CDFE   作:remono

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 そして夢を見た。

 俺は一人だった。一人でこの世界に存在していた。一人ぼっちだった。

 一人ぼっちだったから俺は思った。俺は完璧だと。

 俺が消えた後、誰も俺のことを覚えている人はいないだろう。折原とは違う。里村さんの思い人とも違う。そう考えた。

「俺は一人寂しく消えてゆくのだ」

「俺は後に何も残さず、一人寂しく消えてゆくのだ」

 何度も何度もうっとりと呟いていた。そうだ、きっと俺はそれを望んでいたのだ。だれにも迷惑を掛けず、ひっそりと消えてゆくことを俺は望んだのだ。あらゆる罪やあらゆる傷から逃れようと思って俺は、『えいえんのせかい

 

』を望んでいた。

 くすくす。

 夢の中で俺は笑う。

 子供の様に俺は笑う。

「俺は生きていてはいけない人間だから」

(優しい手だなーって思っていたら、浩平じゃなかったんだ)誰かが言った。

「俺は生きてゆく価値のない人間だから」

(……なんだか私、あなたのことが少し心配です)また、誰かが言った。

「俺はどうせ、たいした人間になれないから」

(ねえ、わたしは誰かの役に立てるのかな? 本当に役に立てるのかな?)もう一人、誰かが言った。

「……」

 ……何をやっているんだ、俺は。目を見開く。

 

 目が覚めた。闇に閉ざされた教室。時間は。目を凝らして黒板の上にある時計を見る。短針が九のところを指していた。ぼんやりと立ち上がる。長森さんが開けておいてくれていた教室の戸はまだ開いていた。俺はそこから静か

 

に教室を出る。真っ暗な廊下を音を立てないように歩く。……。気がつけば俺の足は、二年の時長森さんと折原が在籍していた教室に向いている。

 その教室のドアは開け放たれていた。俺はしばらく入り口に立ち尽くしていたが、覚悟を決めて入り込み、ためらいもせずに電気をつけた。光に照らされる教室には先客がいた。

「やあ」

 教室の真ん中で、そいつは立っていた。ポケットに手を入れて、俺のほうを向き、いつもの笑みを浮かべている。

「不快そうな顔をしているね。感傷にでも浸りに来たのかい?」

「何でここに、氷上」俺は言った。

「ここは君の思い出の場所だからね」氷上は答える。

「俺が訊いているのはそんなことじゃない」

「へえ、どういうことかな」

「お前がこの世界に存在していることだよ」俺は言った。

「……」

「どうしてお前はここにいる?」

「……」

「えいえんのせかいに行きたいのはお前なんだろ?」

「誰からの手から逃れられる、えいえんのせかい。あさましい自分の罪から逃れられる世界。誰も傷つけない世界。誰からも傷つけられない世界。それはお前が望んでいた世界なんだろ? 違うか?」

「……」

「何をこんなところでぐずぐずしているんだ?」

「行けよ、氷上。えいえんのせかいに。なんなら、俺が見ていてやるよ」

「……。嫌だね」長い沈黙の後、氷上は静かに言った。

「そうか、じゃあ、ずっとここにいればいいさ」俺は答える。

「……」

「……」

「君はどうするの?」黙っていると氷上が訊いてきた。

「帰る」俺は言った。

「帰るところなんて無いくせに」氷上が声を立てずに哄笑する。

「……お前よりマシさ」俺は答えた。

「誰からも忘れられてしまうのに?」可笑しそうに訊いてくる。

「……それでも、お前よりマシだ」俺は答えた。

「つまり、君の人生は無駄だったね」そしてやれやれと言った感じで氷上は手を動かす。

「……それでも、お前よりはマシだ」俺は静かに答えた。

「……どうかな」

 俺はもう何も言わなかった。最後に氷上の顔を睨みつけ、振り返り、無言で教室の電気を落とす。電気を落とすと同時に、背後の氷上の気配も消えた。……。後ろは完全な闇だ。そして前も。俺は闇の中に足を踏み入れる。そし

 

て考える。もう、二度とここに来ることはあるまい。

 希望なんて無くても。

 意味なんて無くても。

 ……。

 俺は折れた心を引きずる様にふらふらと廊下を歩く。傍に置いてあった消火器につまずいた。足に鈍い痛みが走る。大きな音を立てて消火器は廊下を転がっていく。

 ……。

 俺はしゃがみこみ、消火器を元あった位置に置き直した。

 ……。

 とりあえず、自分の部屋に帰ろう。

 あそこなら、もうしばらく身をよせておけるはずだ。

 そして俺はまだ痛む足を引き摺りながら暗闇の中を歩き出した。

 負けたわけではない。

 これでいいのだ。

 

 

  4―1

 

 

 ピシリ。

 冬の雨の日。自分に残されたささやかな領域で俺がまどろんでいると窓ガラスに石が当たる音が聞こえる。

 ピシリ。

 ピシリ。

 しばらく、放っておいた。体がだるい。何もする気がおきない。

 ピシリ。

 ピシリ。

 石が当たる音は止まない。いいかげん苛立ってきた。俺はのろのろと窓のほうに行き鍵をはずし窓を開ける。忍び込む湿気。外には冷たい雨が降っていた。

「里村さん……」

「やっぱりいましたね」

 眼下には、いままさに石を投げようとする姿勢のまま立ち尽くす里村さんがいた。

「どうしてここへ?」俺は尋ねる。

「学校の名簿で住所を調べました」

「いや、そうじゃなくてここにきた理由」

「あなたと話がしたいと思ったからです」

「……話すことなんて、たぶん、ないよ」俺は顔をそむける。

「そうでしょうか?」

「……」

 俺は逃げるように部屋に隠れようとするが、里村さんの次の一言で動きを止めた。

「雨の中女の子を一人立たせておくのですか?」

 良く見れば里村さんの体は雨に濡れ、服が肌に張り付いている。

「……上がりなよ。いま、表に回るから」

 俺はため息を一つつくと言った。俺の息は真っ白な霞となって辺りに淀む。雨に打たれて立ち尽くす里村さんはきっと凍えるように寒いだろう。たしかにこのままにはしておけない。

「よろしくおねがいします」

 言って里村さんはぺこりと頭を下げた。その髪に冷たい雨の粒子が容赦なく降り注ぐのを見て、俺は慌てて階段を駆け下りた。

 

「……タオル」

「ありがとうございます」

 俺の手からバスタオルを受け取って里村さんは言った。

「靴と傘はこのビニールに入れて。親に見つかるとこの家にいられなくなる」

「……迷惑ですか?」そっと里村さんが言った。

「……かもね」俺は答える。

「……」

「早く上がりなよ」

「……はい」

「こっち、俺の部屋。……いまは俺以外いないから大丈夫だけど」

「あ、床に跡がつくから靴下、脱ぎます」

「……悪いね」

 俺は素足の里村さんを自分の部屋に案内した。

「怖くないのか?」階段の途中で俺は振り返りもせずに言った。

「何がですか?」

「強姦未遂犯と二人きりで」

「いいえ」

「……そう」

 階段を昇りきり、自分の部屋の前で立ち止まる。

「ここが俺の部屋。汚いけど」

 ノブに手をかけ俺は言う。

「覚悟は出来てます」

「想像を越えてるよ」

「そうなんですか」

「うん」

 そう言って俺はドアを開ける。白や茶色の、コンビニのビニール袋が散乱した、それ以外何もない部屋。袋のいくつかは、明らかに異臭を放っている。

「これはひどい」

「……私は何も言ってませんよ」

「……心の声を代弁したんだけど」

「いつも言っている様な気がしますが、人の心を勝手に捏造しないでください」

「……そうだな」

「……」

 俺は素直に答えたはずなのに、里村さんは悲しそうな顔をする。俺は汚い部屋を一瞥し、

「適当に座りなよ。今熱いお茶を調達してくる」

と、言い残し、部屋を出ようとして思い出したように俺は久しぶりに部屋のエアコンをつけると強さを最強にして、階段を駆け下りる。

 できるかぎり大急ぎでお盆に紅茶を載せて部屋に戻ると、里村さんは床にちょこんと座って待っていた。俺はその隣に座るとお茶を勧める。里村さんはありがとうございますと礼儀正しく言ってから紅茶に砂糖を五杯も入れた。

 

よほど外は寒かったのだろう。俺は砂糖もミルクも入ずにそのまま紅茶を啜った。そういえば、こんなもの飲むのは本当に久しぶりだ。家族に自分のことが認識されなくなってから極力家のものを使わないようにしてきたからあた

 

りまえのことなのだが、ひどく懐かしい味で胸が熱くなった。俺は黙りこくり、女の子の前だということも忘れて行儀悪く紅茶をちびちびと啜る。

「……何もないですね」

 しばらくして少し体が温まったのか、カップを片手に持ったまま、俺の部屋の本棚を見て里村さんが呟いた。

「食っていくのにお金が必要だから。本やゲームとか、売れるものは全部売っちゃったんだ」

 俺は答えた。

「……」

「十八歳以下は親の信任状なんてのが必要ですって言われてさ、俺のことを十八歳以上に見てくれるところを探してあちこち歩き回ったよ。そんなに童顔に見えるかな。里村さん、どう思う?」

「……」

「ゴミもこまめに捨てようとしているんだけど。なかなか時間帯が、ね。……親がいるし」

「……」

「しょうがないから外に出るときは窓からあそこにあるロープを伝って出入りするんだ。……面倒だけどね」

「……」

「……まあ、なかなか人一人消えるって言うのも大変だよね」

「……」

「立つ鳥あとを濁さずをモットーにしているんだけどなー。里村さんに変なところ見られちゃったな」

「良くしゃべりますね、思ったより元気そうで。なによりです」

「寂しいからかな」

「……」

 俺の言葉に里村さんは顔をそむける。俺はなんだかすまない気分になって、努めて明るい声を作ると里村さんに来訪の用件を訊いた。

「んで、話って何だ?」

「長森さんのことです」

 やっぱりそのことか。分かりきっていたことだけど、まだその名前を言われるだけで胸が苦しくなる。未練たらたらだな。なんだか可笑しい。もう、終わったことなのに。

「……」

「……」

「長森さんには折原がいるだろう」

「あなたの気持ちはどうなるのですか」

「あ、別に、いいよ。どうせ消えるんだし。むりやり思い出させても悲しませるだけだ。折原みたいに」

 俺は正直に言った。もう、長森さんにこれ以上悲しみを与えたくはなかった。せっかく忘れているのに、きっと思い出させていいことなんて何一つない。俺にも。長森さんにも。

「……」

「まあ、悲しんでくれるか、実のところ怪しいもんだけどね」

 俺は付け加える。

「……」

「それが怖かったりして。きっとそれが俺の本心だよ」

 そして締めくくった。つまり自分の弱さから出たことは最終的にはみんな自分に返ってくるということだ。俺一人寂しく消えて行けば、すべては解決する。

「……そんなことはないと思いますが」

「うん。長森さんならきっと俺のことすらも悲しんでくれるかもしれない」

「……ええ、そう思います」

「でもさ、やっぱり長森さんには折原じゃないと、駄目なんだ」

 里村さんの好意はありがたかったが、その好意にばかり甘えているわけにも行かない。俺は口を開く。

「……」

「俺も、最初は折原が憎くて憎くて仕方なかった。でも長森さんには折原が一番似合っているんだ」

「私にはわかりません……」

 言って里村さんはかぶりを振る。

「里村さんは折原のこと、忘れているからね。思い出せばきっと俺の言ったことは正しかったと信じてくれると思うよ」

「……」

 里村さんは何も言わなかったが、視線だけで『そんなことはない』と言ってくれているのが良くわかった。俺は里村さんの思いやりに心から感謝した。だが、折原のことは俺のほうがよく知っている。……諭すように言葉を続け

 

る。

「俺は嘘は言わないよ。今じゃ早く折原が帰ってくるように願う始末だよ。完全敗北だな」

「本当に、帰ってくるとでも?」里村さんが訊く。

「ああ。信じていれば、きっと」俺は即答した。

「……そうですか」

 観念したのか、里村さんは寂しそうに言った。

「……」

 俺は無言で頷く。里村さんは目を伏せる。しかしもう一度向き直ると今度は俺の目を見ながら言った。

「では、もう一つ話があります」

「うん。何?」

「私のことです」

「……どういうことだ?」

 この質問は正直予想していなかった。里村さんが俺に何の話があるのだろう。

「……もうこれ以上、私は目の前で誰かが消えるのを見たくはありません」

 いつもの無表情のまま里村さんは言った。俺は息が詰まる。

「……」

「……」

「……ごめん」

 長い沈黙の後、俺は謝った。なんだかそうしなければすまないような気がした。本当は『里村さんも、俺のこと忘れてしまうだろう』と言いたかったんだけど、言えなかった。これ以上は甘えられないと思った。折原が消えたこ

 

とを教えたときの里村さんのあの悲しそうな顔が忘れられない。忘れられてしまうことの寂しさ、忘れてしまうことの寂しさを里村さんは一番よく知っていたのかもしれない。いままで俺はそんな里村さんにずっと甘え通しだった

 

ような気がする。

「どうして」

 里村さんがまた口を開く。

「どうして、あなた達はえいえんのせかいなんてものに惹かれるのですか?」

「契約がなんだって言うのですか? どうしてみんなこの世界に留まってくれないんですか。そんなにこの世界は駄目ですか? 私は、私たちは、私たちの思いはそんなに無力なんですか?」

「えいえんのせかいなんてくだらない。ほんとうにくだらない、です。そんなお伽噺、どうしてみんな信じているのですか?」

 里村さんは色々胸のうちに溜めていたことがあったのだろう、堰を切ったようにまくし立てる。

「私はただ傍にいてくれるだけで充分幸せだったのに。あのひとの笑顔が見られるだけで、ただそれだけで幸せだったのに」

「ずっと待ち続けて。待ち続けることしか出来なくて。今でも雨が降るとあの人のことを思い出して、思い出の場所がなくなっても、待ち続けているのに……」

「……俺たちはきっと、みんな揃って馬鹿なのさ」

「答えになっていません!」

「……」

「もう疲れました。あてもない望みに期待するのは。正直私は長森さんが羨ましかったのかもしれません。あなたという話し相手がいて。消えてしまった人の思い出を分かち合うことが出来て」

「あなたはよくやったと思います」

「あなたこそが幸せになるべきなんです」

「あなたが報われなければ、多分私は救われません」

「……思いは、……叶うべきなのです」

 最後にそう言って、里村さんは疲れたように床に視線を落とす。

 そうか、俺はようやく里村さんの優しさに気がついた。……きっと里村さんは俺のことを覚えていてくれたんだろう。きっと、必死になって覚えていてくれたんだろう。忘れないように、忘れないように、忘れてしまわないよう

 

に。――だが俺はその思いに応えられない。

「ごめん、つまらない人間だよね、俺は」静かに言った。

「……」

「こんな人間いなくてもいいって思うんだ」

「……そんなこと言う人、嫌です」

 里村さんは肩を震わせる。……この人に何かしてあげたい。消えてしまう前に何かしてあげたい。今の俺に何が出来るだろうか。

「そうだ、もし、もしさ、その『えいえんのせかい』…が実際どうなっているかは分からないけど、もし、そこで里村さんの…里村さんが待っている奴に出会ったら、折原もそうだけど、この世界に待っている人がいるって教えて

 

やる。帰る様に言ってやる。言っても駄目なら無理矢理にでもこの世界に叩き返してやる。そうだ、そうしよう。……なんか、少し希望が見えたって感じだよね」

 ふとそんなことを考えた。もし、俺がそうできたのならば、きっと里村さんの悲しみを取り除くことが出来るかもしれない。

「……あなたは馬鹿です。……そんなものが本当に希望だと言うのですか?」里村さんが呟く。

「里村さん。教えて」

 俺は里村さんの言葉を無視して逆に尋ねる。

「……」

 里村さんは下を向き答えない。俺は再び尋ねる。

「その人の名前、教えてよ」

「……絶対、連れ戻してあげるから」

「……私に二人を秤にかけて選べというのですか」

「そんなことは言ってない。俺がこうなるのはもうどうしようもないことだし。俺は里村さんに少しでも恩返しがしたいんだ。たぶんそんなのが理由だと思う」

「もう、あの人が消えて二年になります。……ほとんど諦めていたのに。あなたはずるい人です」

「うん、ずるいな。俺も、すがるものとか、欲しいから」

 消えてしまう俺にとって、その向こうでやることがあるって考えるのはすごく救いになることに気がついた。こんなにも救いになるとは思わなかった。絶対にそうしたいと思う。この少女のために絶対に連れ戻したいと思う。俺

 

は里村さんの雨に濡れて凍える小さな肩に手を置いた。

 そこで少しためらう。しかし俺は僭越かもと思ったが、身を寄せ合うようにその体を静かに抱きしめた。水を吸った里村さんの制服はじっとりと重く、そして冷たかった。

「……」

「……頼む、言ってくれないか」俺は耳元で囁く。里村さんの凍えて少し早い心臓の音を感じる。

「……」

「……どうして、どうしてあなたは忘れないでと言ってくれないのですか?」

「……」

「あなたが忘れないでと言ってくれれば、わたしはあなたのこと忘れません。ずっと覚えています。あの人と一緒にずっと覚えています。……たとえ帰ってこなくても。一生、ずっと」

 その言葉に心が揺れる。

 俺も言いたい。忘れないで、覚えていて。それは誰だってそうだろう。俺は全ての人に言いたい。忘れないで、覚えていて。でもそれでは駄目だ。俺は体を震わせる。小さく、口を開く。

「里村さん、待っている人の名前、教えて」

「……やはり、私では駄目なのですか?」

 好きだよ、里村さん。もしかしたら長森さんよりずっと好きかも知れない。正直忘れないでいて欲しい。でも長森さんに折原が似合っているように、里村さんには消えてしまった人が最もふさわしいのだろう。

 それでも好きだ里村さん。抱きしめた腕につい力がこもる。この人と一緒に道を歩きたい。また一緒にワッフルを食べたい。今度はお茶をしっかり買っておこう。そうすれば里村さんよりも食べて見せる。

 

 ――きっと、もしそうなのなら。

 

「里村さん、待っている人の名前、教えて」俺は言った。

「……駄目なのですね」

「ああ、そうだね」

「嘘、………………?」

 里村さんの答えは良く聞き取れなかった。

「……里村さん、幸せになろうね」

「不幸や苦しみはもういいから。里村さんにはもういいから」

「な、幸せになっちまおうぜ」

「幸せになれるんだろ? そのひとが側にいれば――」

 望んだわけではないのに涙声になっていた。

 

 それからどれくらいの時間が経ったろう。本当に小さな声で、里村さんは、自分が心から待っている大切な人の名前を言った。

 里村さんは少しだけ俺に体重を預けて来る。そして里村さんは俺のためにほんの少しだけ泣いてくれた。

「……うん、わかった。覚えたよ」

 俺は里村さんの背中をさすりながら頷き、答える。

「……よろしく、おねがいします」くごもった声で里村さんが言った。

「絶対こっちに送り返すから。期待して待っていてくれ」

 言葉を続ける。

「……」

「それこそ、大船に乗った気分で」

 そしてほんの少しだけ微笑む。

「……それは、きっと、嘘です」下を向いたまま里村さんが言った。

「まあ、正直どうなるかわかんないし、ね」

 うなだれて俺は顎を里村さんの肩に沈める。

「すみません……」

「いいよ、別に。他に用事、ないよね。じゃ、里村さん、気をつけて帰りなよ」俺は里村さんの気持ちが落ち着いたのを確認してから静かに身を離した。

「帰ってきてください」

 下を向いていた里村さんが突然言った。

「え?」俺は訊き返す。

「あなたのこと忘れますから、帰ってきてください」

「いえ、……ごめんなさい。きっと、あなたのこと、忘れてしまうけど、覚えていられないでしょうけど、それでも帰ってきてください」

 顔を上げる。俺の顔を見つめる。

「……良かったらでいいんですが。……帰ってくれば私は嬉しいです。……本当ですよ?」

 少しだけ微笑んで下を向く。そして小さく呟く。

「それに、今度は、上手くすれば、ですけど、私は、あなたのことを好きになるかもしれません」

「そのころには、きっと里村さんの隣にはいい人がいるよ……」

 俺は答えた。

「……それでも、好きになるかもしれませんよ?」

「……」俺は無言で視線を逸らす。

「……一応、覚えておいて下さい」

 念を押すように、里村さんは言った。

「……わかった」

 結局、俺はこう答えるほか無かった。

「じゃあ、帰ります。……さよならは言いません。……また会いましょう」そう言ってゆっくりと里村さんは立ち上がる。俺は荷物を持って玄関まで見送った。

「あ、そうだ」何かに気がついたように俺は言う。

「なんですか?」

 玄関の戸に手をかけたまま里村さんが振り返る。俺は片手を軽く上げて里村さんに向かって笑いかける。

「最後に言うことがあった。……ありがとう、本当にありがとう、里村さん」

 俺の言葉を聞いてまた少し里村さんが涙ぐむのがわかった。里村さんは何か言いたげだったが、結局何も言わずに背を向ける。そして静かに出て行った。俺はといえば里村さんを悲しませたことにすっかり満足して部屋に帰ると

 

床にひっくり返り、目を閉じて久しぶりに安らかな夢を見た。

 

 でも本当は、『最後』なんて言葉、使わなければ良かったんだ。

 

 ――そして目がさめた。頭がぼんやりする。あれから幾日経っただろうか。もう、昼か夜か、今日が何日かも分からない。心臓が脈を打っているのがひどく大きく聞こえる。本当に、あれから幾日経ったろう。……もう年は越し

 

たのだろうか。それともまだなのだろうか。俺はゆっくりと身を起こす。遮光カーテンの隙間から明るい日差しが差し込んでいるの見えた。では昼か。俺は立ち上がり、窓のほうまで行ってカーテンを開けた。

「……」

 眩しい。俺は目をこする。固まった目やにがぼろぼろと零れ落ちた。

 窓も開けた。冬の乾いた空気が入ってくる。俺は伸びをして大きく息を吸い込んだ。

「……」

 ぼんやりものを思う。予感めいたものが心のうちにある。おそらく今日、俺はこの世界から消えるのだろう。

「……」

 どうしよう。このまま部屋で消えるか。それとも外へ出てみるか。

 しばらく考えて、やっぱり外で消えることに決めた。冬空は寒そうだったけれど、なんだか外を歩きたい。俺は家族のいないのを確認してからシャワーを使い、軽く身支度を整えると、もはやベッドと空の本棚しかない自分の部

 

屋をそっと後にした。

 部屋に溜まっていたゴミをまとめてコンビニのゴミ箱に投げ入れる。それが終わると特にすることもなく、俺は辺りをぶらぶらとさまよった。商店街の本屋で今週の漫画雑誌を片っ端から立ち読みし、時間を潰す。ファーストフ

 

ードの店で久しぶりの暖かいご飯を食べ、そのあと、財布の残りを気にしながら町の映画館で安っぽい映画を見た。

 町に夕闇が訪れるころ、俺は商店街の傍らの段差に腰を掛け、ぼんやりと人の群れを見送っていた。まだまだやり足りないことはあったけど、もうここいらが潮時か。俺は祈るように顔の前で手を組んで、横目でこの世界を眺め

 

やる。赤く染まった商店街は、今夜の買い物を済ませようとするたくさんの人で賑やかだった。道に白く輝く街灯が灯り、空に列をなしている。その下で今日も人は生きてゆき、明日もまた生きてゆくのだろう。力強く。

 

 ――みんな幸せになれればいいな。

 

「ふう」

 大きくため息。周り歩く人達がちょっと俺のほうを見てまたすぐ目を逸らす。みんなは生きてゆくのに必死なのだ。人生を降りた俺のことなど目に止める筈もない。

「……」

 少し目を閉じてみる。急に町のざわめきがやけに大きく聞こえて俺は少し驚いた。目を開く。特になにが起こったわけでもない。こんなことがあるのか。新しい発見。俺は小さく笑う。

 そういえば、どうして俺は遠くに行かなかったのだろう。どうしてこの町に留まっているのだろう。どうせ消えるのならば、もう一度海ぐらいは見ておきたかった。

「……」

 通りを抜ける風は冷たかったが、あまり気にならなかった。もう、感覚自体どこかに行ってしまったのかも知れない。俺はあまりない海の記憶を頭の中からさらってみた。

「……」

 良く思い出せなかったが、まあ、いい。これで満足だ。きっと実物とは少し違うのだろうが、もう、今から海には行けそうも無い。酷く疲れた。もう限界だ。俺は下を向き、老人の様に背を丸め、祈るように手を組んだ。そっと

 

目を閉じる。

 

「みゅー」

 誰かが俺のすぐ鼻先を本当に本当に楽しそうに駆け抜けて行った。

 

 顔を見上げる。目を開く。通りの向こうに、人ごみにまぎれて見覚えのある後姿が見えた。どこかで見た後姿。春の夕日を背いっぱいに受けて立ちすくむ女性の記憶。……みさき先輩。――みさき先輩。俺は息を呑む。

 みさき先輩、こんなところまで来られるようになったんだ。あんなに外に出るのを怖がっていたのに。先輩は白い盲人用の杖を見るからに慣れない手つきで突きながら、おぼつかない足取りで人通りの激しい道を歩いている。

「……」

 いま人とぶつかった。ぺこりと一礼する。そしてまたみさき先輩は前へ歩き始めた。

 焦燥。不意に焦燥感に駆られる。自分は一体何をしているのだろうか。こんなところで人に見捨てられて、今消えようとしている自分は。本当は先輩の様に前に進む手立てもあったはずなのに、どうしてそうしなかったのだろう

 

。急に視界が滲む。滲んで滲んでしかたがない。悔しさと情けなさ、恥じらいと怒り。

 行きたい。あそこまで行きたい。俺の心なんて、何べん傷つけられても構わないから、あそこに行きたい。……みさき先輩のところまで行きたい。後悔の念の中、手を虚空に伸ばす。

 

 そして、自分にはもうその延ばす手がないことに気がついた。

 

 ああ、つまりそういうことなのだ。俺は理解する。ああ、つまり、もう限界なのだ。歯を食いしばる。そして必死に、必死に口を開く。

「がんばれ」

 雑踏の向こうに消えてゆく先輩の後姿に声をかける。本当に声になったかどうか、分からない。分からないけど、もう一度、何度も、俺は俺がこの世界に留まっている本当に最後の最後まで叫び続けた。

 

 ――そして、涙が目から溢れて。

 

 

 ……。

 俺の記憶はそこで終わった。あとは空漠な永遠が広がっているだけだ。

 どこにも行けない、誰も傷つけない世界。

 何もできない、誰からも傷つけられない世界。……俺が望んだ世界。

 身を静かに丸める。

 俺は約束を果たせただろうか?

 わからない。

 里村さんはまだあの人を待っているのではないだろうか。

 長森さんはまだ折原を待っているのではないだろうか。

 目を閉じる。

 ここで何をしたのか、何があったのか、俺の記憶は空漠過ぎてわからない。

 身を丸める。もっともっと身を丸める。

 

 淋しい?

 ……いや、俺の心は落ち着いている。

 俺の心は落ち着いている。

 もう少し記憶をいじくって遊べそうだ。

 ……何をしようか。

 

 ――そうだ、あのことはどうだろう。

 

 そうやって俺は、

 そうやって俺は、何度も何度もあのことを思い出している。

 

 

〔c・d・f・e〕D.C.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  c・o・d・a[epilogue 1]

 

 夕闇の中、里村茜は長森瑞佳の手を引きながら道を走っていた。

「ねえ、どこに連れて行くの?」腕を引っ張られている瑞佳が尋ねる。

「……あなたのことを大事に思っている人のところです」引っ張っている茜は目だけを瑞佳の方に向ける。

「え、なに、聞こえない」

「……急ぎましょう、彼はあなたをきっと待っています」僅かに速度を上げる。

「ねえ、手、手が痛いよ」

「あ、すみません」

 茜は足を止め、瑞佳の手を握り変える。そしてまた走り出そうとして二、三歩踏み出したが、ふと困ったようにまた足を止めた。

「長森さん」振り返り、不思議そうな顔をして瑞佳に問い掛ける。

「え、何?」痛む手をさすりながら瑞佳が訊いた。

「私はどうして今までこんなに急いでいたのですか?」

「え、えっと、それは…」

 瑞佳は答えに詰まる。

 二人の少女は互いに見つめ合う。やがて一人がため息をついて、とても場違いなことを言った。

「ワッフル」

「え?」

「……きっと山葉堂でワッフルの新作が出たのでしょう」

 静かに呟く。

「でも、道違うよ?」

 瑞佳はそんな当たり前の疑問を口にする。

「……そうですね。きっと間違えたんです。すみません」

 心から謝罪するように深々と茜は頭を下げる。

「えっ、わたしは別に……」

「きっと間違えたんですね、忘れたんです、……色々と」

 下げた頭を茜はなかなか上げることが出来なかった。

「里村さん……」瑞佳が心配そうなまなざしを向ける。

「山葉堂はこっちですか、どっちですか?」茜は小さな声で呟く。

「……」

「ああ、間違えたなら、正しい道まで戻らなければいけませんよね」

 ようやく茜は顔を上げる。そのときにはすでにいつもの顔に戻っていた。

「里村さん…?」瑞佳は不思議そうな表情を浮かべたが、茜は目を閉じると、

「行って早くワッフルを食べましょう。……私はどういうわけか今、すごく甘いものが食べたい気分なんです」呪文の様に呟いた。忘れたかった。甘いものを食べて。この胸に落ちてくる理由が無い悲しみを。

「……。……うん、戻ろうか。里村さん」

「……はい」

 二人は静かに道を引き返す。

 

 

 川名みさきはふいに誰かに呼び止められて気がして道の真ん中で振り返った。

「……」

 そのまま少し待ってみたが、誰も声をかけてこないので気のせいだったと思い、またゆっくりと歩き始めた。前へ。おそるおそるだったけれどゆっくりと確実に。

 

〔c・d・f・e〕FINE

 

 

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