厚手の少し大きなブーツに履き替えると、少女は恐る恐る玄関の扉を開き、陰鬱な暗夜に蠢く罹患者たちの不気味な呻き声に耳を傾ける
誰かにとっての特別な符牒のような小さな鐘の音や暗い情念か呪いの類のような不吉な鐘の音が遠くから聞こえたが、その持ち主は見当たらない
少なくともすぐそばには誰もいないようだと分かると影の如く音を立てずに扉の隙間から忍び出る
恐ろしげな出で立ちの菩提樹を横目に、槍の如く尖った不均一な鉄柵に沿って館を回り込み、頼りない街灯の朧な光と不安を招く霧がかった路地の獣狩りと言葉を交わした窓辺を通り過ぎると、不浄な下層への梯子に手をかけて下を覗き込む
少女の七層倍もあろうかという分厚い肉体の大男が1人、丸太のような腕をぶら下げて、何事かをぶつぶつと呟きながら館宅の玄関の方を向いて立ち呆けている
白い大きなリボンの少女は、凶兆が背中に忍び寄る時のように音を立てず、慎重に梯子を降り、大男に気づかれないようにそっとその場を離れる
祈りを捧げる者の像が袖柱に据えられた小さな橋を渡り、再び長い梯子を暗黒に満ちた最下層の、下水道に建てられた不安定な足場まで降りて行く
水位が高い時はこの足場を頼りに船で行き交う者たちもいる。そのため、陰気な下水道であるにもかかわらず、子供か老人かも判然としない醜悪な像がガス灯を吊り下げている。しかし今は水位が下がっていて、臭いや汚れを気にしなければ下水道橋に歩いて辿り着けるはずだ
それでも少女が躊躇ったのは白い靄の奥に、溜まった泥の中に、大量の水に秘されていたが今や顕わになった水底に、眠りから目覚めた死者のような青白い人の形が見えたからだ
泡を立てるような呻き声が微かに聞こえる
理性と尊厳を失った「獣の病」の罹患者が渇きの末に下水さえも啜り、生きながらに腐乱している
そのおぞましさに少女は身も心も震わせ、しかしその感情こそ自身にまだ理性があることの証明のように感じ、珍妙な安堵を覚えた
泡立つ汚水と昇ってくる腐臭、朽ち果てた古い足場、どこかから聞こえる湿った足音、何もかもが呪わしい気分を煽り、それでいて奇怪で醜悪な下水道に挑もうという自身の魂を鼓舞する力になった
暫しの間、少女は父と母を思い、意を決すると足場を降り、生温い泥にブーツを浸す。そうして、足を取られないようにゆっくりと一歩一歩確かめるように進む
下半身の融解した痛ましい罹患者が憎悪に満ちた声を漏らし、長い手で掻くようにしてうねりながら少女の方へと這い寄ってくる
少女は構わず、カビ臭い悪臭に吐き気を催しつつも足を泥に塗れさせながら下水道橋へと急ぐ
橋まで半ばも過ぎた頃、突然つんざくような鳴き声と禍々しい羽ばたき音が降って来た
「獣の病」に感染して肥大し、それでも屍肉を漁って生き延びているカラスだ
もはや空を失ったカラスだが、しかし翼をばたつかせて飛び上がり、まだ体の内に熱い鮮血の流れる少女を引き裂こうと襲い掛かってくる
カラスにも負けない少女の甲高い悲鳴が下水道に連続してこだまする
橋に辿り着けば、橋を渡れば、地下墓地からオドン教会へと昇れば、助かるのだ
少女は必死に下水道を走り抜け、梯子まで辿り着く
カラスは途中で諦めたらしく、姿を消していた
梯子を昇れば目の前は大橋だ
助けてくれ 神よ!
お前はここに必要ない!
少女は驚き震え上がり、梯子の先を見上げる
姿は見えないが獣狩りの真似事をする「獣の病」の罹患者が幾人かいるらしく、松明の投げかける明かりと影が走り、不規則な足音が降ってくる
躊躇われたが、しかしオドン教会へ至る道は他にない
ふと、もう一つの道が、目の前にあることに気づく。水路だ。少なくとも橋の反対側までは下水道を通れば辿り着けるはずだ
ガス灯の明かりはここまでで、その先は真っ暗闇だ。下水道を水路にして行き交う人々もこの先へは進まない。しかし少なくとも暗闇の先には何者の声も聞こえない
少女は胸元に取り付けた真っ赤なブローチを掴み、亡き母と行方不明の父に祈る。少女自身に、自身もまた狩人の娘であることを心の内で言い聞かせ、なけなしの勇気を掻き集めると暗闇の中へと踏み込む
どうして携帯ランタンを持って来なかったのだろう、と少女は後悔する。家のどこかにあるはずなのに、少しも気づかなかった己の不明を嘆く
濡れた足音を響かせて、少女は下水道をそぞろ歩きで進む
苔生した歪な石壁に錆びた排水管と歪んだ排水口が並んでおり、下水を嚥下するような不気味な水音が響いている
ふと視線の先に倒れ込む人影が見え、少女に戦慄が走る
少しも身動きせず、吐息一つ漏らさないそれは死体のようだった
先に進みたければその遺骸の横を通り抜けなくてはならない。しかし、もはや獣除けの香のように勇気は尽き欠けていた。これ以上進めず、かといって戻ることも出来ない。恐怖が忘れかけていた寂しさと心細さをも蘇らせる。立ち尽くしていたところでどうにもならないと頭では分かっていても、手足は言うことを聞いてくれない
涙が零れ、舌をもつれさせながら少女は呟く
お母さん…
その時、下水道の先、暗闇の向こうから足音が聞こえて来た
少女は瞳を濡らして息を呑み、口を閉ざす
それは人の足音ではない、鋭い爪音だ。二本足ではなく、馬のそれよりもずっと重々しい跫音が下水の泥濘を踏みつけながら近づいてくる
それは霊柩馬車にも比する巨大な豚だった。灰褐色の皮膚を弛ませた巨体にどす黒い体毛が生えている。歯を剥き出しにして、涎を垂らしながら醜怪な獣が近づいてくる
「獣の病」が変身させたそれは、果たして元から豚だったのか、誰にも分からない
豚は小さな少女を目にした途端、少しの猶予もなく猛突進してきた
絶望的な大敵に対し、少女は震える足を奮い立たせ、何とかかわそうと身を捻るが、しかし掠っただけで軽々と弾き飛ばされ、下水道の石壁に叩きつけられる
頭を打ち、精神麻酔でも飲まされたように脳が麻痺し、意識が揺らぐ
豚はそのまま走り抜け、隧道から飛び出した辺りでようやく止まり、ゆっくりと物々しく首を振りながら振り返る。巨体の故に制御が利かないようだが、それを知ってか知らずか今度は少女をじっと見定め、狙いを付けていた
少女は額からドロリとした血を流し、背中を痛め、足まで挫き、汚泥に塗れ、もはや勇気どころではなく、気力まで尽き欠けていた。体の動きは鈍り、泥濘を蹴立てて迫る巨大豚に目を向けることも出来ず、泥に浮かぶリボンを見つめる
母に貰った大切なリボンが、美しい光沢、繊細なレースを伴ったそれが汚い泥みどろになって、薄汚いありさまになっていた
これが正しい運命だとでもいうのだろうか
叩きつけられた拍子に外れて落としたらしい白い大きなリボンを掴むと、少女は怖ろしさでも寂しさでも悪夢的な絶望でもない感情に支配され、狩人の血を引く体が突き動かされる
少女は顔を上げ、迫り来る醜い豚を睨みつけ、拳にリボンを巻き付け、これを力の限り振り上げる
下方からの不意の打ち上げに豚は怯み、よろけ、壁に巨体をぶつけて体勢を崩した
一方少女は豚の脚の間を潜り抜け、隙を晒した豚の背後に一人立ち上がった。不思議と生きる力、その感覚が回復した少女は、いつだったか父に聞いた話を思い出す
獣の皮は分厚く、また体毛は硬い
銃弾などでは命に届かず、それ故に狩人たちは鋭利な刃で分厚い皮膚をも切り裂くか、目方の重い鈍器の衝撃で叩き潰すのだ、と
もっとも、如何な獣とて臓腑は軟らかく、優れた狩人は獣の僅かな傷と隙を見落とすことなく、内側から狩ることができる
少女は躊躇うことなく、血の温もりを求める獣のごとき衝動のままに巨大豚の昏い孔から拳を突っ込み、無我夢中で内臓を掻き混ぜ、手当たり次第に掴んで一気に引き抜いた
豚は醜い声で哮り立ち、膝を折ってその場に倒れ込み、そうして痙攣するばかりになった
下水道の先には対岸からの点検用の通路があり、少女は息の詰まる下水道からようやく解放された
水路橋は丁度旧市街の焼け落ちた聖杯教会の頭上に架けられており、少女は微かに焦げ臭い風を浴びる。すぐ近くにまたもや長い梯子を見つけ、少女は重い体を何とか持ち上げる。そして上下に行き交う両の手を見て、絡めていたはずの白い大きなリボンが無くなっていることに気づく
母から貰ったとても大切なリボンだが、下水道に取りに戻る気にはなれなかった
橋の上には予想していた通り「獣の病」の罹患者の獣狩りの群衆が手に手に凶器を握り、これ見よがしに火炎瓶を並べて屯していた
少女は罹患者たちに気づかれないように息を潜め、幾つかの錠と蜘蛛の巣のような鎖に縛られた棺や燭台彫像の溢れる路地を進んでゆく。暗い路地の急な階段を上って行き、重厚な門を潜るととうとう地下墓地へと辿り着く
地下とはいえ聖堂街は山腹にあり、渓谷に橋を渡すように広がる建物の隙間から夜空が見える
墓地の中心に据えられた石碑の周りには無数の墓標と墓石が無造作に並び、捩くれた小径の植栽は枯れていた
整然とはしていない。忌まわしい墓荒しか呪われた獣にでも荒らされたのだ
ここまで来ればオドン教会と獣除けの香、そして泥に塗れてまで希った安寧は目と鼻の先だ
安堵と共に、すべてのできごとが、まるで悪夢であったかのように思えた
白い大きなリボンを失った少女は墓所を回り込むように設えられた階段を上り、オドン教会の真下に位置する開かれた鉄扉に近づいた
その時、不吉な予感が安堵に満たされたはずの頭をよぎる
振り返った先、高台から墓地への落下防止の鉄柵の一部が失われている
見てはいけないものがそこにあるような気がした
気づかないふりは出来なかった
少女は湧き上がる不安に反し、歪んだ鉄柵の方へ近づくことを余儀なくされる
そうして恐る恐る覗き込む
お母さん!
心臓を打ち付けたような衝撃と共に少女は母の斃れる小屋の屋根の上に飛び降りる
縋り付いた母の体は既に冷たくなっていた
獣狩りはここで母を見つけ、形見として真っ赤なブローチだけ届けてくれたのだと少女は理解する
葬送されるとしても獣狩りの夜が明けた後だ。そうでなくとも墓地街ヘムウィックは収容限界を越えていて、棺の行く当てはない
この寒々しい場所で獣狩りの夜に一人取り残された母を不憫に思うが、しかし少女にはどうすることもできなかった
滔々と涙を流し、声の限りに慟哭し、すべてが枯れても母を抱き寄せたまま動けずにいた少女だが、既に固まった血の噴き出したであろう母の深い傷に気が付く
それは獣の爪ないし獣をも切り裂く獣狩りの武器によるものだ。いずれにせよ「獣の病」の罹患者に違いない
少女は母の遺志を想い、静かに母の冥福を祈ると屋根から降り、獣除けの香に溢れているだろうオドン教会に背を向けて、獣狩りの夜へと消えた