ヤーナムの少女たちの物語   作:山本航

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『夕刻』

 夕刻にもなれば早くも陽光を失うヤーナムの奥まった狭隘な裏路地には、か黒い獣のような罹患者のおぞましい呻き声と凶暴化した野犬の咆哮が響いている。いずれも狩人が通りかかるまでの短い命を察しているかのように目をぎらつかせ、夥しい涎を撒き散らし、幻めいて朧げな残照と姿を現し始めた影の移ろいに怯え、まだ見ぬ死に屈服するように隠れ潜んでいる。肉体の膨れ上がった醜怪な罹患者の大男がただ立ち尽くし、時折身も凍るような恐ろしげな声で囁いている

 

 その忌まわしい混沌の景色を小さな窓の中から、符牒を読み取り、予兆の表象を探るように眺める少女がいた。親を失った者、親に捨てられた者、あるいは落とし子、それら孤児の集う家の屋根裏部屋から呪詛のような眼差しで街を見つめている

 

 狭く埃っぽい屋根裏部屋から見える景色は針のように尖った無数の尖塔と陰鬱な路地、干上がった下水路、そしてまるで少女を見下ろすように聳える高台の邸宅だ

 

 階下から聞こえてくる女の下卑た笑い声から逃れるように少女は窓に張り付き、高台の邸宅を睨め上げる。慄然とする少女はしかし口元に微笑みを浮かべ、手持無沙汰の指で血筋を示す金色の髪を捩じり、時折灰色の制服の上着やスカートを縁取る白いレースを愛おしそうに撫でる

 

 少女は、如何に有害なれども獣狩りの夜を好いていた

 

 恐ろしくとも、労働から解放される僅かばかりの深遠なる夜に少女はその窓辺を独占し、果てしない宿命的な夢想に浸る。その金の髪に白い大きなリボンを飾る姿を具に思い馳せるのだ

 

 金属の軋む嘲笑的な響きが聞こえ、少女は悠遠なる物思いから戻り、恨みがましい目つきで上段の邸宅を見上げる

 邸宅の脇にある封鎖された路地の鉄格子を開く時に、そのような音が鳴ることを少女は覚えていた

 

 もう一度長い軋み音が鳴った後、陰から一人の女が姿を現し、梯子を降りてくる

 ガスコイン夫人、ヴィオラだ。少女と同じ貴い血筋に連なる者でありながら異邦の聖職者と結婚し、上段に移り住んだ嫌らしい女だ

 

 ヴィオラが無様に右足を引きずって、辻を曲がり、下水路へと去って行くのを少女は愉快そうに笑みを浮かべて見送る

 どこへ何をしに行くのか、少女には判然としないが、ガスコイン神父が行方不明になっていることは周知の事実だ。あるいはそのことと何か関係があるのかもしれない

 

 つまり、今、あの邸宅では少女よりも年若い女の子が1人きりだ。臆病で、何より寂しがり屋の女の子だ。きっと辛い思いをしていることだろう

 そう思うと少女は昏い喜びを仄めかす異質な笑みを零すのだった

 

 いつもの獣狩りの夜よりも更に奇怪で奇妙な夜になりそうだ

 

 暫くしてヴィオラが降りて行った梯子から、今度は昇って来る者がいた。薄気味悪い異邦の服にズボン、黒いフードに汚れた包帯、格好を見るにヤーナムに救いを求める嫌悪すべき病み人、ありふれたよそ者らしいと判る。奇妙なのはよそ者が右手に仕掛け武器、左手に銃を携えていること、典型的な獣狩りの装備を身に着けていることだ

 

 だからだろうか、少女はそのよそ者の獣狩りに畏怖と狂気の印象を抱き、心の裡に戦慄する

 獣狩りというのは総じて奇態な連中ばかりだが、少女がこれほどに不安感を催す者はいなかった

 

 よそ者は注意深くも真っすぐに少女の棲む家へとやって来て、税吏の如く玄関の扉を叩く

 少女は思考を超えた恐怖に躊躇いつつも忍び足で階段へと近づき、細大漏らさず聞き逃すまいと訪問者との会話に耳を澄ます。しかし玄関の扉の向こうのよそ者の声は聞こえなかった。代わりにこの家の主たる女の、よそ者を疎む奇矯な声だけが聞こえる

 

 

…よそ者め

お前たちに開ける扉などあるものか

ああ、いやだ、汚らしい

 

 

 情動的な女の漠然とした恐怖に基づく忌避感によってあえなくあしらわれ、よそ者は僅かも惜しむことなくその場を離れた

 

 少女は安堵し、素早く窓辺へと戻ると獣狩りの夜にあってなお異様な雰囲気を醸すよそ者の背中を目で追う

 

 よそ者は身軽に上段への梯子を昇って行き、かの邸宅の陰へと隠れてしまった。しかし噴水広場へと抜ける鉄格子の軋む音が聞こえたのは随分後のことだった

 

 その事実に暗示され、少女の脳裏に見ていない景色が焼き付く

 鉄格子の手前の窓辺で今邸宅に一人きりの女の子と会話するよそ者の姿だ

 

 一体何を話したのだろう、と少女は当惑しつつ想像する

 よそ者とよそ者の娘だ。何か通じるところがあったのかもしれない

 少女は何故か妙に気にかかって、日が暮れるのも気づかずにいた

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