トップガンの軌跡   作:乾燥性海産由来物質

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次回以降は本での公開になるかも。


トップガンの矜持

 昨日のことだった。

 マヤノトップガンは夕暮れのトレセン学園の練習用トラックコースにいた。

 自分の練習のためではなかった。マヤノトップガンはいくら天皇賞春の前哨戦とはいえ明日レースを控えた身。午前中のストレッチのみで運動を抑えて疲労を抜くことに集中していた。

 視線の先で、一つの影がトラックコースを走っていた。

 マヤノトップガンはそれをじっと眺めていた。速さだけを見れば、トレセン学園にいる多くのウマ娘の平均を大きく超えている。スタミナもある。長距離レースを意識した走りだった。

 だが……と、マヤノトップガンは思う。

 そのウマ娘の全盛期を知っている者なら、誰もが物足りなく思う走りだった。

 覇気が感じられない走りだった。そのウマ娘がスパートをかける時の圧倒的な存在感、怖さがなかった。

 何かが噛み合わない走りのまま、細長く伸びた影が一周走り終えてマヤノトップガンに近づいてきた。

 それは信じがたいことに明日レースを控えた身であり、マヤノトップガンが良く知るウマ娘だった。

 ナリタブライアン。

 一時はシンボリルドルフを凌ぐウマ娘になると言われていたが、昨年の故障以来勝利から遠ざかっていた。

 ふらつきながらマヤノトップガンの前まで来た彼女の額に玉のような汗が浮かんでは、顎先からポタポタと落ちていく。肌寒い日だったのに。いつから走っていたんだろう。もしかしてずっとだろうか。マヤノトップガンの胸の内がざらりしたもので撫でられる。

 ようやく立ち止まり息を吐いてからナリタブライアンが言った。

「驚いたか? これが今の私の走りだ」

 冗談めかした口調だった。口元に自嘲めいた笑みが浮かんでいた。マヤノトップガンは答えようがなかった。

「昨年の阪神大賞典以来、故障で七か月の休養。満を持して臨んだ天皇賞秋で十二着の惨敗だった。悔し涙が出た。初めてのことだった。ジャパンカップは六着。そして、暮れの有馬記念ではマヤノトップガンの四着」

 ナリタブライアンは目を伏せた。せめて、睨み付けて欲しかった。マヤノトップガンはもっと強いナリタブライアンを見せつけて欲しかった。

「だから、明日の阪神大賞典は絶対に、もう負けられない。皆が私の復活を期待してくれている」

 茜色の西日が射して、ナリタブライアンの目鼻立ちの整った顔に深い陰影を作り出す。金色の瞳を湛えた鋭い目が煌々と夕陽を反射して見えた。

 マヤノトップガンは次に続く彼女の強い決意を待ち、ウマ耳をぴくんと立てた。

「だが……」

 ナリタブライアンの唇が震えていた。

 夕凪を掻き消すような乾いた風が、二人の間を強く吹き抜けていく。

「今の私が、マヤノトップガンに……勝てるのか?」

 絞り出すように吐き出された言葉に、マヤノトップガンのウマ耳が下がっていく。そして、俯いたナリタブライアンの膝が揺れているのがわかった。マヤノトップガンはそれがただ疲れているからだと思いたかったが、決してそうではないのだと気付いてしまった。

 あまりにも悲痛な姿に、マヤノトップガンの目頭が熱くなる。突き付けられた現実を拒むように、マヤノトップガンは強く首を振った。

「ブライアンさん、ね、座ろ。疲れてるんだよ……だから、ほら、そこに……べ、ベンチがあるからっ」

 ナリタブライアンは言われた通り、ベンチに座った。膝の揺れは収まらず、呼吸も荒いままだった。

 マヤノトップガンは近くでスポーツドリンクを買ってきて、ナリタブライアンの隣に腰かけた。

「悪いな」

 ペットボトルを受け取ったナリタブライアンの声は、今にも消えてしまいそうなほど弱々しかった。

 マヤノトップガンはそんな彼女の姿を見たくなかった。だが、目を反らしてはいけないと思った。断末魔のように赤い夕陽の中で、マヤノトップガンは弱りながらも逆風に抵抗するように歯を食いしばるナリタブライアンの横顔を見つめ続けている。

 肩でしていた息を整えた後、ナリタブライアンは大きく一呼吸して言った。

「みっともないところを見せたな」

「ううん……」

「ナリタブライアンがマヤノトップガンに怯えて震えていたと、吹聴してもいいぞ」

 マヤノトップガンは黙って首を横に振った。風がかさかさと遠くで木々を揺らす音が虚しく響いていた。太陽が山の間に沈み、心細くなるような赤が僅かに空に残っているだけだった。

「私は認めている。マヤノトップガンは今の私よりも強い」

「……」

「それでも走る。明日のレースに私は復活を賭ける。私には矜持がある」

「矜持……?」

 ナリタブライアンはスポーツドリンクを一気に飲み干して立ち上がった。

 一歩、二歩と前に進む足取りにふらつきは見られなかった。

 目を凝らすと、ナリタブライアンの纏う空気の濃度が変わっていた。マヤノトップガンは、その変化に思わず背筋を伸ばす。

 まるで別人だった。

 ナリタブライアンの背中が巌の様に大きく膨らんで見えた。

 あの日、阪神大賞典の時にナリタブライアンから立ち昇っていた生命力が、まだ彼女の奥底でくすぶり続けているに違いない。

 たとえ何度負けても炭の中でいつまでも生き続けた勝利への飢えは、息を吹きかけただけで烈火のように轟々と燃えあがりそうだった。

 薄明の中で、孤独なウマ娘への失望が孤高の怪物への畏れに変わっていく。

 ナリタブライアンは背を向けたまま言った。

「マヤノトップガン、私がお前という強敵を前にして悲鳴を上げて逃げ出すのかどうか、良く耳を澄ませておけ」

 一陣の風が吹いた。

 さっきまでとは違う、熱を感じさせる風だった。

 春の訪れを意味しているのか、明日のレースの激しさを予感させるものだったか、その時のマヤノトップガンには判別がつかなかった。

「これは約束だ。私とお前だけの――」

 そう。

 これが、マヤノトップガンがナリタブライアンと交わした約束だった。

 それぞれの思いを抱えて二人は今、ここにいる。

 そして。

 

『外ナリタブライアン! 内マヤノトップガン! 並んだまま! ピッタリと並んだまま最終第四コーナーをカーブするッ! ナリタブライアン! さあ、問題は直線! 問題の直線をどう走りきるのか! 阪神競馬場! ボルテージが最高に上がってきたッ!』

 おおおお、と観客席から割れんばかりの歓声が上がった。スタンドを埋め尽くした人だかりの期待感が爆発した瞬間だった。

 マヤノトップガンとナリタブライアンが電光石火の足さばきでカーブを切っていく。

 二人が大気を切り裂く音が甲高い音に変わっていく。

 既に尋常の勝負ではなかった。

 観客たちは二人の戦いに魅入られていた。

『ナリタブライアンか! マヤノトップガンか! トップガンか! ブライアンか! 昨年の年度代表ウマ娘と一昨年の年度代表ウマ娘! 二人が並んでいるッ! 完全にマッチレースになるのか!』

 最終直線に入り、観客席が間近に迫り、叫びの内容が聞き取れる。

 マヤノトップガンは自分の感覚が鮮明になっていくのを自覚していた。

「頑張れ! 蘇れ! ブライアン!」

「行け行け! マヤノーッ!」

 カーブを曲がりきって、マヤノトップガンは身体のギアを変えた。

 もう、ここに来たら技術も戦略もない。

 更に加速する為に、上体を低く沈める。マヤノトップガンの身体に力がみなぎっていく。マヤノトップガンの一瞥すれば華奢にすら思える肢体の中に潜む強靭な筋肉が、ただ前に進むために総動員される。

 背筋に起こったさざ波が背骨を通して、地面に対して平行に靡く尻尾の毛先まで走り抜ける。

 隣に並ぶナリタブライアンという熱の塊が、スパートをかけるマヤノトップガンに食らいつくように追いすがる。

 マヤノトップガンは思う。

 最終直線を走る時、本気を出せば誰も自分についていける者はいなかった。

 今までは。

 やはり、この人は。

 ナリタブライアンは、強い。

『ゴールまで残りあと二百メートル! ナリタブライアン! マヤノトップガン! この二人の競り合い! 先頭内からマヤノトップガン! 外からはナリタブライアン! 一歩もお互い譲らない!』

 マヤノトップガンは、最後の力を振り絞って前へ前へと踏み出した。

 だが、同時にナリタブライアンも前に出てきた。

 大歓声が二人の激闘を後押ししていた。

 二人が蹴り上げていく芝の条痕の草いきれのような匂いが焦げ臭いものへと変わっていく。

 まだゴールまで二百メートル残っているのに、昨年菊花賞の三千メートルで一着で走り抜けた時よりも脚を使ってしまった。マヤノトップガン自身がナリタブライアンとの真っ向勝負を望んだ結果だが、これほどの競り合いは予想の範疇を超えていた。

 まだゴールまで距離があるのに、心臓が張り裂けそうなほど痛い。全身に痛みが蓄積されていく。

 ナリタブライアンはこれほどのものなのか、とマヤノトップガンは思う。

 戦前は、調子が上がらない様子に心配していたが、全くの杞憂だった。

 心配しながら侮っていたのだと、マヤノトップガンは恥じていた。常識や、セオリーの枠に押し込めて考えていい筈がなかった。

 相手は、三冠ウマ娘。

 あの、ナリタブライアンなのだ――。

 それでも、先に仕掛け、内を通り、距離的有利を確保して、直線で抜け出したのはマヤノトップガンの方だった。

 知らず、走りの中で自身の有利を勘定し始めたのは、油断だったのかもしれない。

 マヤノトップガンの背に電流が走った。

 背後からの気配が増していく。まるで、あの日感じた、猛獣と同じ檻に入れられたような威圧感。

 漆黒の風と共にナリタブライアンがマヤノトップガンを差し返した。

『ブライアンが出た! ブライアンが出たッ!』

 斜め前に、黒い影が躍り出た。力強い背中だった。

 マヤノトップガンはその時、不思議な感動に震えていた。

 ナリタブライアンが昨日言った言葉を反芻する。

 矜持――。

 クラシック三冠ウマ娘は栄光と共に最強であり続ける重責を背負わされる。

 クラシック三冠を制して、有馬記念、阪神大賞典を圧勝した。

 その後、故障がかつての走りを奪い去っても、矜持は奪えなかった。

 負け続けても逃げなかった。

 そして、今この時、ナリタブライアンは真っ向勝負を自分に仕掛けてきている。

 マヤノトップガンは震えていた。

 最強のウマ娘を前にした恐怖。

 最強のウマ娘と戦う喜び。

 そして。

 

 ――ブライアンさんは凄い。流石は三冠ウマ娘だ。

 

 マヤノトップガンは琥珀色の瞳でゴールまでの道筋を睨みつけながら、歯を食いしばった。拳を強く握りしめていた。

 

 ――けど、マヤも……ッ!

 

『トップガンが出たッ! マヤノトップガンが更に差し返したッ! トップガン先頭ッ!』

 それは怒りだった。

 矜持を傷つけられた怒りがマヤノトップガンを押し上げていた。

 肉体も戦略を超えた戦いの中で最後にマヤノトップガンが頼ったのは最も彼女らしからぬ勝負根性だった。天から与えられた才能ではなく積み重ねてきた練習量、まだ身体が出来上がってなかった頃に重賞で惜敗した悔しさ、菊花賞、有馬記念で勝った喜びが脚を前に押し出した。

『ブライアンがまた出たッ! ブライアン! マヤノトップガン! ナリタブライアン! この二人が並んでいる! 並んでいる!』

「ブライアン! ブライアン!」

「マヤノ! マヤノ!」

 大歓声が更に高まる。まだ桜が綻び始めたばかりの季節の中で、息苦しくなってくるほどの熱気が阪神大賞典全体が湧いていた。

 ナリタブライアンは縺れ合うようにゴール板を通り過ぎる瞬間だった。

 マヤノトップガンは聞いた。

 耳を劈く獣の咆哮を。

 どこから聞こえたものか。

 自分の背後から、観客席から、或いは、眼の前のナリタブライアンの背中から――。

『内か外か! 並んだまま! 依然並んだままゴールインッ!』

 観客席からワァッと驚きに満ちた歓声が聞こえていた。レース場全体を揺らすような音の塊がゴールした二人を叩いた。

 勝敗は写真判定になっていたが、マヤノトップガンにはわかっていた。

 ゴールの瞬間、ナリタブライアンの背中が見えていた。

 たとえ僅かな差であっても、ナリタブライアンに負けた。

 ゴール板を超えてようやくレースの勢いが収まり、マヤノトップガンは脚を止めた。

 息ができない。心臓が爆発しそうだ。脚が燃えるように痛い。

 全身から生命力そのもののような熱さが迸っている。膝を掴んで身体を支えながら、なんとか息を整えようとする。

「はあーっ……はあーっ……」

 だが、呼吸が整わない。顎先から汗が滴り、芝の上に滴り落ちた。

 顔を上げると、天を仰ぎ立ち尽くすナリタブライアンが見えた。

 永遠に自らを灼く太陽のように、燃え続けていた生命力のようなものが消え失せていた。

 そこまで出し尽くしたのか、とマヤノトップガンは思う。

 翻って自分はどうか。あの時こうしてればだとか、そもそもトレーナーに逆らって真っ向勝負をすべきではなかったのではないかと、考えている。もう考えたところで結果は変わらないのに考えている。そんなよしなしごとを考える余裕があるのは完全には出し切っていないということで。

 自分は完全に負けた――。

 目の端から溢れた熱いものが頬を伝い、汗と共に芝の上に落ちた。

 

 俯きながら地下バ道へと戻っていくマヤノトップガンを、トレーナーが待ち構えていた。

 トレーナーの目元が赤かった。

 そうだ、トレーナーに考えてもらった策を使わず、負けてしまったことを詫びなくては。

「トレーナーちゃんっ……ごめ……」

 マヤノトップガンの言葉はトレーナーに掻き抱かれて途切れた。

「マヤノちゃん、凄かった」

「え?」

 マヤノトップガンは、トレーナーの腕の中に包まれていた。その力の強さに、マヤノトップガンは言葉を失う。

 トレーナーの声は涙に滲んでいた。

「あんなレース初めて見た……っ。本当に、本当に、最っ高のレースだった!」

 トレーナーの嗚咽に、マヤノトップガンも堪えきれずに大声で泣いた。

 そうして、二人は抱き合ったまま、しばらく泣いていた。

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