『ウマ娘』
彼女たちは、走るために生まれてきた。
ときに数奇で、ときに輝かしい歴史を持つ別世界の名前と共に生まれ、その魂を受け継いで走る――。
それが、彼女たちの運命。
あるウマ娘がいた。
彼女の名はマヤノトップガン。
彼女は退屈していた。
天才故にだった。
どう走ればレースに勝てるか、わかってしまうからだ。
彼女にとってレースとは解く前からわかっている問題を答えさせられているのと同じだった。
レースに出ても途中でやる気を失ったり、そうかと思えば気まぐれに勝ってみたり。
傍目からはクラシック戦線で主役に立つなど及びもつかない平凡なウマ娘にしか映らなかった。
そんな、ある日。
冬の終わり、春の訪れを感じる頃だった。
「どう? マヤノちゃん。見える?」
金網を掴んで背伸びをするマヤノトップガンにトレーナーが話しかける。
年若い女性だ。トレーナーというよりも、大学生の家庭教師のように見える。
「んー見えないよ~。トレーナーちゃん、肩車してぇ」
「ちょ、ちょっと……それは……」
「うそうそ。見えてるよ」
悪戯っ子のような笑みで見上げるマヤノトップガンにトレーナーは苦笑いする。
トレセン学園の慣例として新人トレーナーがクラシック戦線での活躍が期待される有力なウマ娘を担当することはない。
トレーニングもサボり、模擬レースにすら出してもらえないマヤノトップガンをトレセン学園側も実力を測りかねていた。というより、平凡か、それ以下かという評価に落ち着いていた。新人トレーナーが宛がわれたのもそういった事情があったのだろうが、実力以前に気まぐれな性情のマヤノトップガンに指導者として未熟な彼女は振り回され続けていた。
振り回し続ける張本人であるマヤノトップガンにとってはどうだったのかというと、迷惑をかけているという自覚はあったものの、この頼りないトレーナーを好ましく思っていた。他の新人トレーナーには担当ウマ娘の結果が出ない余り 責したり極端なローテーションを組む者も少なからずいた。マヤノトップガンのトレーナーはその点、彼女に対して無理強いすることなく、あくまでマイペースにいられるように接していた。
自分からレースに出たくなるように、こうしてレースに連れて来てくれた。そう理解しているからこそ、マヤノトップガンはここまで付いて来たのだった。
にわかに周りに人が増え、ざわざわと騒ぎ始める。マヤノトップガンはキョロキョロと辺りを見回す。
「なになに? どうしたの?」
「今日のメインレース、阪神大賞典が始まるんだよ。特に今日はね……ほら、入ってきた」
一人のウマ娘がコースに入場した瞬間、凄まじい熱狂が沸き起こった。
歓声が波のように押し寄せてくる。
思わず耳を塞ぎたくなるような大声援の中、彼女がいた。
分厚い。
そう見えたのは錯覚であり、続いてコースに入場したウマ娘たちと大きく変わらない体躯である。
存在感が違っていた。
生命の厚みが違っていた。
纏う空気の濃度が圧倒的に濃いのだ。
艶やかな黒鹿毛を一つに纏めた姿は、マヤノトップガンにとっての憧れである大人のウマ娘そのものだった。
金色の瞳はヒトでもウマ娘の物でもなかった。周りを睨めつけるそれは獲物を見据える獣のようだった。
マヤノトップガンがそのウマ娘を見初めた瞬間、細い背中を電流が走った。
彼女の名前は、ナリタブライアン。
前年の年度代表ウマ娘、中央競バ史上五人目のクラシック三冠ウマ娘だった。
『第三コーナーの坂を上ります。春の天皇賞でも上るこの京都の第三コーナーの坂。十番が内からジーッと内から差を詰めていった。十番のハギノリアルキング、何とも不気味であります。そして、第三コーナーに差しかかりました』
阪神大賞典も終盤に差し掛かっていた。
マヤノトップガンの目にはラチ沿いを走るハギノリアルキングが良さそうに見えた。小柄で地味な印象だったが長く使える脚を使えそうだった。距離が長ければ長いほどいいタイプのようだった。
阪神大賞典の距離、三千メートルは長距離に区分されており、ウマ娘が最大出力での無酸素運動を維持できる距離のほぼ限界に近い。どれだけ身体能力に恵まれていようとレースは極めて過酷なものとなる。そうなると勝負を決するのは、どれだけ勝ちたいと思えるか、諦めずに戦い続けられるか、という勝利を求め続けられる飢えや、精神力の強さになってくる。
マヤノトップガンにはハギノリアルキングには長距離を走り抜けられる執念深さを感じ取った。
何故そう感じたのかというとマヤノトップガン自身にとっても説明がつかない。
それでも、目を奪われるのは、やはり。
『さあ、ブライアン、スパートするか!』
ナリタブライアンが外から上がっていくと、マヤノトップガンの周りの観衆が波のように騒めき始める。
隣のトレーナーがぎゅっと強く金網を掴むのが見えた。
マヤノトップガンはスパートをかけるのはまだ早いのではないかと思った。
『もうたまらん、もうたまらんという感じでブライアンが行った。先頭に出た。さあ、ブライアン、ブライアン堂々と! ブライアンに陰り無し! 第四コーナーをカーブして直線に入った! さあ何でも来いという感じ!』
ナリタブライアンが直線に入る。マヤノトップガンはナリタブライアンの勝利を既に確信していた。
マヤノトップガンの興味はこのレースに誰が勝つかではなく、絶対にこのレースを勝つであろうナリタブライアンに自分であればどう勝つかに移っていた。
やはりハギノリアルキングの位置取りと脚色が良い。
もし、自分がハギノリアルキングだったら。マヤノトップガンは想像する。
ナリタブライアンの仕掛けは明らかに早かった。気性のせいか、判断ミスか、それとも絶対の自信があるのか、判断がつかなかった。
隙を突くとしたらそこだった。二千八百メートル、二千九百メートルで勝てなくても、三千メートルで差せる走りさえできればいい。
先頭に躍り出たナリタブライアンが、首を下げた独特のフォームに変じると、纏う空気の密度が更に濃厚になる。
強い粘性を帯びた大気の中で他のウマ娘が藻掻く中、ナリタブライアンだけが風を切り裂いて進んでいるように見えた。
加速力が違いすぎる。速度の絶対値が違いすぎる。
『ブライアン先頭! ブライアン先頭! 大歓声を受けて差が開いた、開いた、開いた、開いた! 差が開く、開く、どんどん差が開く、開く!』
ハギノリアルキングはもういっぱいいっぱいになっている。
なら自分ならどうか。マヤノトップガンはまだわからない。
どこで仕掛けるか。どれだけの距離を保てば差しきれるか。マヤノトップガンは必死に考える。
ナリタブライアンのロングスパートには途切れる気配がない。末脚を使っても追いつけるとは思えない。
ぞくり、とマヤノトップガンの小さい背中が粟立った。
どうやっても、ナリタブライアンに勝つ方法がわからない。もしくは、存在しない。
そんな筈はないと、残り二百メートルで仕掛けることを想像した。
すると。
『さあ、ブライアン春の天皇賞向かって独走ッ! 春の天皇賞向かって独走ッ!』
ナリタブライアンは更に首を下げた。
まるで、欧州の超高級のスーパーカーか、獲物を捕えんと唸る餓狼のような構えだった。
マヤノトップガンは無意識の内に捕食者と同じ檻に入れられた小動物の様に尻尾を股の下に隠し、ウマ耳を絞った。
ナリタブライアンの五体が躍動し、黒鹿毛の艶やかな髪と金色の瞳が残像を糸のように残しながら、疾走した。
強靭な脚が芝生に叩きつけられる度に芝のついた土塊が宙を舞い、爪を立てられた悍ましい傷跡がコースに残った。
どう勝つかなんて考える事も忘れていた。息をするのすら忘れていた。
ウマ娘はこんなにも早く、速く、疾く、走ることができるのか。
暴力的なまでに鮮烈、目を奪われるほどの獣性。
ナリタブライアンは風を切り裂いているのではない。漆黒の風そのものだった。
大気が悲鳴をあげて巻き起こった風が衝撃になり、マヤノトップガンの全身を強く叩いた。体中を痺れが走り、細胞という細胞が目醒め、その後、熱かった。
初めての感覚。
本当のレース。
本物。
まだ誰も解けないパズル。
投げかけられた難問。
理外に存在する者。
これが、ナリタブライアン――。
『さあ、ブライアンだ! ブライアンだ! 文句なし! ブライアンに陰り無し! ブライアンに陰り無し! 今年もブライアンだッ!』
GⅡとは思えないほどの大歓声が大気を震わせていた。
大差でゴール板を駆け抜けたブライアンは、ゆっくりとスピードを落としていき、やがて足を止めた。
ナリタブライアンの全身から生命力そのものが陽炎のように立ち上る。
永遠に自らを灼く太陽のように、燃え続けていた。それはナリタブライアンの底なしの強さの表れの様にも、燃え尽きることが出来なかった燻りの様にも見えた。
ナリタブライアンの金色の目が胸の裡で満たされない濃い感情を隠せない鋭い眼差し。共に走ったウマ娘や観衆だけでなく世界そのものを、不満を訴えるように睨み付けていた。
その不満の正体は何なのだろうとマヤノトップガンは思う。
全力を出し切れなかった不完全燃焼。
思うようなレースが出来なかった自己嫌悪。
それとも。
ナリタブライアンの視線が自分自身に向けられている気がしてマヤノトップガンの頭から爪先まで太いものが貫いた。
その鋭い眼光が言っていた。
――お前はいつまでそこにいる?
そう、ナリタブライアンの不満は。
――私は、ここにいる。
絶対の強さゆえの、孤独。
やはりナリタブライアンが自分を見つめていたというのは錯覚だったのか、すぐに踵を返してコースから離れていった。
だが、黒い衝撃を浴びてしまったから。
もう戻れない。
「トレーナーちゃん」
「ナリタブライアン凄かったねぇ~……えっ、何?」
不意に呼びかけられ、トレーナーが振り向く。
マヤノトップガンの視線の強さに、トレーナーがたじろいだ。
マヤノトップガンは決然と宣言する。
「マヤは、ブライアンさんと走る」
マヤノトップガンはそれ以来、ナリタブライアンの幻影を追いかけ続けた。
嫌っていた地味な基礎トレーニングを、トレーナーに言われた倍以上にこなした。誰よりも早く練習場に来て、誰よりも多く練習した。
目指したのはナリタブライアンとの対峙。出来うる限り最速で決闘の舞台に辿り着く事だった。
マヤノトップガンは皐月賞、日本ダービーには出走出来なかったが、菊花賞を勝ち抜き晴れてGⅠウマ娘になった。
ナリタブライアンが出走するシニア級ウマ娘にとって最高の舞台、有馬記念への切符を手にしたのだ。
だが、好事魔多し――。
ナリタブライアンはマヤノトップガンが目にした阪神大賞典のすぐ後に、屈腱炎を発症し、かつての強さを失ってしまった。
マヤノトップガンとナリタブライアンの最初の戦いの舞台、有馬記念ではマヤノトップガンの強風の中の逃げという奇策により勝利する。
そのレースでナリタブライアンは最後の直線で伸び悩み、四着に終わった。
こんな勝利を望んでいたんじゃない。
マヤノトップガンは叫びたかった。何かそう訴えたかった。
そうして。
そんな思いを抱えたまま時は過ぎて。
季節は冬の終わり、春の訪れを感じる頃。
あの黒い風に触れた阪神大賞典から一年が経とうとしていた。
偶然か、それとも意図したものか、マヤノトップガンは阪神大賞典のレースの出走を決意する。
後に、中央競バ史上に残る究極のマッチレースが繰り広げられたことで伝説になったレース。
第四十四回阪神大賞典である。