ヤーナムの少女たちの物語   作:山本航

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『宵』

あああああ!

 

 

 嗄れた叫び声を耳にして少女は水面で跳ねる魚のように飛び起きる

 

 窓辺に身を預けたまま眠ってしまっていたらしい

 初めは悪夢に魘されたのかと思ったが、身の毛もよだつ声は階下から這いあがって来ていた。まるで「獣の病」に憑かれた罹患者のような声だった

 

 とうとうこの家も病に浸食されたのかと少女は冷や汗をかく。しかしもしも既に女の瞳孔が崩れ、蕩け、その身がおぞましい獣に変じているならば少女の命は眠っている間に狩られて、血を啜られていたことだろう

 

 少女は何とか気の乱れを鎮め、窓からの景色を眺める

 すっかり日が暮れ、代わりに白い月の光が浩々と裏路地に差し込んでいて、むしろ家屋の陰に沈んでいた夕刻よりもずっと明るい

 

 少女がまた上段の邸宅を見上げると窓の一つに過ぎる人影を瞥見した

 邸宅の中で灯火、おそらく蝋燭を持った何者かが行き来しているのである

 少女がじっと邸宅を見据えていると今度は二階の窓に蝋燭の明かりがやって来た。ガスコインの娘が窓辺に現れた

 

 遠眼鏡なしでも、その髪を飾る白い大きなリボンが月の光の中に印象的に浮かび上がるのが見える

 忌々しい気分が弥増して少女は上段の少女を睨みつけるが、目が合ったような気がするとすぐに身を隠す。暫く間を開けて再び窓から覗き込むとガスコインの娘は姿を消していた

 

 代わりに月明かりの照らす路地を行く者がいた。あのよそ者だ

 すっかり獣狩りらしい、まともな人のものではない血を浴びた不浄な姿になっている

 獣狩りの夜のヤーナムに通暁した狩人のように迷いのない足取りで、今度は戻ってくる道をたどって、梯子を降り、腐敗した下水道へと消える

 

 一体どうして、と少女は首を傾げる。よそ者の狩人がただの一人ぼっちの女の子に何の用があるというのだろう。当然、狩人の用は獣狩りに決まっている。もしやヴィオラか、その娘である女の子が獣と化したか、あるいは「獣の病」の兆候でも表れたのだろうか

 

 右足を引きずって去って行ったヴィオラの後ろ姿を少女は思い浮かべる

 「獣血は右足から這いあがる」とは古い時代の迷信だ。だが「獣の病」の萌芽、数多ある奇怪な症候の一つ、初期症状によく似ている

 

 少女は胸の悪くなるような発想を見出し、下唇を噛み、邸宅を見上げる

 もしもヴィオラか、その娘が獣と化したなら、白い大きなリボンはどうなるのだろう、と少女は不安に憑りつかれる

 

 そう思うと少女は居ても立ってもいられず、階段へと急いだ

 多くのヤーナムの民と同様に血の常習者でもある家主の女は空の輸血液瓶が散らばった机に酔っ払いのように突っ伏し、相変わらず少女を夢から連れ戻した身も凍るような呻き声をあげている

 気づかれないように静かに玄関の扉を開けると、少女はそっと獣狩りの夜に忍び出る。そして少女は道端にころがる、まるい石ころを拾い、ガスコイン邸の方へ適当に投げつける。しかし石ころは壁にぶつかって跳ね返り、軽やかな音で地面を叩く。それ以上のことはない

 

 少女は下水道から立ち上る汚らわしい堆積物の臭いから逃げるように、よそ者が二度行き来した雑然とした路地を行き、冷たい梯子を昇る

 窓格子に守られた窓辺には明かりが灯っていて、窓枠の間隙から獣除けの香の匂いが漂っている

 姿を見られないように窓辺を通り過ぎ、開けられたままの鉄格子の門をくぐり、噴水広場を横目にガスコイン邸の玄関扉を返事が返ってくるまで執拗にノックする。そこにある白い大きなリボンに呼びかけるように強く何度も叩く

 

 

おかえり!お母さん!

 

 

 少女は直ぐにノックを止めて女の子が扉を開く前に踵を返し、待つ者のいない家へと急ぎ帰った

 

 ヴィオラはまだ帰っていないらしい。もう帰って来ないのだろう。ならば、ガスコイン家の娘だった女の子もまた孤児となり、白い大きなリボンを携えて、この家へとやって来るだろう

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