星々は陰り、恩寵は失われるも月の光は絶えることなく、宵は弥増して深まる
古い名を持つヤーナムの街に蠢く獣たちはますます盛んに活動し、同じく慈悲なき獣狩りと死闘を演じている
白い大きなリボンの少女は窓辺にて色の濃い霧の如き眠気に包まれ、うつらうつらとして、夢と現世の境を行き来する
眠ってしまいたいのは母のいない寂しさと父のいない心細さを一時でも忘れられるからだ。起きていたいのは館の外を、ヤーナムの街を行き交う理性の喪失した「獣の病」の罹患者の忌々しい気配を感じるからだ。それに、耳を塞いでも鼓膜を貫くように聞こえてくる、神経に障る烈しい叫び声のせいだ
「獣の病」の罹患者たちの喉が枯れんばかりのざらついた叫び声が獣狩りの夜の間中しきりにヤーナムの通りに響き続けているのだ
失せろ!あっちへ行け!
脳みそをぐちゃぐちゃにしてやる!
「獣の病」の罹患者は理性を崩壊させ始めると得てして獣狩りを始める
自身が罹患していることにすら気づいていないのか、あるいは病を軽く見ているのか
そうして獣を狩るならまだしも、彼らは既に人と獣の区別がつかなくなっている
結果、不用意に出歩いた者が徒に撃ち殺され、訳もなく火に焙られる凄惨な光景が生まれるのである
呪われた獣め!
この疫病ネズミめ!
少女はたまらず燭台と獣除けの香を持って暖炉の部屋を出る
あるいは香りが弱まって、「獣の病」の罹患者が館に近づいてきているのかもしれない、と思ったからだ
順に部屋を巡り、残りの心細い香炉に獣除けの香を足し、館を神秘的な香りで満たして行く。一階を巡り、二階の様子も見に行く
母の帰りを待ちながら街並みを眺めた部屋、それに下水道側にも窓のある部屋がある
親切な獣狩りが下水道の方から来たのだろうことを思い返し、僅かな月明りが差すばかりの酷い汚泥溜りを眺める
窓の中に林立する鋸歯状の尖頂の黒い輪郭が少女を圧倒し、ヤーナムの街を形作る整層乱積みの石壁の錯綜する目地が眩暈を呼ぶ
宵も深く更けたが、多くの窓辺が寂し気に灯り、生命を示すように僅かに揺らめいている。そうでなければヤーナムの街は生気を失った廃墟の如き眺めになったことだろう
獣狩りの夜に不安を覚え、心細さを感じ、灯りと香りに頼っているのは自分だけではないのだ、と少女は少しだけ安心する。たとえそれが怖れや苦しみであっても共有する者たちがいることに少女は慰めを得るのである
ふと視界の端で何かが動き、少女は常に警戒を怠らない野鼠のようにさっと目を向ける
下層の家の二階の窓辺で何かが動いたように見えた
誰かがこちらを見ていたのだろうか
少女は不吉な予感を抱きながらもじっと薄暗闇の向こうの窓辺を見つめる
全部お前のせいだ!
獣め!この汚らわしい獣め!
少女は驚き、跳ねるように窓から離れる
集中していた心に罹患者たちの不意な叫び声が差し込み、思いのほか近くにいるように聞こえたのだった
心臓が早鐘の如く暴れるので痛みを堪えるように胸を抑える
それに、物音が聞こえる。獣や罹患者のような騒々しさではない、何かを丁寧に、しかし繰り返し叩く音だ。扉ではなく、どこかの窓が、階下の窓が叩かれている
母なわけがない、獣だろうか、と少女は危ぶむ。しかし獣が律儀に窓をノックするわけもない
少女は燭台を掲げ、音のする方へ、先ほどまで少女が夢現でいた暖炉の部屋へと向かう
窓を叩いていたのは獣狩りだった。少女を案じて、様子を見に来てくれたのだそうだ。それでいて少女は自身を驚かせた獣狩りに対して少し不機嫌さを示す
…こんばんは。獣狩りさん
お母さん、まだ見つからないの?
獣狩りは静かに首を振る。しかしきちんと探してくれているのだということは伝わった
…うん、わかった。私、待てるよ
お母さんの子だし、獣狩りさんも、優しいし
一人でも、寂しくなんてないんだから
獣狩りの再度のごく短い訪問は少女の心に毛布のような柔らかな温もりをもたらしたが、再び去ってしまえばすぐに寒々しい気分が戻って来た。あるいは強がってみせたのが良かったのかもしれないが、たった一人では空しくなるばかりだった
獣狩りはいつになったら母を見つけてくれるのか、母はいつになったら父を見つけて帰ってくるのか、あるいは父を見つけることなど…
誰も逃れられない夜の到来を受け入れるように、櫂も櫓も棹もない小舟に身を委ねるように、死蔵されて忘れ去られた道具のように、少女は底のない陰鬱とした情緒に沈んでいく
ふと油断した意識の隙間に、壁を叩く音が聞こえた気がしてびくりと身を震わせる。しばらく耳を澄ませるが同じ音は聞こえない
気のせいだろうと再び椅子に身を預ける。その時、今度こそ、確かに、玄関の扉がノックされた。少女は冷静さを失って取る物も取り敢えず玄関へと走る
おかえり!お母さん!
少女が玄関へ向かいながら大きな声で呼びかけると扉を叩く音はぴたりと止んだ
そこでようやく、少女は鎮静剤を飲み干したように落ち着きを取り戻し、しっかりと閉ざされた扉を見据え、灯りのない廊下ではたと立ち止まる
母が玄関の扉を、それにああも鋭く、叩く必要などないのだ
今度は沈黙している扉がとても恐ろしく感じ、少女は踵を返して窓辺に逃げ戻り、椅子の中で縮こまる
またもや囃し立てるようなノックの音が聞こえる
少女は頑なに耳を閉ざす。しかしその音は少女の最後の砦たる館ではなく、別の家の扉を叩いているらしい
低く悲し気な声が微かに聞こえる
とても寒いのです、親愛なる姉妹よ
無意識に、救いを求めるように窓辺に手を伸ばして探る
そこにはもう少女の恐怖と不安を慰める小さなオルゴールはない
少女は目を閉じ、耳を塞ぎ、すべてを拒むように縮こまる