トップガンの軌跡   作:乾燥性海産由来物質

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トップガンの憂鬱

『スタートしました!』

 ゲートが開いた瞬間にマヤノトップガンはスタートを切った。

 マヤノトップガンはいつもの通り、前から行くために先行争いに加わった。

『揃って飛び出した十三人です。ご覧の通り……緑一色の阪神競バ場に十三人が進んでまいります。今年もあなたの、そして、私の夢を背負い走る十三人』

 初夏の芝コースは陽の光を受けて青々と輝いていた。

 宝塚記念は梅雨と夏の狭間の季節に開催されることもあり重バ場になることも多かったが、天上まで青く晴れ渡った空の下、芝がしっかりと乾いていた。マヤノトップガンにとって願ってもない状態だった。難なく前から三番手の位置につけていた。

『先行争いカネツクロス、マヤノトップガン、おっとレガシーワールドが上がってまいりました』

 思った通りの好位置につけたマヤノトップガンは、序盤はまず、周りのウマ娘の脚色を確認する。

 自分より前を進む二人をじっと見つめた。

 一番前にいるカネツクロスは逃げでの連勝で知られたウマ娘だった。それに続くレガシーワールドは最近調子が上がらないもののジャパンカップ一着の輝かしい実績を持つウマ娘である。

 更にウマ耳を後ろに向けると現在好調のサンデーブランチ、オークスで勝利し菊花賞でマヤノトップガンと共に走ったダンスパートナーの足音がした。

事前にトレーナーから聞いていた情報の通り、そういったメンバーの脚色が良さそうだった。

 戦前の下バ評では手薄なメンバーとはいうものの、それでもGIレースということで実力のあるメンバーが揃うことになった。

 そんな中でも特に注意しなければならないのがこの二人のどちらかだと思った。

「……よし」

 マヤノトップガンは気合を入れ直して、先団に取り付く。出走者達の集団がバラけてきた。それぞれのペースで淀みなくレースが進んでいく。思った通りの展開だった。

 背後からピリピリとした視線を感じた。先団を威嚇するように芝を蹴り上げる音が聞こえた。

 ダンスパートナーのものだった。

 彼女は、オークスを日本ダービーよりも速いタイムで勝利している。単純にタイムの速さで比較は出来ないが同世代のダービーウマ娘よりも高い評価をされており、この時代においては同世代でマヤノトップガンに比肩し得るのは彼女くらいだと認識されていた。

 菊花賞以来のマヤノトップガンとの再戦に挑む彼女にもこのレースには期するものがあるのだろう。

 だが、とマヤノトップガンは思う。

 第三コーナーまで来て、彼女よりも誰よりも自分の脚が残っているのを感じていた。

 他のメンバーもかなりきつそうだった。

 二番手で進んでいたレガシーワールドの脚が残り千メートルの時点で、先団に取り付いているのが難しくなっている。

 勝利を目前にしてもマヤノトップガンの心臓は高まることがない。

 あの、阪神大賞典のようには。

 そこでマヤノトップガンは気付いてしまう。

 このレースに欠けているものを。

 あのひりつくような緊張感がない。手負いでありながら限界を越えて咆哮した餓狼の放つ圧迫感を欲していた。

 絶対に一着が欲しいと願わせるほどの相手がいなかった。

 第三コーナーを目前にして、マヤノトップガンは胸に灯っていた筈の火が小さく揺らぎ始めるのを感じた。

『おおっと、マヤノトップガン、抑えきれない感じで二番手に上がった』

 歓声が上がるのをマヤノトップガンは聞いていた。

 違う。

 そう言いたかった。

 先行していたレガシーワールドが後退し、マヤノトップガンが押し出される形になっただけだった。

 一番手で逃げていたカネツクロスの背中が目前に迫る。

 マヤノトップガンにとって全く無理のないペースでここまで来ていた。

 後続にはマヤノトップガンをさせるだけの瞬発力の末脚は残っていない。

 この時点でマヤノトップガンの勝利が確定していた。

 勝てる。

 だが、勝てるから勝つのか。

 勝ちたいから勝つんじゃないのか。

 勝っても、もうナリタブライアンとは戦えないのに、勝つ意味はあるのか。

 じゃあ、負けるのか。

 違う。

 負けていいわけじゃない。

 勿論、勝つことは無意味なんかじゃない。

 阪神大賞典の時にトレーナーが泣いていた理由をマヤノトップガンは聞いたわけじゃなかったが、自分と同じように悔しかったからだと思っている。トレーナーの言う通りにしていれば勝てたものを、ああしてナリタブライアンに真っ向勝負を挑んだせいで負けてしまった。申し訳ないと感じていた。それに、自分のレースを見て憧れて同じチームに入ってくれた後輩たちの期待に応えたかった。

 でも、勝つことに意味があったとしても、それは目的そのものじゃない。

 なら、どうするのか。どうしたいのか。

『マヤノトップガン二番手! トップガン二番手! 堂々たる勝利を収めるのか!』

 迷ううちに、目前まで迫ったカネツクロスがもう限界とばかりにマヤノトップガンのすぐ近くまで来てしまった。

 もう自分自身の問いに答えないといけないその時、マヤノトップガンの選択は――。

 

『さあ、トップガン先頭に立つのか!』

 集団が最終直線に突入する。

 先頭はマヤノトップガンだった。

 トレーナーと後輩のウマ娘たちの周りから俄かに歓声が上がる。

「マヤノトップガン先輩が!」

「先頭っス!」

「理想の展開! そのまま! そのまま!」

 必死の形相でスパートをかけるウマ娘の集団の中で、先頭のマヤノトップガンだけが練習通りの顔で走っていた。それなのにただ一人じりじりと他のウマ娘に差をつけていく。同じ距離を走りきったとは思えないほど、ただ一人脚が残っている。

芝に並行して伸びた栗毛の髪が、初夏の太陽を浴びて燦爛と輝いた。その髪の間から覗く琥珀色の目が冷静に後方を一瞥していた。

『ダンスパートナー来た! 真ん中を割って来た! ダンス来た! ダンスが踊る!』

 後方からダンスパートナーが躍り出る。並び立とうと仕掛けて来ていた。

 後輩のウマ娘たちから悲鳴が上がる。トレーナーだけが冷静だった。トレーナーはマヤノトップガンが何を感じ取ろうとしているかを見ていた。

 マヤノトップガンはウマ耳を後方に向けたが、焦りは見られなかった。スパートをかけることもなくそのままただゴールに向かって走っていくだけだった。

『さあ、先頭はしかしトップガンだ! トップガンだ! まだ余裕があるッ!』

ダンスパートナーだけでなく他のウマ娘もスパートをかけているのに、マヤノトップガンとの距離を縮められない。見えない大気の壁があるようだった。

「あれだけ必死にスパートをかけているのに距離が埋まらない……?」

「なんで? マヤノ師匠は本気で走ってなさそうっス」

「皆必死に走っているように見えてもフォームが乱れて脚を前に出せていないね。それに対して、マヤノちゃんは綺麗なストライドで走れている。他のウマ娘も一流だけど、マヤノちゃんの地力が違いすぎる……」

 後輩のウマ娘の疑問にトレーナーが答えた。宝塚記念という由緒正しきGⅠレースに集まったメンバーだったが格の違いをまざまざと見せつけられたまま、マヤノトップガンの影を踏めないままだった。

『トップガンだ! トップガン一着! そして二着サンデーブランチ! トップガン、堂々たる勝利! 文句なし』

 そうして、余裕を持った走りのままマヤノトップガンはゴール板を通り過ぎた。

 戦前の評判のまま一番強いウマ娘が、強い勝ち方をした。

 歓声は上がるもののナリタブライアンとのマッチレースになった阪神大賞典とは質の違うものだった。

「これがGⅠのレースかよ。差がありすぎだろ……」

「こんなの誰が勝てるんだよ」

 興奮が上がりきらずどこか弛緩した空気の中で口々と観客たちが呟いていた。

「マヤノトップガン先輩凄い! 凄い! 凄すぎです!」

「おもり……おもちのお陰っスー!」

 後輩のウマ娘たちは普段いがみ合っている事も忘れて涙を流して互いに抱き締め合っていた。

 そんな中、トレーナーの目にはマヤノトップガンだけが映っていた。マヤノトップガンはゆっくりとクールダウンを終えて、やがて止まった。誰よりも早くゴールをしたマヤノトップガンが誰よりも早く息を整え終わっていた。

 マヤノトップガンは右手を上げて歓声に応えていた。その顔には喜びよりも、不完全燃焼を嚙み潰しているように見えた。

 トレーナーはそれを見て

「予想以上の上積みはあったものの、それを活かしきれる相手じゃなかったか……」

 と、独り言ちた。

 

「流石マヤノトップガン先輩です! 周りを圧倒する精密機械のような走り、圧巻でした!」

「まるで定規で測ったように他の出走者との距離を維持する最終直線の闘魂溢れる走り! 見事だったっス!」

 控え室でチーム全員で集まり、後輩たちが口々にマヤノトップガンをねぎらっていた。

 マヤノトップガンは椅子に座ってスポーツドリンクを一口含んでから、ゆっくり飲み干して後輩たちに笑顔を向けた。

「ありがと。皆」

「マヤノちゃん、今日は疲れたでしょう? 沢山ご飯食べてから、寝て、また明日からも頑張ろうね」

 トレーナーはそう言って、マヤノトップガンの肩にぽんと手を置いた。マヤノトップガンは小さく頷いていた。

「じゃあ、どこに行こうか。せっかく勝ったんだから、今日だけはおもちお腹いっぱい食べても……」

「あーっ! ト、トレーナー! おもちはいいから、焼肉行くっス! レースの後は焼肉っス!」

「や、焼肉……今月はちょっと給料がもう……」

「マヤノトップガン先輩はおもちなんて食べないですよ! 焼肉! 焼肉!」

「えっ……えぇ……」

 トレーナーは戸惑いながらも、マヤノトップガンの方を見た。マヤノトップガンはトレーナーに目配せをして、笑った。

 それから、後輩たちに腕を組まれてトレーナーは部屋を出て行った。

 一人残ったマヤノトップガンはふぅとため息をついて、天井を見上げた。

「……おもち?」

 静かになった控え室にマヤノトップガンの疑問が口の端から浮かんで消えた。

 マヤノトップガンは思う。

 この季節に、おもち?

 三人が何を言っているかわからなかったが、とにかく、今回はトレーナーを泣かせずに済んだ。後輩たちを失望させずに済んだ。

 だから、満足だった。

 満足だったはずなのに。

「ん……?」

 マヤノトップガンは手のひらを見た。

 何の変哲もない、いつもの自分の手である。それ以上でもそれ以下でもない。

 しかし、何かが違った。

 解像度が下がったような、世界に対する触覚を失ってしまったような、そんな異様な感覚があった。

 暗闇の中で前方に手を振って、灯りを探している時の不安感にマヤノトップガンは喉を詰まらせる。

 マヤノトップガンは一人呟いた。

「マヤ、わかんなくなっちゃった……?」

 

 宝塚記念を、余裕を持って勝利したマヤノトップガンは、いい形で夏の合宿に入った。夏の間、マヤノトップガンはやはりリストウェイトとアンクルウェイトをつけて自身を鍛え上げた。マヤノトップガンは己の肉体の限界に挑むように負荷をかけ続けた。それは闘志の表れというよりも、何か欠けたものを補おうとしているようだった。

 迎えた秋から冬にかけての王道路線の初戦にはオールカマーが選ばれた。サクラローレルとの一騎打ちになるかと思われたが、四着に敗れる。

 天皇賞秋ではバブルガムフェローとの接戦に敗れ二着。

 ジャパンカップは見送り、暮れの有馬記念に出走する。天皇賞春、オールカマーに引き続きサクラローレルに敗れ、結局七着に終わってしまう。

 マヤノトップガンにとっては試練のシーズンになってしまった。

 結果、天皇賞春と有馬記念、二つのGⅠを制覇したサクラローレルが年度代表ウマ娘に選ばれることになった。

 サクラローレル、マヤノトップガン、そして、重賞を連勝し続け有馬記念ではマヤノトップガンに先着したマーベラスサンデーを加えた三人のウマ娘。

 これを、かつて鎬を削り合った『永世三強』に準えて『新・永世三強』と人々は呼んだ。

 どこかマヤノトップガンが歯車の噛み合わない中で、時代は否応なく進んでいく。

 マヤノトップガンの引退の時が近付いてきていた。

 

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