獣狩りの夜は未だ終わらず、夜空には慰めにもならない月が浩々と輝いている
罹患者の怒鳴り声と、どこか遠くで遠吠えをあげる獣の恐ろしげな声がヤーナムの複雑に入り組んだ通りにこだましている
母も父も帰って来ず、少女の頼った獣狩りもあれからずっと姿を見せないでいる
再び玄関の扉が叩かれることはなく、獣除けの香は尽き欠けていた
今焚かれている香ですべてだ
どうしたことだろう、と少女は首を捻る。当然、一夜を過ごすに足る充分な備蓄は常に用意されていた。いつもより多く使って無駄にしたはずもなかった
もしも香が尽きたなら、もしもその時、一人ぼっちだったなら、と思うと少女は氷を呑み込んだような寒々しい気持ちになった
エッエッエッエッ…
お母さん、帰ってきてよう…
寂しくって…怖いよう…
いやだよう…
グスッ
その時、窓の外から声がかかった。獣狩りが1人戻って来たのだった。つまり母はまだ見つかっていないのだ
少女は伝う涙を恥ずかしそうに拭い、母を連れずに戻って来た獣狩りの言葉を待つが、中々切り出されない
暫くして獣狩りは窓を開くように促す
少女が素直に窓を少しばかり開くと何かを握る手を差し出してきた
少女はおずおずとそれを受け取る。小さくて、少しの重みがある、それは母の胸元にあるべき真っ赤なブローチだった
見出した意味を、しかし信じられず、少女はすがるような気持ちで狩人に問う
…え、えっ…
獣狩りさん…本当なの?
言葉にせずとも獣狩りの真摯な眼差しがすべてを物語っていた
…お母さん…お母さん…
一人はいやだよう…
エッエッエッエッ…
少女はブローチを握りしめ、獣除けの香の立ち込める窓辺に泣き崩れる
もはやブローチにはほんの僅かな温もりも残っておらず、それが少女に悪夢のような現実を突きつけているようだった
その後も獣狩りは何事かを不幸な少女に語り掛けていたが、それは影の発する言葉のように少女の耳には届いていなかった
ただ一人、月夜の窓辺で少女は小さな体に余る辛苦に耐えかねて涙を流し、感じたことのない苦悶の果てに嗚咽を漏らすばかりだった
エッエッエッエッ…
気が付けば獣狩りはいなくなっていた
何を言っていたのかを思い出そうとするが、ただ母を失った悲しみに引きずり込まれるだけだ
ふと香りの変化に気づく。とうとう獣除けの香が切れたのだ
少女は慌てて館中の香炉を確かめに行くが、すべての部屋のすべての窓辺で香は燃え尽き、残り香が消えゆくばかりだった
そうすると昏い狂気に陥った凶暴な獣が館に飛び込んで来るのも時間の問題だ
待っていても父と母は戻って来ない。少女自身が行動しなければならないが、もはや獣除けの香と同様に長い深い夜を生き抜く気力も尽き欠けている
真っ赤なブローチを握りしめて窓辺に戻ってくると、獣狩りの残り香が獣狩りの残した言葉を思い起こさせた。少女の泣き声と嗚咽の合間に聞こえた獣狩りの言葉が蘇る
ヨセフカの診療所だったか、オドン教会だったか
獣狩りは少女が泣き崩れている時に避難する先を紹介してくれたのだ。それは生きる意志を期待してくれたことの表れだろう
示された二つの避難先のどちらがどうだったのか思い出せないが、そこには沢山の獣除けの香があって、他にも避難している人がいて、安全だとのことだ。しかしどちらも少女には遠い道のりだ
ヨセフカの診療所ならば、ここから噴水広場を通り抜け、大橋の橋門を潜り抜け、市街地を北東へ、獣憑きの淀んだ眼差しと鋭い鉤爪を掻い潜っていかなければならない
一方オドン教会ならば裏路地から大橋へ…
少女は間違いに気づく
大橋は、聖堂街への門は、獣狩りの夜の始まりと共に封鎖されている。母もかくの如く言っていた
そして少女はもう一つの道筋に思い至る
獣狩りが下水道の方から現れたのはそういうことだ
大橋は二本ある。南側にもう一本下水道を通した水路橋があり、谷を越えた先、上層に広がる聖堂街のオドン教会の地下墓地へと渡されている
獣狩りはそこから市街と聖堂街を行き来したのだろうと合点がいく
少女は覚悟を決める
親切な獣狩りが、少女に生き残ることを期待してくれた命を守るべく、獣狩りの夜を生き延びる覚悟を