かくして、第四十四回阪神大賞典はナリタブライアンの勝利で終わった。
勝ったナリタブライアン以上に最強のウマ娘に挑み最後まで食らいついたマヤノトップガンの評価が高まることになった。
本番の天皇賞春は世紀のマッチレースを演じたナリタブライアンとマヤノトップガンに注目が集まったが、阪神大賞典での消耗激しくマヤノトップガンは最終直線で失速、ナリタブライアンも後ろからかわされてしまう。
結果は中山記念にて一年一ヶ月ぶりの勝利を果たしたサクラローレルの一着となった。サクラローレルにかわされたナリタブライアンが二バ身差つけられての二着。マヤノトップガンは後続に次々と抜かれ五着に沈んだ。
その後、ナリタブライアンはついに屈腱炎が原因となり引退してしまった。
仕方のないことかもしれない。
どんなウマ娘にだって等しく、現役引退の時は来る。
ただ――。
ナリタブライアンは満足出来たのだろうか。
それだけがマヤノトップガンにとっては気がかりだった。
本人に直接聞くのも憚られて、ただ悶々とした思いを抱えながら、宝塚記念に向けてマヤノトップガンは夕陽に照らされた土手を走り続けていた。
あの阪神大賞典の後、大きな変化があった。マヤノトップガンの走りに感動した二人の後輩が、同じチームに加わる事になったのだ。
その後輩たちがマヤノトップガンの前を走っていた。
「はっ……はぁっ、くっ……」
マヤノトップガンが追いかけるものの、次第に離されていく。二人はジュニア級にエントリーする以前の新人であり、本来ならばマヤノトップガンが遅れを取るなどあり得ない相手である。
原因は、マヤノトップガンのつけたリストウェイトとアンクルウェイトである。
ウマ娘用のそれは一番軽いものでも人間用のもののとは比較にならない程の重量に出来る。マヤノトップガンのものは錘を取りつけられる余地がまだあるものの、既に人間が装着すると脱臼か骨折してしまう程の重量がついていた。
泥の中を進んでいるような感覚。足を上げようとする度に全身の筋肉が悲鳴を上げる。汗が目に入り、夕暮れの河川敷の景色が滲んで見えた。それでも走らなければという想いだけで、マヤノトップガンは歯を食いしばって走り続けた。
そうして、ようやく木陰で休む後輩たちに追いつき、ふらふらと木に項垂れかかる。
「はぁ、はぁっ、はぁぁぁ……マヤ、ちょっときゅうけーい……」
「お疲れさまです。マヤノトップガン先輩」
後輩のウマ娘がタオルを差し出してきた。眼鏡をかけており見た目通り真面目で精密機械のような走りが信条のウマ娘であった。
「お疲れ様っス! マヤ師匠!」
もう一人の後輩のウマ娘が深々とお辞儀をしていた。いつもジャージの上に『闘魂』と書かれた道着を羽織っている。
眼鏡のウマ娘が汗の止まらないマヤノトップガンにスポーツドリンクを手渡した。
「ありがとーっ! マヤ、もらっちゃうねっ」
マヤノトップガンは喉を鳴らして一気に飲み干すと、大きく息を吐いてから木の根元を枕にして横になった。
上を見ると広がった枝葉が茜空を背にしてまるで影絵のようになっていた。
道着のウマ娘がストレッチをしながら話しかける。
「マヤノ師匠ぉ」
「んー?」
「マヤノ師匠って、ナリタブライアンさんが引退したからもう誰も勝てないのに、そんなに頑張ってトレーニングしないといけないんスか?」
「この前の天皇賞春はローレルさんに負けちゃったよ?」
「サクラローレル先輩は……まあ、強い勝ち方だったスけど、ガラスの脚らしいし……。マヤノ師匠も疲れてだけっス! 無茶な特訓しなくても今度は絶対に勝てるっス!」
「そうかなぁ……」
自信満々な道着のウマ娘の言葉を聞いて、マヤノトップガンは考え込む。
ナリタブライアンがレースの舞台から去ってしまった今、負けたとはいえサクラローレルにそこまで勝ちたいと自分は考えているのだろうか。トレーナーに課せられた以上のトレーニングをトレーナーに内緒で続ける意味があるのか。
マヤノトップガンはどうして今こうしているのか、今更考えている。
天皇賞春で負けたからといってサクラローレルを恨んでいるわけではない。あの日、自分は阪神大賞典の疲れが取れず五着だった。サクラローレルでなくてもナリタブライアンが一着を取っていただろう。
だから、サクラローレルを負かしてやろうというのではない。
サクラローレルが嫌いだというわけではない。
それでも、一着でゴール板を通り過ぎたサクラローレルと遅れて二着だったナリタブライアンの背中が網膜に焼き付いていた。それを思い出すだけで胸の奥で不快な疼きが湧き上がる。
いつもは思いつきであらゆるものに正解を引き当ててしまうマヤノトップガンだったが、自分の気持ちをうまく表現できない。
自分の、自分だけの感情なのにそれを言い表すような言葉を持ち得なかった。
思考を巡らせていると、後輩二人が話しているのが聞こえてきた。
「マヤノトップガン先輩には私達には及びもつかない深謀遠慮があるんですよ。貴女にはそれがわからないの?」
「でも、トレーナーに黙って重りつけて走るのは危ないじゃないスか。リストウェイトとアンクルウェイトで得られるパワーや瞬発力は、マヤノ師匠にはそこまで必要とは言えないっス。ゲート難もないしもスタミナも十分なんだから前につけて長く良い脚を使う方が……」
「無駄な筋肉など存在しません。貴女、前から思っていたんですけど、グダグダ理屈捏ねるのやめてください。服に闘魂とか書いているくせに」
「そっちこそ真面目そうな振りして、脳筋すぎるっス」
「は?」
「何スか」
「……ウオーッ!」
「ワーッ! ヤーッ!」
ついに取っ組み合いを始めた二人を見て、マヤノトップガンは思わず笑ってしまう。
「わっ、笑っている場合じゃありませんよ、マヤノトップガン先輩! こいつ本当に腹立つんですから!」
「そ、そうっス、マヤノ師匠! 止めて欲しいっス!」
マヤノトップガンは勢い良く立ち上がって、背伸びをした。二人の方を見るとお互いに胸倉を掴んでほっぺを引っ張り合っていた。
「よーし、じゃあまたランニングさいかーい!」
「あっ、えっ、待ってくださーい! マヤノトップガンせんぱーい!」
「自分もついていくっスー!」
マヤノトップガンは夕陽に向かって風を切りながら再び走り出す。
道着のウマ娘が言ったトレーニングの矛盾に対して、マヤノトップガンは殊更に言い返さなかった。マヤノトップガン自身も感じていた矛盾だったからだ。
ただ、それでも。
いつか必要になるという予感だけがあった。
そうして、春のGⅠ路線最後のレース、第三十七回宝塚記念の日がやってきた。
有馬記念に並び立つグランプリレースである宝塚記念だが、今回は多くの有力ウマ娘が回避していた。
ナリタブライアンは引退。サクラローレルは既に秋のGⅠ路線に向けて調整に入り、ヒシアマゾン、ステイヤーとして名を馳せたステージチャンプが離脱する状況で、実力も実績もマヤノトップガンが一歩抜きん出ていた。
『第三十七回宝塚記念、各ウマ娘ゲートに入ります』
「トレーナー、マヤノトップガン先輩の様子はどうでした?」
混雑に揉まれながら指定席まで来たトレーナーに眼鏡のウマ娘が声をかける。トレーナーは初夏の暑さの中で既に汗だくになっていた。
トレーナーは額の汗を拭いながら答えた。
「マヤノちゃん、落ち着いてるみたいだった。かえって私の方が緊張しちゃって……ダメだなぁ、全然慣れないや」
「GⅠレースなのに、落ち着いているなんて……流石です!」
「宝塚記念はギリギリ梅雨かそうでないかぐらいの時期なのに、今日は快晴っス! マヤノ師匠の実力を活かせる絶好のバ場っスよ!」
普段はいがみあっている後輩ウマ娘二人だったが、尊敬するマヤノトップガンの晴れ舞台では意見が一致しているのか、手を取り合い、尻尾を振ってはしゃいでいた。そんな中、トレーナーはマヤノトップガンを心配そうに見つめ、拳を強く握りしめていた。
それに気付いた道着のウマ娘が尋ねた。
「どうしたっスか、トレーナー。何か不安要素でも?」
「……二人とも気付いていると思うけど、最近、マヤノちゃんの走りがピリっとしてない感じがしてね。トレーニングパートナーと併せて走る時も、学年下の子に勝ってもギリギリなことがあるし、何より、マヤノちゃんの同室のテイオーちゃんに聞いたんだけどね、トレーニングから帰ってきたマヤノちゃんはすぐに寝込んでしまうって聞いて……。前とトレーニングメニューはそんなに変えていない筈なのに、何かマヤノちゃんのことで見落としがあるのかな……?」
不安げな様子で話すトレーナーに対し、道着のウマ娘は生唾を飲み込んで目を反らした。
「あー、えー、そうっスね……。マヤノ師匠は一つ一つのトレーニングを真剣にやってるから、余計に疲れているだけっス。レース本番に向けてちゃんと管理しているから、今日は本領を発揮できる……はずっス……。あっ、それにほら、今はマヤノ師匠、調子よさそうじゃないスか!」
三人の視線の先に、ゲート前で準備運動をしながら順番待ちをするマヤノトップガンの姿があった。
ぴょんぴょんと跳ねる姿からは、練習の時に垣間見せた鈍重な雰囲気は微塵もない。ジャンプに合わせてドッグタグとモスグリーンのジャケットが軽やかに揺れていた。
出走者の誰よりも小柄な筈のマヤノトップガンが放つ存在感がとてつもなく大きなものに見えた。
『マヤノトップガン、非常に順調ですね。ファンファーレに合わせてこうステップを踏んでいましたが、印象的。さあ、一発やってるやるぞという闘志のようなものを感じました』
トレーナーは安心したように頷いた。
「うん、うん……そうだね。私がマヤノちゃんのことを信じなくちゃ……!」
「そうですよ、トレーナー! マヤノトップガン先輩が不調に見えたのにはちゃんと理由があるんですから!」
「は? ちょ……なに言ってんスか」
「えっ、なになに? 理由?」
興味深げに首を傾げるトレーナーに、眼鏡のウマ娘が胸を張って答えた。
「マヤノトップガン先輩は! なんと! おもり……ムグッ!」
「アー! アー! 何でもないっス、トレーナー! なんか、こいつ、マヤノ師匠が急におもちを食べたくなったと勘違いしちゃったみたいで……!」
突然、道着のウマ娘が眼鏡のウマ娘の口を抑え始めたせいで、トレーナーは唖然とするしかない。
もぞもぞと目の前で担当ウマ娘たちが暴れているのを交互に見た結果、必死に答えをひり出そうとしていた。
「つ、つまり、マヤノちゃんは……もうすぐ夏なのに、お正月からおもちを食べ続けている……ってコト?」
「おもちなんかじゃなくておもり……ムグーッ!」
「そ、そうっス……! マヤノ師匠はおもちが好きっス!」
「な、なにもちを……」
「……きなこもちっス」
「きなこかぁ……」
「むぐーっ! むぐーっ!(プリティーなマヤノトップガン先輩はきなこもちなんて食べない!)」
一際暴れる眼鏡のウマ娘を押さえ込んでいる内に、出走者全員がゲートに収まり、そして。
『さあ、いよいよスタートです』
宝塚記念のゲートが開いた。