西に大きく傾いた燦然たる太陽が一日の終わりを前にして、ヤーナムの新市街の端で輸血液の如き真紅に燃え上がる
聖堂街上層に住まい、先の獣狩りの夜を眺めた者であれば、あるいは気づくだろうか
赤と黄金に染め上げられた街の輝きは、今や固く封鎖された旧市街を焼き尽くしたかつての悲劇、病を浄化すべく放たれた地獄の如き火災を思わせる
一方、東の空より迫り来る暗澹たる黄昏は去り行く赤と黄金を追うようにしてヤーナムの街を覆い、百千と連なる屋根々々、高楼、尖塔に天鵞絨の裾を被せて行く
紫を経て黒に塗り込められる新市街の姿は谷底に横臥する旧市街の憐れな遺骸によく似ている
悉くを黒炭と化す高熱の火炎から逃げ惑い、悲鳴をあげて助けを乞う群衆など新市街にはいない。しかし微風の触れただけで疼く火傷に苛まされるが如く、身を抱えるようにして道端で蹲る者がいた。谷底の街を焼尽せしめた炎の海に追い詰められた者たちのように、壁に縋り付き、突っ伏す者がいた
涎を垂らし、黄色く淀んだ瞳に映ったものを呪い、行くあてもなく彷徨う彼らは病のもたらす痛みのせいか深手を負った獣のように呻き、熱に苦しむ赤子の癲癇のように痙攣を繰り返すのだ
引っ繰り返った蜘蛛の脚のような奇妙な形に捩くれた菩提樹の下、噴水広場に打ち棄てられた典麗たる装飾の霊柩馬車と捨て置かれた堅牢な棺の陰、谷を越えた先の聖堂街へと繋がる壮麗な大橋と交差する下道を閉ざす橋門、それら暗い影の内には、陽光を憎み、夜闇に恋焦がれる者たちが、「獣の病」の罹患者たちが潜んでいた
ヤーナム新市街の一角、噴水広場を囲む高台に構える館、その二階に白い大きなリボンの少女が1人、窓から縋るような視線を街に、眼下に広がる痛ましい様相に向けていた。災厄に圧し潰され、終末を迎えた人の野原に恐れと憐れみを感ずる母なる女神さながら、背けたい眼差しを下界に注いでいる
少女は何かを探すように視線を走らせていたが直に耐えられなくなると、窓から目を外し、街に響く怨嗟の声を遮るように小さな両手で両耳を塞ぎ、窓から逃げるように、あるいは悪夢的な光景から逃げるように離れる
目を閉じても、人血に染まったようなヤーナムに蠢く悲痛な影が瞼の裏に張り付いていた。耳を塞いでも、おぞましい姿に変貌しつつある罹患者の悲嘆と悩乱の入り混じる咆哮の如き轟きが聞こえてくるのだ
扉を開く音が階下から聞こえ、少女はびくりと身を震わせる。しかしそれが正常な人間の丁寧に玄関の扉を開く音だと分かると春の訪れを歓ぶ仔兎のように白い大きなリボンを揺らしながら階段を駆け下りる
玄関には眉目よき婦人が1人、少女の母だ。夕暮れの最後の輝きのような黄金色の髪を後ろに纏め、鉛色のブラウスにギャザーを寄せたスカートを身に着けている
楚々とした立ち振る舞いで、しかし神経質なまでに施錠を確認している
少女はしっかりと戸締りをする母に後ろから抱き着き、母の匂いを胸一杯に吸い込む
おかえり、お母さん
私、良い子にお留守番できたよ
寂しくなんて、なかったよ
それで、それでね
少女の母は辛そうに息を切らし、胸元を飾る真っ赤な宝石のブローチを上下させている。そして閉めた扉にもたれかかり、他に誰もいないかのように愁然として追憶に耽る
少女の父の行方が知れなくなってから、少女の母は時折深く物思いに沈むことがあった
…お母さん?
どうかしたの?
気分が悪いのなら、横になる?
少女の母は今気づいたかのように幼い我が子に目を向け、同じ色の髪を梳くように頭を撫で、調度品の見栄えを検討するように白い大きなリボンの形を整える。そして常の、気高く、貴く、麗しい面色に戻ると少女の視線の高さに合わせて腰を屈める
よく聞いて、大橋の、大聖堂の円形広場への正門が閉じたわ
また獣狩りの夜が始まったということよ
かねてより正門は、聖堂街に不浄な獣が逃げ込まないように獣狩りの夜には固く閉じられ、狩長が帰還するまで、すなわち獣狩りが完了するまで開かれることはない
少女は戸惑いつつも、追及を逃れんとする罪人のように舌をもつれさせ、つっかえながら言葉にする
だったら、獣除けの香を焚かないと!
獣が入って来ないように、だから、私、準備するね
…そうね、でも、私はあの人を迎えに行かなくてはならないわ
そして少女の母はブローチに触れて何事かを呟くと、少女のそばを離れ、急ぐように支度を始める
少女もまた館の薄暗闇の向こうに母を見失うことを恐れるかのように、その背中を追いかける
ケープを纏い、大きな包みを抱える母を、少女は端から眺めていた
言いたいことは一つだけだが、その言葉に馬の手綱のような母を引き留める力がないことを少女は確信していた。それ故に、せめて母が早く戻って来れるように早く送り出すのだ、と考えるに至った。そしてふと気付き、少女は別の部屋へと走ると一包みの獣除けの香を取り、既に玄関で扉に手をかけていた母を呼び止める
お母さん、獣除けの香を持って行かないの?
母は少女の差し出した包みを見ると、僅かに眉を寄せて首を横に振る
あなたが大事に使いなさい、私は大丈夫だから
あの人を連れて帰るまで、一人で留守番、できるわね?
少女は瞳を滲ませてこくりと頷き、出て行こうとする母をもう一度だけ、湿り気を帯びた声で呼び止める
お母さんもお父さんも、帰って来るよね?
お父さん、獣になんてなってないよね?
少女の母は脣辺に微笑みを浮かべ、もう一度少女を抱き寄せ、少女はその温かな抱擁に身を委ねる
あなたの父は敬虔な聖職者で、偉大な狩人よ
きっと、今も、病み人のために祈りを捧げ、獣を狩っているはず
あなたも真摯に祈りを捧げていれば、獣狩りの夜などすぐに明けてしまうわ
かのようにして少女の母は忌まわしくも逃れ難い獣狩りの夜へと去り、少女は固く閉ざされた扉のこちら側に一人取り残されたのだ
少女は一人、瞳の奥から熱がこみ上げるのを感じ、しかしじっと閉ざされた扉を見つめて堪えた。そして獣除けの香と蝋燭を携え、急いで館中の窓のそばに据えられた香炉を巡る
少女は、招かれざる夜闇が冬の冷気のように忍び込む回廊を通り抜け、携えた蝋燭の灯火を受けて鎌首をもたげる蛇のように影を揺する階段を上り、何も見落とさないように各部屋を巡る
肥大した肉体に獣皮を纏い、鋭い爪と牙を持つ恐ろしい獣にかかれば窓など窓格子ごと簡単に破られてしまうが、しかし獣除けの香を絶やさず焚き続ける限り、柔らかな獲物にありつくことはないのだ
漏れがないことを確認すると少女は残りの香を持って暖炉のある一階南側の居室に移り、そこで一夜を過ごすことに決める
ここが日頃家族の集う部屋で、それ故に思い出の痕跡に触れれば寂しい気持ちを少しでも和らげられると思ったのだ
在りし日の家族の肖像画、物心つくまえから掛けられた古びたタペストリー、書庫から持ち出された蔵書のいくつかが積まれた脇机、以前は何とも思っていなかったそれらの物ですら今は愛おしい家族の象徴なのだ
冬の日に家に帰るなり凍えた体を暖炉で温める時のように、少女にとって快い記憶のよすがが小さな体の内で震えるか弱い魂を慰める
その部屋の窓台に吊り下げられた最後の香炉に火を灯した時、少女はふと気づく
そこに一台の小さなオルゴールが置いてあった
四隅に脚のついた小さな木の箱に美しくも大袈裟な蔦花文様の銀の象嵌が施されている
少女は咄嗟にオルゴールを引っ掴み、玄関へ向かおうとするが、どこに父を探しに行ったか分からない母に追いつけるはずもないと気付き、諦めて窓台に戻す
それは少女の父の好きな思い出の曲が流れるオルゴールだ
仮に父が自分たちのことを忘れていても、その曲を聴けば思い出すはずだ、と母が言っていた言葉を思い返す
少女は、軒下で鳴く他に何も出来ない一匹の仔猫を憐れむように母の忘れ物を優しく撫で、小さな溜息をつく。そうして窓辺の椅子に腰かけ、オルゴールを開いて巻き鍵をつまみ、ゼンマイを巻く
久々に風を浴びた風車のようにシリンダーが回転し始め、真っすぐに並ぶ櫛歯を順に弾くと恐ろしい夜さえ供とするような柔らかで優美な旋律が辺りに流れる
浩々と輝く月の下に響くような寂しさと孤独な赤子に歌いかけるような物悲しさが暖炉の温もりさえ忘れさせる、たどたどしくも冷ややかな響きだ。それでも少女が今までにこの音色を聞いていた時はいつも家族がそばにいて、故に少女の寂しさも少しばかり和らいだ
白い大きなリボンの少女は獣狩りの夜に一人、父と母が戻ってくるまでの慰みに、過ぎし日を懐かしむように、獣除けの香の香りとオルゴールの音色に身を委ねた
児戯幻想の類に似て触れれば破れそうなオルゴールの音色に聴き入りながら、どれくらい経っただろうか
いつの間にか、すっかり日は沈み、館が水底のような如何にも暗い闇に満たされていることに気付き、少女は暖炉の明かりだけでは心細くなる
幸い薪と蝋燭は十分にあり、生きているヒモのようなか細い炎を幾つか燭台に灯すと、獰猛な獣を惧れることはあっても闇に怯える心配はなくなった。そして何か耐え難い悪夢を見たような、あるいは見ているような気分になって、少女は自身を勇気づけるためにも獣狩りの象徴たる仕掛け武器でも握るように燭台を掴み、母を探して館を巡る。しかし母も父もまだ帰っていなかった
一人暖炉の部屋に戻ってくると窓に映った少女自身が不安そうな面持ちで立ちすくんでいるのが見えた
少女は窓の中の暗い顔の少女を叱咤するように睨みつけ、元気づけるように笑いかけ、馬鹿々々しくなって窓辺の椅子に腰かける
待つしかできないもどかしさと己の未熟さに苛立つ想念が頭の中を、脳の中を渦巻いているが、少女はそれを言葉にすることが出来ず、ただただ不快な感情の溜まった心の底で、外からやってくる変化を待つ他できなかった
ふと聞き慣れぬ靴音と、覚えのある臭いに気づく
獣除けの香がきちんと焚かれていることを確かめ、鎖で戒められた窓格子の間の窓の外に注意を向ける
見慣れぬ服装の見知らぬ者が窓辺に通りかかった
そちらの道は常に重々しい鉄格子の扉が閉ざされているので、その訪問者は下水道の方からやって来たということだ
…あなた、だあれ?
訪問者は名乗る
遥々ヤーナムまで医療教会を訪ねてやってきた多くの病み人の内の一人なのだという
知らない声、でも、なんだか懐かしい臭いもするの
もしかして、獣狩りの人かな?
訪問者は静かに頷く
いつもならば見知らぬ他人に少女が少しは抱くはずの懐疑心がこの獣狩りに対しては現れなかった
だったら、お願い、お母さんを探してほしいの
獣狩りの夜だから、お父さんを探すんだって…それからずっと帰ってこない
私ずっと…でも、寂しくって…
獣狩りは言葉少なに請け合う
何の要求もされなかったが、しかし少女は疑いも挟まず素直に喜ぶ
本当?ありがとう!
お母さん、真っ赤な宝石のブローチをしてるんだ
大きくて、すっごく綺麗なんだから、きっとすぐに分かると思う
それで、それでね
お母さんを見つけたら、このオルゴールを渡してほしいの
少女は少しばかり窓を開き、堅い窓格子の隙間からオルゴールを押しやる
獣狩りは拝領するように受け取った手の内の小さなオルゴールを、癖字の手記か古い手紙でも検めるように外を内を子細に眺める
お父さんの好きな、思い出の曲なんだって
もし、私たちのこと忘れちゃってても、この曲を聴けば思い出すはずだって
…それなのに忘れていくなんて、おっちょこちょいなお母さんだよね
獣狩りはもう一度少女と約束を交わすと、小さなオルゴールを丁寧に懐に仕舞う。そして道の端の仕掛けを動かして閉ざされた鉄格子の扉を開くと、噴水広場の方へと出て行った