて言った。

「何かな?」

「お節介かもしれませんが、この学校に執着するのはやめて、どこか外に出るようにした方がいいと思いますよ」

「……」

「そうしないと何時までも先輩、ここを卒業できませんよ」

「みさき先輩は目が不自由かも知れないけど、強い人だと思います。だって俺のことを何度も助けてくれたじゃないですか。その気になればいくらでも外を歩けると思います。ここなんで自由に出られますよ。きっと外に出れば好

 

きなことも見つけられますよ」

「……わたし、本当に外が怖いんだよ。外だと、ここみたいに自由に歩けないんだよ。怖くてここから出られないんだよ」

「怖いんですか」それが理由だったのか。俺はこのなんでもない屋上を端から端まで見回す。ここにはきっとみさき先輩の色々な思いがこめられているのだろう。

「……うん」

 みさき先輩は頬を染めてポツリと呟いた。

「でもずっとこのままというわけにも行かないでしょう」

「うん、自分でもわかっているんだけど」みさき先輩は俯く。

「みさき先輩。こんな言葉知っていますか?『精神的に向上心がない奴は馬鹿だ』」

「夏目漱石の『こころ』の一節だね。でもそんなこと言うと自殺しちゃうよ?」

 俺のいかにも安っぽい知識に少し笑ってみさき先輩が言う。

「俺は消えてしまいそうです」

「ん、何が?」みさき先輩が尋ねてきたが、俺は言葉を続ける。

「とにかく、笑い話で済まされるうちに前に歩き出したほうがいいと思いますよ。笑えなくなってからは遅いですから」

「……」

「なんなら手伝いましょうか」

 みさき先輩が黙ったままなので俺はこう提案した。

「悪いよ」みさき先輩がすまなそうに照れる。

「いいえ、いま俺は善行がしたくてたまらないんです」

「どうかしたの?」

「色々あるんですよ」

「大変だね」先輩が顎に手を当てて言う。

「ええ」俺は下を向き答えた。心の中でそっと笑う。そうだな、大変だな。これから。

「あと、さっきの笑い話のことなんだけど」

 考えていると少ししんみりしてくる。俺が下を向いていると不意にみさき先輩が声をかけてくる。

「ええ、何ですか?」俺は顔を上げた。すぐ前に先輩の顔があって、先輩の影が俺の顔に落ちていた。

「わたし、笑ってないよ?」

「……」

「そういう時はどうすればいいのかな?」冷たい表情だった。俺はそんなみさき先輩の顔を初めて見た。胸が詰まる。先輩の顔をまともに見られない。

「笑ってますよ」でも俺は言った。先輩の表情を見つめながら言った。

「笑ってないよ、深刻だよ」

「笑ってますよ」

「……ひどいよ」みさき先輩は俯く。

「俺は善行がしたくて仕方がないんです」そして俺は目を逸らす。

「そう、でも今日は遠慮しておくよ」

「そうですか。残念です」俺も下を向きながら笑みを浮かべる。作った笑みを。……俺も笑えるうちに歩き出さないとな。でも、どこへ? 心の中で思う。

「……じゃあね」

 そう言ってみさき先輩は屋上を後にする。俺は大きな声でその背中に呼びかけた。

「ええ、さようなら先輩」

 そして先輩の姿が消えて屋上で一人呟く。

「……さようなら、先輩」

 上手くいかないものだなって思う。まあ、仕方ない。でも本当に、さようなら、先輩。いままで、ありがとうございます。俺はみさき先輩が消えていった扉に向かってもう一度深々と一礼する。最後に少しだけ先輩のために手伝

 

いがしたかったんだけど。

 見上げれば、東の空に輝き始めた月が静かに浮かんでいた。日没が近いのだ。下を見れば東に向かって長く伸びた影の群れが、包み込むように世界を黒く染めていた。影はゆっくり大地に根を伸ばし、あちらこちらで電気の白い

 

光が瞬き始める。

「影は世界の果てまで伸びてゆくのかもしれない」

「影はえいえんのせかいまで延びているのかもしれない」

 凍りつくような寒さの屋上で、俺は金網に手をついて、いつまでもそんなことを考えていた。

 

 

  3―3

 

 

 なんだか酷く疲れている。存在することだけで多量のエネルギーを消費しているようだ。だが、負けるわけには行かない。誰のためにだろう。だが負けるわけにはいかない。誰かに言われたわけではないのだけれど。

「辛そうですね」

 廊下で里村さんにすれ違った時言われた。

「……いや、そうでもないよ?」

 俺は強がってみた。

「……あなた、馬鹿ですよね」

「まあ、そんなものかも」

 まだ強がれる。諦念は俺にささやかな力をくれた。

「じゃあな、今度会う時は赤の他人だな」

「……。そうかも、知れませんね……」

 俺は里村さんと別れる。最後まで強がれた。きっとそれはいい事だと思う。

 

 

 それでも心がくじけそうになったとき、一度だけ部室を訪れたことがある。いつもの様に、氷上はそこにいた。

「本当に戻ってくるのか? 信じていれば本当に折原は戻ってくるのか?」

「知らないね」

「消失は彼ら自身の問題だから、誰も確かなことは言えないよ」

「じゃあ、長森さんが一生懸命覚えていよう、信じていようと思っていることは」

「無駄、かもしれないね」瞳に冷たい光を浮かべて氷上が言う。

「……」

「里村さんもか。忘れられた人を必死に覚えている人は、みんな、無駄なことをしているのか」俺は言った。

「さあ、どうだか。無駄かもと言ったが、完全に無駄かと言うと、そういうわけでもない」

「ただ確証なんて、どこにも無いとは言える」

「不条理でも、信じなければならないと言うわけか」俺は顔を歪める。一体なんだって言うんだ? そんなこと、理不尽だ。

「誰も強制はしていない。信じていれば帰ってくる。覚えていれば帰ってくる。そう信じているのは彼女達の思いだけだよ」

「忘れてしまっても帰ってくることもあるということか?」俺は氷上に訊いてみた。

「さあ、知らないね。僕が何でも知っていると思ったら大間違いだよ」氷上の答えはこうだった。そして言葉を続ける。

「それよりも、ギター、弾いてくれないか? 君のへたくそなギターは結構僕のお気に入りだったんだよ」

「……お前が自分で弾けよ」俺は氷上の目を見据えて言う。なんだか腹立たしくて仕方なかった。

「結構、きつい事を言うね」嘲る様に目を逸らし、氷上は小さく笑った。俺は望んでいたものが得られない事を知り、落胆して部室を後にした。

 

もう何時のことか覚えていない。なんてことない日の昼休みだったと思う。

 いつものように俺は屋上にいた。そして長森さんも。

 話はしていなかった。俺は空を見上げ続けていた。

 どういうわけか長森さんもそれに付き合ってくれていた。

 あとどれくらい俺はこうしていられるだろう。

 曇り空を見ながら物思いにふけっていると、静かな声が聞こえた。

「ね、どうして浩平のこと覚えているの?」

 俺は振り返る。

「里村さんに言われたよ。『どうしてあの人が浩平のことを覚えているのかわかりませんか?』って」

「……」

 余計なことを。俺はそんなことを言った里村さんの真意がつかめない。

「ふーん、里村さんと友だちになれたのか、よかったな」

 俺は努めて気にしないようにそんなことを口にしたが、長森さんは聞いていないようで、

「わたし今までそんなこと、考えもしてみなかった」独り言の様に静かに呟く。

「もしかして、好きだったの?」しばらくして長森さんが言った。

「……」

「……誰が?」このまま聞き流そうかと思ったけれど、なんだかそれはすまない様な気がして俺は尋ね返す。

「その、浩平のことが」

「……」

「……」

「……さあ、もう、忘れたよ」俺は長い沈黙の後に答えた。

「……そう」長森さんは目を伏せる。そして静かに言った。

「……やっぱり、嫌いなんだね。浩平のこと」

「ああ、そうだったかな、確か。でももう忘れたよ」

「ねぇ、浩平のこと、…今も嫌い?」

「……分からない」俺は頭を振る。

「……いままでわたしの話を聞いていてずっと辛かった?」

「……いや、まんざらでもなかった」

 俺は本心を言った。楽しかったとか、辛かったとかそんな言葉で言い表せるようなものではなかった。そんな時間ではなかった。あの時間は。二人だけで、二人の中にしかない人間のことを話す、あの時間は。

「ねぇ、何で浩平のこと嫌いなの」

 長森さんが問う。俺は目を瞑り、鼻で大きく息をする。

 そして俺は目を見開いた。視界の先で長森さんの目がしっかりと俺の顔を捉えていた。……。こんな顔を向けられたことは、いままで無かった。長森さんが心配するようなまなざしで俺のほうをじっと見つめている。

 心配なんてされるほうじゃない。俺は長森さんにそんな顔を向けられる様な存在じゃないから。嬉しいけれど、あまり嬉しくない。素直に喜べない。……いや、全然嬉しくない。

「長森さんは本当に覚えていないのか?」

 だから俺は言った。遅きに過ぎたけど今言うべきだと思った。今こそ言うべきだった。努めて明るく、努めて重々しく。努めて無表情に。

「えっ?」

「俺のことを覚えていないの?」ここで俺は一息つく。これだけのことを言うのにこんなにも胸が痛い。まだ何も言っていないに等しいのに。……里村さん。手を握って俺の告白を聞いてくれた里村さん。拳を握り締めた。言葉を

 

続ける。

「今年の新年が明けてすぐ、ここで」

「……」

「姿形は忘れてしまったのかも知れないけど、さすがに俺のやったことは覚えているよね」

「というか、覚えていてくれないと困る」

 俺は冷たい笑みを張り付かせたまま言った。

「……あ、あのこと。……。……うん、知っていたよ」

「……そうなんだ」顔をそむけ、小さく言った。

「うん、そう……」長森さんは答える。

「そういえば、そうなんじゃないかなーって思っていたんだ」

 顔をそむけたまま弱弱しく呟く。

「……」

「好きだったんだ」

 脈絡の無い言葉が、俺の口から零れる。

「……うん、それも知ってた」

 そう。でも不思議と何の感情も湧いてこない。深い深い諦念があるだけだ。

「あの、ずるい、よね、わたし……」

「……いや、いいんだ」

 この歪んだ関係を望んだのは自分だったから。

「長森さんのそばにいたかったから。それだけが俺の望みだったから」

 お人よしを演じて、長森さんの歓心を買うのが目的だったから。

「……悪いのは、折原のことでまだ長森さんに関われると思った、俺だから」

 だから。

「こっちこそごめんな」

 そして遅きに過ぎた謝罪。

「……」

「ずっと、謝りたかったんだ、ごめん」

 頭を下げる。

「……うん」

 情けないほど単純で、そっけない謝罪。

「……どうすれば許してくれる? どうすれば償えるだろう?」

「もちろん、許すよ……。もう、ずっと前から許していたよ……。償いって言うならわたしのほうが利用していたよ」

「……」

 ずっと聞きたかった言葉なのに、俺はその言葉をこんなにも待ち望んでいたはずなのに。

「言い出せなくてごめんね。ずっと利用してきてごめんね」

「……それはいいんだ。でも……」

 どうして俺の心はこんなにも空ろなんだろう。

「……信じられない、かな?」

 ぼんやりと思っていると長森さんが聞いてきた。

「……だって長森さん、まだ俺のこと怖いだろ?」

 俺は答える。

「……」

 だれもかれも聖人になれるわけなんて無い。そんなことはわかっている。だがまだ長森さんが俺に対して恐怖感を持っていることが悲しかった。

「どうすれば、信じてくれるかな?」

「……」

 それは……。

「……」

 拳を握り締める。

「いや、いい。長森さんは何もしなくていい。みんな俺の問題だから、俺が自分のことを信じられないだけだから。許せないだけだから」

「どうして、そんなこと言うの? そこで何も言わないで諦めてしまうの?」

「ずっとそうやって生きてきたから……」

「……」

「……同情なんていらない。……好きでやっていることだから」

「……信じないよ、そんなこと。そんなことが好きだなんて」

「……信じないと言うのなら信じなければいいさ」

「ずっと傷ついていたんだね」

「傷ついたのは長森さんの方だろ。俺のせいで」

「もう、いいんだよ……。それに、浩平に頼まれたんでしょ?」

「……もう、みんな忘れたよ」

 俺はそう言ったはずなのに。

「そうだよね、それじゃ、浩平のこと嫌いになるよね。……あたりまえだよね」

「違う! 俺が悪かったんだ!」俺は怒鳴る。

「ううん、浩平が悪いんだよね」

「……それは、違う」

「あのときね、優しい感じがしたんだよ」

「優しいからちょっと浩平と間違えたんだよ」

 嘘つくなよ。どこが優しかったんだよ。ふざけるなよ。同情なんかいらないよ。

「わたしが浩平の代わりに謝るよ。ごめんね。……変なことにつき合わせて」

「馬鹿! 長森さんが謝ることじゃないだろう!」

 俺はもう耐え切れなくなってまた叫んだ。

「……うん、馬鹿だね、……わたしは。……浩平にも言われたよ。あのあと浩平を追いかけたんだけどね。やっぱり言われたよ、馬鹿って」

「あはは、どうしようもないよね、わたしって」

「ごめんね。わたし、浩平の代わりに何度でも謝るからッ……!」

 俺は何をさせているんだ、長森さんに。胸が苦しい。胸が苦しい。こんなものなんていらない。こんなものなんて本当にいらない。

 ――じゃあ、俺は一体に何が欲しいんだ?

「あのさ」

 俺はしばらく黙っていたが、やがて重々しく口を開く。

「折原浩平は帰ってくる。今まで正直、信じてなかったけど、今日から、たった今から俺はそう信じることにする」目を閉じ、どこかを見上げる。そして考える。この世界で考える。俺にできることはこれしかなかった。こんなこ

 

としかなかった。

「もう、いいんだよ……」

 長森さんが悲しげな表情を浮かべる。

「……そうしたいんだ」俺は下を向いて言った。

「……」

「……それしか、ないんだ」

 縋る物が。

 確かに俺は長森さんの言うとおり傷だらけだった。もう、隠すことも無いだろう。言葉を尽くせば尽くすほど、長森さんを傷つけるような気がする。そして、自分も。

「ごめん。こんなこと言っても長森さんを傷つけるだけだよね」

「……」

「だから、もう会わない。もう、何も言わない。……さよなら」

「……わたしは信じないよ……」長森さんは俯く。

 そう言ってくれるのは本当にありがたいけれど、これ以上長森さんを傷つけるのは自分でも見ていられない。俺は屋上を後にする。扉のところで一度だけ振り返った。

「でも」

 ……約束は守ろう。俺は言いかけて口を噤む。代わりに心の中で言った。

(このとおいとおい空の下で、長森さんが幸せになること、それと折原が帰ってくることを心から信じている人がいることを――)

 いったんそこで言葉を考える。

(――どうか信じてください。あなたの幸せを願っている人、あなたたちが心から笑えるような日がまた来る事を心から願っています。どうか幸せになれますように。俺の身勝手な願い事ですが、どうか幸せになりますように――

 

 さよなら、俺の初恋。そしてその日の午後の授業中、とうとう俺は見も知らぬ人としていつも通っていたはずの教室から叩き出された。

 

 授業中の廊下を音を立てないように歩く。胸に物悲しい気持ちが溢れていた。

 存在を拒絶される。自分の存在を否定される。自分の居場所が取り上げられる。

 下を向き、足を止める。そしてまた歩き出す。

(どこへ向かって?)

 ……泣き出してしまいたい。

 ……。

 涙を拭う。いつの間にか外には雨が降っていた。傘、忘れたな。そう思っていると、どんな用事があったのか、里村さんが廊下をこっちに向かって歩いてるのが見えた。俺はぼんやりと見つめる。里村さんは不思議そうに顔をあ

 

げて俺のほうを見た。

「『まだいたのか』と言いたげな顔で見ないでくれよ」

「そんな顔はしていませんが?」

 そう言って里村さんは立ち止まる。

「……そうか、すまない。過剰反応だった」

 窓の方を向く。正直、話し掛けるべきではなかったと思う。だがしかたない。

「放課後、また待ちに行くのか」

 俺は外の雨を見ながら言う。

「……はい」

「帰ってくるといいな」

「……そうですね。あなたも願ってくれますか?」

「願うよ」

「……冗談の通じない人ですね」

「……冗談だったのか」

 俺は呟く。里村さんはどことなく困った顔をしたが、

「……教室、戻らないんですか?」と言う。

「……戻れないんだよ」俺は答えた。

「やっぱりあなた、馬鹿ですよね」

「そうだよ、馬鹿だよ。……何が言いたいんだ」

 少し腹を立てて見る。だが里村さんの悲しげな目を見てすぐに後悔した。

「いえ、別に……すみません」うつむいて里村さんは言う。

「……そう」

「あの……」

「何だ?」

「いいえ、なんでもありません」

「そう、じゃあ」

 俺はいつもの様に背を向ける。外には雨が降っていた。

 

 

  3―4

 

 

 それから母親に忘れられる前までは、学校に通うふりをして、時間をゲーセンや喫茶店で潰すのが俺の日常になった。家族に忘れられたのはしばらくしてのことだった。不思議と涙は出なかった。もう、覚悟と言うものは十分な

 

ほど出来ていた。両親のことを考えるとやはり気が重かったが、歳の離れてもう独立した兄もいるので、問題は無いだろう。兄とは消える前に少しだけ電話で話した。たわいも無い話だったと思う。

 家族に忘れられてからは声をひそめるのが俺の生活となった。なるべく声を立てないように、不安を与えないように生きるのが俺の日課になった。家の金や備品を極力使わずに、もっぱらコンビニやスーパーで必要物資の全てを

 

まかない、集めていた本やゲームなどを売って、生活費に当てる。自然と人と会話を交わすことが無くなった。

 でも、たまには誰かと話したくなることがある。部屋にこもってばかりでは気分もすさむ。冬休みも近い頃、俺は久しぶりに制服に袖を通してみた。学校に行ってみるつもりだった。教室には入れなくても図書室か屋上で一日過

 

ごすのも悪くないだろう。

 

 期待通りには行かなかった。図書室には入れなかったし、屋上には行って見たが時期が時期なだけあり、俺以外の人間は誰も訪れなかった。俺はすることもなく、隅で凍えそうになりながら時間を潰す。

 多くの生徒が下校し夕闇が迫ってきた頃になって、俺はようやく諦めて屋上を出た。階段を降りる。なるべく生徒や先生に出くわさないように注意を払っていたが、廊下を横切る際に、丁度向かいの角を曲がって来た女生徒の姿

 

を確認できなくてぶつかりそうになってしまった。

「ああ、ごめん」

 俺はまったく予測していなかったので心臓が跳ね上がるほど驚いたのだが、、その女生徒の姿を見てさらに驚いた。

「長森さん?」

 思わず声を出す。

「……え?」

 長森さんは不思議そうに首をかしげる。

「……あ、俺のこと覚えている?」

 突然のことに気が動転していたのだろう、俺は自分を指差しそんなことをつい聞いてしまった。もう、言葉を交わさないと約束したはずなのに。長森さんはしばらく考えていたが、やがてきょとんとした瞳で

「えっと、誰かな?」と言った。

「……」

 とうとう、この日が来たのか。いや、ずっと先延ばしにしていたから、もうずっと前から俺のことを忘れてしまっていたことは疑い様が無かった。俺は視線を床に落とす。俺の目の前には長森さんがいた。……忘れられている。

 

その事実は重石の様に俺の胸に落ちてきた。

「……」

「……」

 俺が何も答えないでいると、変わった人間と思われたのだろう、そそくさと一礼すると、俺を刺激しないようにそっと脇をすり抜けようとする。

「俺と付き合ってくれませんか?」俺は静かに言った。

「え?」長森さんが俺の顔を見る。

「ずっと前から好きだったんですよ」俺は下を向いたまま言葉を続ける。

「そんなこといきなり言われても、わたし、困るよ」

 長森さんは困惑げに俺の顔を覗き込む。

 まだ諦めていなかったのか。自分の未練にもう腹も立たない。むしろ笑える。

 でも違う。

 俺は初めからやり直したかっただけなのだ。

 あの事件が無い、まっさらな状態からまたやり直したかっただけなのだ。

 だが、それは余りにも叶わない願いだった。

「そうですか。もしかしたら、もう、好きな人がいるとか」

 俺は視線を変えずに、静かに、できるだけ感情をこめずに言った。

「……うん、そうなんだ。だから、ごめんね」

 まあ、初対面の人間のいきなりな告白に頷く様では困る。それでは消えた折原も浮かばれない。

 折原。

「……はら」

 その名前を呟いてみる。

「え?」

「……いや、なんでもない、……それじゃ」

 俺は思いなおす。それは自分の心が惨めになるだけだ。その名前を出してはいけない。俺は折原の影ではない。自分の意思で消えるのだ。自分でこうなることを決めたのだから。

 俺は長森さんの前から立ち去る。目には涙が溢れていた。

 こうなることはわかっていた。最初から全部。全部。

 

 ……。

 

 こうなることはわかっていた。こうなることを望んでいたはずなのに。

(それでも俺は何かを期待していたのか?)

(忘れないでいて欲しいと願っていたのか?)

 心が砕けた。

 最初から全部わかりきっていたことなのに。

 心がすごく寒い。俺は身を掻き抱く。あの日、あの屋上で感じたよりも遥かに寒い。あの時考えた寒さの千倍は寒い。人から忘れられると言うことが、好きな人から忘れられてしまうことがこんなにも辛いことだとは思わなかっ

 

た。

 夕暮れの教室は誰もいない。気がつけば俺はここに辿り着いていた。遠くで部活の声がかすかに聞こえる。かつて自分の席だったはずの椅子に座る。西日がここまで差し込んできていた。窓の方を見ると、赤と黒の世界が広がっ

 

ている。

 これから俺はどこかにいくのか。

 えいえんのせかいに行くのか。

 あの時、願ったことなんて、本当は叶って欲しくは無いのに。

 みさき先輩…。

 長森さん…。

 里村さん…。

 母さん……。父さん……。

 ……。

 物思いにふけっていると、教室の戸が静かに引かれる音がした。

「あ」

 振り返ると長森さんの顔が見えた。俺は立ち上がる。そんな俺の様子を見て、長森さんがぺこりと頭を下げる。どうやら、俺のことをこのクラスの生徒の一人として認識したみたいだ。でも、どうしてこんなところへ? もう会

 

えないと思っていたのに。

「あの、友だちの荷物を取りに来たんだよ」

 俺が訝しく思って立っていると長森さんも俺の疑問に気がついたのか、独り言の様に自分が他所のクラスを尋ねた理由を説明する。

「あ、あの、ちょっと失礼するね」

 そう言って長森さんはもう一度お辞儀をすると、教室に入ってくる。そして歩き回りながら友人の席を探し始めた。ときどき、ちらちらと、こちらの様子を伺う。誰もいないはずの教室に人の姿があるのがなんとなく気にかかる

 

のだろう。

 ドクン。心臓が跳ね上がる。

 ゆっくりと俺は長森さんに近づいてゆく。

 このまま、忘れられるのは嫌だ。

 それは淋しい。

 それは切ない。

 そして虚しい。

 嫌でも、忘れられないようにしてしまえば? そうすればこの寒さは止むのだろうか。、嫌われても、憎まれても。――覚えていてくれるほうが、俺のことを覚えていてくれるほうが、どんなにか嬉しいだろうか。だから。

 完全な傷を。

 二度と立ち直れないような傷を。

 俺はいままであんなに折原の話を聞いてあげたじゃないか。長森さんは覚えてないだろうけれど。忘れられて、俺のしたことが無意味になるなら、忘れられることですべて俺の努力が全く無いものになってしまうのなら。

 

――進んで傷をつけるほうを選ぶべきだ。

 

 もう、長森さんの姿はすぐ目の前だった。……この距離なら絶対に逃がさない。あの時とは違う。一気に襲いかかり、最後までやる。長森さんはなぜ俺がこんな事をするのか理解できないだろう。

 そう、理解できないだろう。だけど、俺は。

 長森さんが顔を上げる。

 ……今だ。

 

「あ」

 長森さんが顔を上げる。

「誰の席を探しているの?」

「……」

「……」

「確かそいつの席は教卓のまん前だと思ったけど」

「ううん、窓側の後ろの方だって言ってた」

「そう、か。……席替えがあったのかな」

 俺の知らない間に、時間だけは確実に過ぎていた。

「……」

 長森さんは静かに、そしてどことなく恥ずかしそうに俺の目の前で友達の席を探している。やがて、顔を上げ、言った。

「あ、見つかった」

「そう、良かったね」

 俺は答える。

「うん、ありがとう。それじゃ」

 長森さんは俺のすぐ目の前を通って教室を出て行く。俺はそれを視線で追わずに全身で感じる。あの足音。あの匂いにその気配。あの時抱いた体の柔らかさ。全てを思い出し、全てを感じる。忘れられてしまうのなら、俺が覚え

 

ていよう。ずっと、覚えていよう。この甘美な記憶を、切ない記憶を、……永遠に。

 

 

 ――後ろで何か軋む音がした。振り返る。長森さんが教室の戸を閉めようとしているところだった。永遠と感じられた時間はほんの一瞬のことだったのだろう。……。俺はわずかに手を動かす。

「……」

「扉、閉めないでくれるかな?」俺は小さな声で言った。

「え?」長森さんが振り返る。

「扉、少しでいいから開けといてくれないか」俺はもう一度言った。

 長森さんはちょっとの間不思議そうな表情をしていたが、力を抜くように、優しい笑みを向けて、

「……うん、いいよ」そう言ってくれた。

「……うん」

 俺はその言葉に心から安心して静かに背を向ける。本当は涙を隠すためだった。

 しばらくしてから振り返る。あたりまえだが、もう長森さんの姿はなかった。俺は少しだけ空いた戸を静かに眺める。時折、制服姿の生徒が廊下を通るのが見える。

 俺はそんな外の様子を飽きることなく眺めていた。

 

 結局、何も出来なかった。

 でも、これでいいんだ。

 夜の近い教室には俺一人取り残されている。でも不思議と奇妙な満足感に囚われていた。

 きっと、これで、良かったんだと思う。

 何も出来なかった。何も出来なかったけれども、この世に俺の残した痕跡なんて何も残らないだろうけど、何も残りはしないけど。

 

 それで、良かったんだと思う。

 

 しばらくして、廊下を通る生徒の姿が消える。俺は自分の席だったはずの席に座り、机に臥して少し眠った。……もう、家に帰れるかどうかもわからなかった。

 

 

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