司が浅い眠りから覚めたとき、日は既に傾きかけていた。夕暮れの薄明かりが窓から差し込み、事務所内の空気を金色に染めている。ぼんやりと霞む視界の中で、司は自分がどれほど深く眠っていたのかを思い出した。
(寝ちゃってたか――)
あの後、所長はどこかに買い物にいってしまい、事務所にはいない。
ならば誰もいないはず――の事務所に人の気配を感じる。
「あら、起こしてしまいましたか?」
遠子の柔らかな声が耳に届いた。
「遠子さん。来ていたんですね」
司は軽く伸びをしてソファから起き上がる。頭はまだ霧がかかったように鈍く、夢と現実の境界が曖昧だ。ふと無意識にこめかみを揉んだ。
「お邪魔でした?」
「いえ。そういうわけでは」
今は急な依頼があったというわけではない。
「野球人形の件でしたら……」
「あ、いえ。その件とは別に一つ依頼がありまして」
「依頼?」
怪訝そうな顔をする。
普段の余裕をみせる遠子とは異なり、焦燥感のようなものが垣間見える。
「……その依頼というのは?」
それでも司は身を乗り出して尋ねるが、遠子の表情が曇った。
何か話しづらいことがあるのだろうか。
そう司は疑問思う中、遠子は白い指先で無意識なのかその黒い髪の毛を巻いている。言葉を探しているのだろう。
部屋に流れる静寂が重い。
「実は……」
「実は?」
司は急かさずに待つ。彼女の目が一度天井を仰いでから床へ落ちる。瞳には迷いと不安が浮かんでいた。
普段なら令嬢とした仕草を絶やさず毅然とした態度で話してくる遠子が、こんなにも言葉を詰まらせている。
「ええ、でも、これは前とは全く違って……」
遠子は手の上で両手を固く組んだ。
「何でしょうか?」
また暫く間があってから、ようやく遠子は続ける。
「えっと、その失踪者探しも探偵さんの仕事ですよね?」
「ええ。もちろんです」
司の優しい言葉に遠子は小さく頷く。そして深呼吸する。
それから、遠子は俯き加減で話し始めた。
「実は、ある人物を探しています。ただ……」
司は頷きながら聞く。いつもなら率直な彼女が珍しく言葉を濁している。
「ご安心ください。人捜しも立派な探偵の仕事ですから。家族やご友人でか?」
「いえ、そうではないんです」
遠子の眉間にシワが寄る。
ここで初めて遠子は顔を上げた。潤んだ瞳の奥に強い決意が宿っている。
「その、全く縁のゆかりもない方でお会いしたこともありません」
司の手が止まった。そのまま黙って遠子を見つめる。
「会ったことがない人物?」
司は思わず問い返した。一般的な探偵への依頼であれば、人捜しは珍しくない。だがそれは、「失踪した家族を探して欲しい」「不倫相手の素性を調べて欲しい」など直接的な関係者の調査が多いはずだ。
そうでなくても、利害関係のある相手のはずだ。
「はい……」
遠子は視線を逸らす。窓から差し込む午後の光が彼女の頬を照らしていた。
彼女も、自分の言っていることが理解しがたい事であることはよくわかっているようだ。
何とか司を納得させられないかと、言葉を探っているようだ。
「どういう理由で?」
司の声は柔らかい。
根掘り葉掘り聞くわけではないが、ある程度の事情は知らないとどうしようもない。
一方の遠子は口元に手を当てて考えるような素振りを見せた。長い睫毛が揺れ動く。
「それは……」
一瞬言葉に詰まり、唇を噛む。
「構いませんよ。依頼人が話したくない事情があるのも理解できます」
司は微笑みを浮かべながら言った。遠子の警戒心も少しは和らいだ――気がする。
遠子は小さく息を吐いた。
それから、ようやく続ける。
「……取引なんです」
「取引?」
「はい」
彼女はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「とある条件がありまして……。それを飲む代わりに」
司は身を乗り出し、
「その取引とは具体的にどのような……?」
遠子は首を振る。
「申し訳ありませんが、それについてはお話できません」
「なるほど」
司はゆっくりと腕を組んだ。
遠子の目は泳いでいる。相当に無茶なことを言っているという自覚があるのか、それで何とか納得してくれないかと祈っているようにも思える。
「理由は、その、複雑でして……」
「単純な興味本位ではないことはわかります」
そんな遠子に司は穏やかな口調で続ける。
だが、それでもこれは聞く必要はある。
「その人物を探さないと遠子さんに危険が迫るとか?」
「いえ、危険というより……」
遠子は言いかけて止まる。
この反応は外れか。
見つけ出さないと彼女自身の命にかかわるなどといったことは、なさそうである。
「では脅されているのですか?」
その司の直球の質問に遠子は目を見開いた。
「いえ、違います。別にそういうわけではありませんわ」
そう否定する様子に司もそれはないか、と察する。
「それなら……なぜ?」
司は冷静に追及する。
彼女は、お金はある。身の危険が迫っているわけではない。
にも関わらず、この「取引」を成立させなければならない事情があるのだ。
遠子は司から視線を逸らし、窓を見つめる。窓に映る自分の顔を見ているようだった。
「私にとって大切なものが、取り戻せる可能性が……」
声は徐々に小さくなり、最後はほとんど聞き取れないほど。
司は沈黙を守った。言葉の端々から見え隠れする「大切な何か」。それは、迂闊に聞いていいものではないことが察せれたからだ。
遠子の視線が窓の外へ向かったままだ。春の陽射しが、事務所の床に淡い影を作っている。
「申し訳ありません」
遠子は静かに言った。
「全てをお話しすることはできません。ですが、司さんを信じていない、というわけではありませんわ」
その言葉に司は黙って頷く。
彼女が人間不信をこじらせているような人間でないことは、これまでの付き合いからもわかっている。
「では、この件に関して、どれくらい切迫しているのでしょうか?」
司は話題を変えた。
とにかく、緊急的にどうにかする必要があるのか聞く必要がある。
「いえ、緊急的にということはないはずです。ですが、できる限り早くというのが相手側も仰っておりまして……」
「相手?」
ここで今のが失言だったことに遠子も気づいたらしい。
「相手というのはその取引相手とやらですか?」
司の言葉に遠子は呆れめたようにうなずくしかなかった。
「まあ、そうですわ……」
「……わかりました」
少し間を置いてから、司は続ける。
「遠子さんの言う『取引相手』とやらには追求しません。純粋にその人探しの方に専念させていただきます」
「本当ですか!」
ぱあっと、遠子の表情に笑みが浮かぶ。
その表情にはほっとした色が濃厚に現れている。
司も苦笑しながら「ただ一つ約束してください」と前置きをして続けた。
「その『取引相手』とやらは安全な人なんでしょうね?」
「あら? 私のことを心配してくださいますの?」
遠子は笑みを浮かべてみせる。
「ええ。少し変わった方ではありますが、悪い方ではありませんわ。その方に私が危険を加えられるような事はありません」
司の真摯な表情に遠子も真剣になったようだ。そして「それに」と小声で続ける。
「……その方の目的に関しても同意できるところがありましたので」
「そうですか……」
現時点では、それ以上は追求できない壁を感じてその取引相手に関してはここで終える。
「さて」
と凛子は話を続ける。
「肝心の人捜しに関してですが、どういった方なのですか?」
「どうやら、借金の方にどこかに売り払われた方のようでして」
「借金?」
「ええ」
遠子は頷いて続ける。
「今、この帝都のどこかにそういった方達を集めて働かせている施設があるそうなのですわ」
そのような施設、当たり前の話だが、非合法なものだろう。
「それはまた、難しそうですね」
予想以上の大きな話になり、司も困惑する。
「ええ。報酬はできる限りの額を用意しますわ」
報酬にそれほど興味はないが、確かにこれはお小遣い程度の金額では釣り合わないだろう。
何よりも――、
「……雲をつかむような話ですね」
「ええ」
遠子もそれは分かっているのか、否定しない。
「ですので、急ぎではありませんし、他に依頼された方があるなら、そちらと平行してという形で構いませんわ」
「その依頼、引き受けるとしたら条件があります」
「条件?」
「はい。まず、その『取引相手』について何か危険があると判断されたらすぐに俺に知らせてください。それと」
司は慎重に言葉を選んだ。
「もし依頼の過程で法に触れるようなことがあれば、改めて話し合いとさせてください」
何となくだが、警察には相談しにくい事案なのだろうことは、遠子の話し方からわかった。
だが、彼女自身は悪辣な人物ではない。そのことは知っているからこその譲歩の提案だ。
それに遠子は一瞬目を伏せたが、すぐに真剣な眼差しで頷いた。
「ありがとうございます。もちろんです」
「なら時間はかかるかもしれませんが、必ず見つけ出します」
「本当に感謝いたします」
遠子は深く頭を下げた。
「くれぐれもご無理はなさらないでくださいませ。あくまで私の個人的な依頼ですもの」
司は微笑みながら差し出された手を握る。
「もちろん、正式な回答は所長と相談してからということになりますが」
「はい。それはもう。捜索対象の方の、詳しい資料はその時にお届けしますわ」
お金にうるさい彼女を無視して契約を交わしてしまえば、間違いなく怒られそうだし。
その後も遠子は何度もお辞儀をして去って行ったのだった。