「マヤノちゃん。マヤノちゃん」
本バ場に入る直前の控室で、トレーナーがマヤノトップガンに声をかけた。
「なに? トレーナーちゃん」
「作戦会議をしよう」
「作戦会議?」
小首を傾げたマヤノトップガンが答えた。
今から走ろうとしていたマヤノトップガン以上にトレーナーの方が明らかに緊張していた。
「今回のレースはナリタブライアン以外のメンツなら、マヤノちゃんならどう走っても簡単に打ち取れると思う。今回の相手はナリタブライアンとの勝負になるはず。ナリタブライアンは言わば、四番打者。ストレートで真っ向勝負するのはカッコいいけど、綺麗に打ち返されるかもしれない。マヤノちゃんの持ち味はやっぱり変化球だと思うんだよね。変化球でナリタブライアンの走りをかわしていく走りをしていこう。これまで勝ったのと同じようにね」
「ほうほう」
「この阪神大賞典は言わば天皇賞春への前哨戦だから。そう考えると、恐らく今回と同様にナリタブライアンとの一騎打ちが予想される天皇賞春への見せ玉として二着を狙う手もあるよね」
「ほうほうほう」
マヤノトップガンは腕を組み、納得したように何度もうなずいた。
その仕草を見てトレーナーも安心したのか、額の汗を拭った。
「ど、どうかな、マヤノちゃん。参考になったかな。あっ、ていうか、これ作戦会議だから、マヤノちゃんも意見とか質問があったら、ぜひ言ってみて!」
「じゃあ、トレーナーちゃん」
「うん!」
「マヤ、野球やった事ないから全然話わかんな~い」
「うんうん……えッ?」
一瞬、言葉の意味が理解できなかったのか、トレーナーが固まった。優し気な笑顔が張り付いたまま、みるみる内に顔色が青ざめていく。
そして、マヤノトップガンは口元に笑みを浮かべた。
不敵な笑みだった。
「でも、トレーナーちゃんのお話でわかったことが一つだけあるよ」
「わ、わかったこと……?」
「真っ向勝負するのは、カッコいいってこと!」
「ヒェ……」
トレーナーの喉笛から小さく悲鳴が漏れ出る。上目遣いで小首を傾げて見せるマヤノトップガンの前でただ脂汗を流す事しか出来なかった。
「あっ、時間だ。行ってくるねっ、トレーナーちゃん!」
マヤノトップガンは元気よくトレーナーに手を振り、踵を返した。
栗毛の豊かな髪と尻尾がそれに伴ってふわりと揺れる。
振り返る瞬間、琥珀色の瞳が輝きを放っていた。
マヤノトップガンがナリタブライアンと出会った日と同じ強い光だった。
マヤノトップガンは今まで、奇策を用いて強敵を打ち破ってきた。世間からもナリタブライアンのように真っ向から勝負するのではなく、変幻自在の脚質を活かした勝負師として見られていた。トレーナーも同じ見解だった。
だが、トレーナーの目から今のマヤノトップガンは、ナリタブライアンと真正面から戦いたがっているように見えた。
もし自分の言葉が、マヤノトップガンにとって不利なレース展開を促すことになってしまったら。
「あわわ……」
トレーナーはマヤノトップガンのいなくなった控え室で頭を抱えるしかなかった。
マヤノトップガンが阪神競バ場の本バ場に入ると、大観衆の声援が出迎えた。
振り返ると去年よりはるかに多くの人だかりが見えた。重賞とはいえ、土曜日開催のGⅠレースの前哨戦である阪神大賞典にこれほどの入場者数が集まるのは異例である。
このレースを選んだマヤノトップガンは意識していなかったが、前年度の年度代表ウマ娘になり今一番脂が乗っているとみなされているマヤノトップガンと、前々年度の年度代表ウマ娘でありクラシック三冠ウマ娘のナリタブライアンの対決を一目見ようと集まったファンが多かったのだ。
もちろん、マヤノトップガンのファンもいるのだが、その数はナリタブライアンのファンほどではない。
クラシック期に史上最強ではないかと噂されながら、故障で精彩を欠いていたナリタブライアンの復活の舞台はここしかないと多くの人々が固唾を飲んで見守っていた。
いつの間に、自分とナリタブライアンのレースにこんなに人が集まるようになったのか。
昨年、観客席側からナリタブライアンの走りに魅せられていた所から随分遠い所に来てしまったものだと、マヤノトップガンは空を仰ぎ見た。
空が広かった。
マヤノトップガンと空の間を隔てるものは何もない。
天上まで続くダークブルーのキャンバスには、雲一つなかった。
この天気、このバ場なら、実力が十分出せる。そして、それはナリタブライアンにとってもそうだった。
更に大きな歓声がマヤノトップガンの身体を打った。このレースのもう一人の主役が現れたのだ。
マヤノトップガンは空を仰いだまま目を閉じる。そして、ウマ耳を動かした。
芝の感触を確かめるように一歩一歩踏みしめる音が聞こえた。重賞という舞台で、いかにこのレースを走りぬくかを考えているに違いない。何度も重賞を走り、勝ち抜いてきた者の歩みだった。
しかし、一定の歩みの中にほんの僅かなノイズが混じっていた。怪我した脚を庇っているような歩き方。
その音がマヤノトップガンの近くまで来て止まった。
マヤノトップガンは言った。
「ブライアンさん、ちゃんと来たんだ」
マヤノトップガンが視線を向けた先で、ナリタブライアンがくくと笑っていた。どこか自嘲めいた笑みだった。
「私が逃げ出したとでも思ったか?」
マヤノトップガンは首を振った。
「ううん。でも、昨日、ブライアンさんが思い詰めていたみたいで……」
「実は、今日の朝までは逃げ出そうかと迷っていた」
冗談に聞こえなかった。なによりも冗談でナリタブライアンはこんなことを言わない。
知らず、マヤノトップガンは握り締めた手のひらに汗が滲むのを感じた。
「でも、来てくれた」
打ち消すように、マヤノトップガンはそう返した。
「ああ。だから、もう逃げない。……昨日、私が言った事を覚えているだろうな?」
「うん。でも……」
「このレースが終わるまで忘れるな」
そう言って、ナリタブライアンは自嘲めいた笑みをやめた。
代わりに、強い眼差しがあった。
一年前、レースに圧勝して周りに不満をぶつけるように睨めつけていた、金色のあの目。
餓狼の瞳。
ぞくり。
強い視線が身体を通り抜けた。それが恐怖だったのか、喜びなのか、マヤノトップガンには判らなかった。
「私が逃げ出してしまわないようにな――」
そう言い残してナリタブライアンは踵を返してアップを始めた。
マヤノトップガンとナリタブライアンの間を熱い風が吹いていった。
『新旧の年度代表ウマ娘が顔を揃えました、阪神大賞典、GⅡ、芝の三千メートル――』
次々とゲートに入っていくウマ娘を見ながら、マヤノトップガンは胸の高なりを感じていた。
『ここで復活を見せることが出来るのか、ナリタブライアンには正念場のレースとなります」
マヤノトップガンにとって不安要素は寧ろ自分ではなく、ナリタブライアンだった。
密かにマヤノトップガンがナリタブライアンを盗み見ると、落ち着いているようだった。
ナリタブライアンの故障の程度はマヤノトップガンには深くはわからない。だが、少なくとも万全の状態でないことは確かだ。
昨年の有馬記念で既にマヤノトップガンはナリタブライアンに勝利している。
調子の落ちたナリタブライアンに勝つことに興味はなかった。昨年の阪神大賞典で見た本物のナリタブライアンと戦いたかった。
マヤノトップガンがゲートに入る。その後、出走者全員がゲート内に収まった。
シンと観客席が静まり返り、風の音だけが聞こえて。
『各ウマ娘ゲートに収まり――』
ゲートが開いた。
『スタートしました!』
考える前に、弾かれるようにマヤノトップガンの脚が動いた。感覚派であり、何に対してもその天才性を発揮するマヤノトップガンでも、才能だけではこれほどのスタートは切れない。トレーナーから課せられた日々の基礎練習の賜物である。マヤノトップガンの華々しいまでの才をトレーナーの説く地道なトレーニングが支えていた。
『ナリタブライアン、好スタート! 他のウマ娘たちも揃ってスタートを切っています!』
重賞レースだけあってスタートは他のウマ娘もマヤノトップガンに負けていなかった。特にナリタブライアンのスタートは抜きんでていた。
これでもし、本調子であったなら。
マヤノトップガンの胸に微かな陰りが過るが、詮無いことだと芝を蹴って打ち消した。今は目の前のレースに集中しなければならない。
スタート直後は先頭に立ったナリタブライアンだが、逃げを得意とするウマ娘、スティールキャストが追い抜いていく。だが、狙い通りだろう。ナリタブライアンは中団につけた。
ならば。
『昨年の有馬記念覇者マヤノトップガン、快調に飛ばしてナリタブライアンを交わしていきます』
ナリタブライアンの前方についてプレッシャーをかけていく。マヤノトップガンの十八番は先行して他の出走ウマ娘に自分の走りを印象付けて自在に展開を操る勝負師の走り。そうやって、菊花賞と有馬記念を勝ってきた。その自負があった。
大歓声と春風を切り裂いてマヤノトップガンは走った。
スローペースだった。このペースで走れば最後まで持つ。
マヤノトップガンは七分八分の出来だというのがトレーナーと戦前の自身の見解だったが思ったより脚の調子はいい。蹄鉄越しに芝の柔らかさ、温度、匂いまで判る。素足で草原を踏みしめているような感覚。
ギアを上げて最高速にまで持っていきたいのを我慢する。三千メートルの長丁場を走り抜けるのは、身体だけじゃダメだ。頭を使って、心も強く持たなければいけない。焦らず、冷静に。
そうして、展開は動かず一団は二周目の第三コーナーに差しかかった。マヤノトップガンは前から四番手、ナリタブライアンは六番手につけていた。
背後のナリタブライアンが行きたがっているのがわかった。
一年前の阪神大賞典でも、ナリタブライアンは早くに行きたがっていた。
その理由をやっとマヤノトップガンは理解できた。
作戦なんかじゃない。焦ってるわけでもない。
真っ向勝負がしたいだけだ。
真っ向勝負でなければ、本当の飢えは満たせない。
だから、やる。
それが、三冠ウマ娘の、ナリタブライアンの矜持なのだ。
では、自分はどうするのか。
マヤノトップガンは考える。
マヤノトップガンの天才が、二つの選択肢を用意する。
ナリタブライアンに先立ってロングスパートをかけるか、もう二呼吸置いてナリタブライアンを先に行かせてからスパートするか。
ナリタブライアンに先立てば必ず彼女はマヤノトップガンを追い抜こうと勝負根性を使って限界以上の力を発揮してくるだろう。言わば、真っ向勝負だ。
だが、もう二呼吸だけ置けばナリタブライアンは勝負根性をスかされて、三千メートル丁度で差し切れる。今のマヤノトップガンにはその精密な走りが、出来る。これはトレーナーが示した変化球の走りだ。
だから、二つの選択肢があろうと、マヤノトップガンが選ぶべきなのは後者しかなかった。
だが。
――昨日、私が言った事を覚えているだろうな?
マヤノトップガンはナリタブライアンの言葉を思い出す。
昨日、夕陽の中で、ナリタブライアンと交わした約束を。
その瞬間。
『スティールキャストが逃げるッ! まもなく最終第三コーナーのカーブ! おおっと! さあ動いた! ここでマヤノトップガンが仕掛けた! 昨年の年度代表ウマ娘! ロングスパートで一気に先頭へ躍り出た!』
クラッチを踏むように芝を踏み、シフトレバーを変えるように腕を振り、ペダルを踏むように芝を蹴り上げる。
マヤノトップガンはギアを変えて、加速する。栗色の長い髪と尾が地面に対して平衡に靡いた。
歓声が、風の音が、より激しくなる。
『そしてッ! そしてッ! ナリタブライアン! ナリタブライアンも行った! 追うようにナリタブライアンも仕掛ける! スーッとマヤノトップガンの外へ行った!』
マヤノトップガンは隣に太い存在感が迫るのを感じた。
猛獣と同じ檻に入った感覚。
吹き荒ぶ風が、唸り声に変わる。
背筋を熱いものが走る。
全身から汗が滲む。
琥珀色の瞳が強く輝き、人形のように整った口元に獰猛な笑みが浮かんだ。
『ナリタブライアンとマヤノトップガンが先頭に立った!並んだまま第四コーナーをカーブ! 後続との差が開いていくッ! マヤノトップガンとナリタブライアン! 完全に二人のマッチレース! 年度代表ウマ娘二人の! 世紀の一騎打ちになったッ!』
――マヤノトップガン。
何者からか、鋼鉄の猛禽を操る精鋭の名を与えられたウマ娘。
彼女は天才ではなく本能に従った。
ナリタブライアンという餓狼とのドッグファイトを選択した。