少女はまるで一昼夜を寝て過ごしたような気がしたが、恐るべき夜はまだ明けていなかった
寝ぼけ眼で眺める窓枠に埋没した景色もまた妙に明るかった。月とも星とも太陽とも違う、不可解な色彩に照らされている。一方で蠢動する影は知られざる通路を経て宇宙的暗黒を滲ませ、更に濃度を増している。それにガスコイン邸の窓辺から漏れていた明かりが消えている
少女の頭が冴え、怜悧な脳の奥底から言い知れぬ不安が間歇的に募る。同時に階下が妙に静かだと気付き、少女の表情に疑念の色が浮かぶ
それでも少女は身に付いた忍び足の癖で階段に近づき、階下の様子を窺う
主たる女は机に突っ伏して寝息も立てず、微動だにしない。まるで死んでしまったかのようだが、少女は油断せず階段を降り、女の後ろを通り過ぎる
その時、女が小さな呻き声のような、大きな寝言のような声を喉から漏らし、少女は戦慄し、固まる
進むか、戻るか、迷っている内に、まるで暗い孔の底で吼え猛る者がゆっくりと這い出してきているかのように徐々に女の声が大きくなる
凍り付いた表情で少女は女の様子を見守る
女の体がびくりと動いたかと思うと激しく痙攣し始め、人ならぬ声と共に体を丸め、同時に背中が盛り上がり始める。勢いよく椅子が倒れると、人間らしい輪郭を失いつつある女は嗚咽を漏らしつつ、目に見えぬ何かに連れ去られるのを抗うように机にしがみつき、袖口から現れた短剣の如き爪が天板に深々と爪痕を残す。少女と同じく窶れていたはずの腕が膨張し、引き裂かれた袖の中から、黒々とした毛に覆われたおぞましき野獣のごく太い前肢が現れる。胴も足も分厚くなり、女の頭が持ち上がると鼻が、口が伸び、獣の口吻の如き鼻面が現れた。髪の間から垣間見えた眼には篝火の如き光が閃き、少女はそこに焦がれるような誘惑を見出す。耳まで引き裂かれたような口からは鋭い牙が覗き、その隙間からどろりとした涎が滴り落ちる。巨躯の獣は正体不明の昂奮に憑りつかれた様子で暴虐の光に眼を爛々と輝かせ、凶悪な咆哮を狭苦しい部屋に轟かせる
少女の中で身を引き裂くような冷たい恐怖と共に秘められた殺意が燃え上がり、その体を突き動かした
憎々しい相手が、殺しても構わない酷い獣化者に、そうしても誰かに責められることのない荒い毛に覆われた狂気の獣に変貌したことで、少女の内を歓びが満たす
倒れた椅子を取り上げて、怒りと恨みと憎しみと歓びを込めて思い切り振り下ろす
獣は頭を机に叩きつけられ、蹴とばされた野良犬のように呻き、床に倒れ、吼え立てながらも動きが鈍る
狂うとて混乱するのだ
少女の方は冷静に、獣に馬乗りになって拳を振り下ろす
弱点など人間と大して変わらない
目を殴り、鼻を殴り、喉を殴る
ガラスが割れる音と共にそばに割れた瓶が転がった
誰かが自分のためにそこに置いてくれたのだと少女は確信し、割れた瓶を女の喉に、女だったものが動かなくなるまで何度も突き刺した
血が飛び散り、涎が撒き散らされ、とうとう髄液が溢れ出す。瀉血器を引っ繰り返したが如く真っ赤な彼岸の花が大輪を開く
ことが終われば、少女には再び焦りが生じる
こんなことをしている場合ではないのだ
呪いから解放されて冷めゆく憐れななれの果てを捨て置いて、少女は偏執にも似てこびり付く死血の穢れを適当な布切れで拭い、新たな服に着替える
もはやこの冒涜的な夜に自分を咎める者はいない
少女は意気揚揚と孤児の集った家を出、不思議な引力に引き寄せられるように夜空を見上げる
そこには宇宙悪夢的な青ざめた空が広がり、突然に超次元より訪れた理解しがたい天啓の如く、いやに近く感じる赤い月が浮かんでいた
夜空の暗黒というには明るい、屍の如き青みを帯びた雲が厚く立ち込めて星々を隠し、縦横に渦動している
何かがおかしい、しかし名状し難い
その真性とは言い難い眩惑的な月を見つめていると宇宙の深淵を覗き見たような不思議な感覚に陥る。自分が自分でないような、体が裏返り、奥底にあるべきものが曝されているような、自他の境界が失われたような、生まれて初めて覚醒したような
少女はまるで白い大きなリボンが永遠に失われたかのような、偏執狂的恐怖に襲われて身震いする。尋常とは異なる月の呼び声に耳を塞ぐように、驚異的な赤から目を剥がす。感応する精神を閉ざすように混迷する頭を覆う靄を振り払ってガスコイン邸を見上げる
獣狩りの夜にしては嫌に静かだ。神をも恐れぬ遠吠えではなく、煩わしい呻き声ばかりが聞こえる。しかしその上段に構えるガスコイン家の邸宅は死に絶えたように静まり返っている
少女は向かいの家の手前で立ち呆けている大男を横目にそっと梯子を昇り、暗い窓辺へとやってくる。そして獣除けの香が薄らいでいることに気づく。よもやと思い、少女は玄関へと走る
こじ開けられたような痕跡はないが、扉が開いたままで、何事かが起きたことを示している
少女はガスコイン邸へと忍び込み、理性のある者と同様に息を潜めて、家探しする。自身を飾るべき白い大きなリボンを求めて、怨霊の如く廊下を過ぎ、処刑人の如く階段を上り、使者の如く各部屋を覗き込み、チェストの中の金糸の刺繍に彩られた衣服を掻き分け、キャビネットの薄汚れた手袋や獣狩りの夜にはまるで役に立たない輝く硬貨を引っ張り出し、机の抽斗の白い丸薬をぶちまけ、寝台の下を覗き込み、隅々まで漁る、が不首尾に終わる
やはり、白い大きなリボンはどこにもない、それにガスコインの娘もいない
どこへ行ったにせよ、図々しくもリボンを持ち去ってしまったのだ、と少女は火に焙られるような焦燥感を覚える
まさか獣狩りの夜を一人、我が身を反故にして小さな女の子を探して歩き回るわけにもいかない。既にリボンは獣の腹の中かもしれない。獣狩りの夜の明けるのを待っていたら、リボンを呑み込んだ獣もまた焼き殺されるかもしれない。しかし少女は諦める気にもならず、むしろリボンへの思いは嵩ずるばかりだった
何かないかとガスコインの娘が過ごしていただろう暖炉の部屋へとやってくる
燠火の微かな灯りが煤けた暖炉の中に生き残っている。釣り香炉の煙はもうほとんど消えかかっている
不意に少女は思い立つ、ここを何度か訪れていた狩人のことを
迂遠なる計画だが、白い大きなリボンと同じくらい獣や病から身の安全を守ることが肝要だ
再び明かりを灯した窓辺で少女が根強く好機の訪れを待っていると、斑気が起こる前に例のよそ者の獣狩りがやって来た
少女はすぐさま声をかける
ああ、もしかして、妹をご存じではありませんか?
留守番をしていたはずなのですが、どこにも姿が見えなくて…
白い大きなリボンをした、小さな女の子です
どこか、ご存じではありませんか?
獣狩りは確かにガスコインの娘を知っているという
口ぶりから小さな女の子が一人、獣狩りの夜を過ごすことを気にかけていたようだと判る。それならば、代わりに白い大きなリボンを探してきてくれるだろう、と少女は目論む
しかし泡沫的な期待は予想以上の早さで実現する
獣狩りが何も言わずに差し出したものを、少女は窓を開いて窓格子の隙間から受け取る
それは赤いリボンだ。臭いたつ濃い赤は臓物の血の色であり、持ち主の運命は想像するに難くない
…ああ、やっぱり…
…あの子、なんで、外に出たりなんか…
ううう…
…でも、これであの子のために祈ることができますね…
獣狩りが気遣わしげに言葉をかけるが少女はただリボンを握りしめ、さめざめと真珠粒のような涙を零すばかりだ
ううう…
とうとう獣狩りはお悔やみの言葉を残してその場を去った
遠ざかる足音の間に、少女は胸を打つ心臓の高鳴りを感じる。そして堪えがたい思いが喉を突いて出る
綺麗なリボン…やっと私のものね…
とっても似合うでしょうね…
ウフ、ウフフフフフッ
もはや少女にはリボンの他に何も目に入らず、鼓動の他には何も聞こえず、軟体生物のように柔らかな絹の手触りに魅入られ、警句の如く弄ぶ
赤い月を見上げていた時のように、その赤いリボンに瞳を吸い寄せられる
本来は白い大きなリボンで、今は匂い立つ血に滲んでいる
濡れた血から醸し出される濃厚な匂いに誘われ、抗しきれず、倒錯を伴う好奇心に背中を押され、少女は淡い紅色の舌をそっと伸ばし、血の滑りを舐めとり、甘受し、生の喜びを見出す
何故か、妙に、甘く感じた
少女は赤いリボンが白くなるまで、血をすべて舐めとる
美しい光沢、繊細なレースを伴ったそれはやはり可憐な少女にこそ映えるものだろう
ああ、素敵…
ウフ、ウフフフフフッ