陰陽のロールシャッハ   作:葉桜ベイベー

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私が指切高校生徒会長、遊天寺虎王丸だ!!

遊天寺(ゆうてんじ)虎王丸(とらおうまる)にとり、世界とは生まれ落ちたその日から常に光り輝いているものだった―

 

「あ、会長! さようなら!」

 

「うむ! さようならだ!」

 

「ばいば~い!」

 

「おお! 気を付けて帰るのだぞ!」

 

 夕日に焼けた下校路を足取り軽く歩き去っていく同校の仲間達を見送りながら、部活を終えたばかりの虎王丸はシングレット姿のまま、部室棟にあるレスリング部のロッカールームへと向かっていた。

 母校である指切高校(ゆびきりこうこう)が町の中でも少し小高い丘の上に位置していることもあってか、この時間になるとほんのりとした甘みを感じさせるそよ風が肌に心地好く校門からグラウンドまでを吹き抜けていく。自然豊かな校舎で育まれた生徒達の表情には笑顔が満ち溢れていて、誰もが学生生活を謳歌していた。

 

「素晴らしい……」

 

そんな生徒達の笑顔を思い浮かべながら、虎王丸はそう呟く。

 

 

放課後遅くまで、部活動に汗を流す生徒達。

 

図書館に残り、ひたすら勉学に励む生徒達。

 

果ては校舎を飛び出し、友情を育む生徒達。

 

 

3年という、人生においては短くも長く、それ以上に尊い一片を全身全霊で満喫する仲間達に、心根を中心として、後から後から尊敬の念が湧いて来ては止むことがなかった。

 そして、幸運にもそんな生徒達と縁を持ち、同じ学舎で3年を共にすることになった自分もまた、負けずに人生の邁進に励まなければならない。そう思い抱くと、自然と表情が綻んでくるのを感じる。

 

「まったく……今日も最高の一日だ!!!」

 

分厚い胸中を満たしても足りない熱い感情を溢れさせて、虎王丸は快哉と共に呵呵大笑する。

 そんな、澄んだ橙色に染まった空を仰ぎながら、校前で仁王立ちとなる生徒会長(虎王丸)の脇を、同校の仲間達は慣れた様子で通り過ぎながら「またね会長~」と気安い挨拶と共に通り過ぎていく。

 

 

「うむ! 素敵な一日をありがとう!」

 

 

そんな生徒達にブンブンと太い右腕を振りながら、虎王丸も再び部室棟に向かって歩き出したのだった。

 

 

 

 

     ◆

 

 

 

 

 虎王丸が"レスリング部"というプレートが下げられたドアを開くと、そこには実に混沌とした世界が形成されていた。

 

 

散乱したトレーニンググッズに開きっぱなしの救急箱

 

ロッカーからまろび出たジャージにシングレット

 

雑に並べられたプロテインパウダーの大袋

 

山積みにされた、部室に代々受け継がれるエロ本の数々

 

 

ある意味、実に男所帯らしい光景に微笑を浮かべた虎王丸が踏み入ろうとすると、後ろから「あれ? 部長?」と声が響く。

 振り返ると、そこには屈強な体格の男子生徒が数名、濡れた髪を拭きながらレスリング部の部室へと歩いてくるところだった。

 

「ああ、お前達か」

 

見知った顔に、虎王丸が頷き「シャワー帰りか?」と尋ねる。

 その質問に「うっす」と頷いたレスリング部員の仲間達だったが、すぐに虎王丸の立っている場所を見て、バツが悪そうに「あー……」と頭を掻いた。

 

「私が言いたいことは分かるな?」

 

「「「すんません」」」

 

虎王丸の言葉に、一斉に頭を下げる部員達。

 

「元気があるのは良いことだが、私が部活に出られなかった数日だけで「ま、ま。今日はもう遅いですし!」

 

虎王丸が腕を組んで滔々と語り始めようとしたところで、一人の部員が宥めるように割って入ってくる。

 

「部室はこれから片づけますから!」

 

「そうそう! それに、会長もシャワー浴びに来たんでしょ?」

 

重ねて言い募る仲間達に、虎王丸も「そうか……」と区切って腕を解く。

 

「そういうことならこれ以上は言わんが、部室は綺麗に使うのだぞ?」

 

「「「うっす!」」」

 

ザッと綺麗に揃った一礼に頷き、虎王丸は自分のロッカーにリュックサックを入れて、中からタオルと替えの下着、それと学生服を取り出して、部員達がやってきた方へと歩き出す。そこで、ふと思い出したように立ち止まった虎王丸は「ああ、それとだ」と仲間達の方をちらりと振り返る。

 

「今日も満足いく一日だったか?」

 

一瞬、姿勢を正した部員達にそう尋ねると、部員達は一斉に「「「はい!」」」と頷いたのだった。

 

 

「ならばよし!!」

 

 

仲間達の答えに、廊下中に響き渡るほどに声を張り上げると、虎王丸は「はっはっは!」という満足げな笑い声と共に、のっしのっしと部室を後にしたのだった。

 

 

 

 

     ◆

 

 

 

 

 シャワーを終えて身形を整えた虎王丸が部室に戻ると、すっかり陽が落ちて、レスリング部の部室にも町の明かりだけが仄かに差し込んでいるだけだった。

 既に、先の生徒達は下校したらしく、室内には人の気配は無い。ただし、夜光に照らされた中には無数の影が浮かんでいて、淡い影が無数に虎王丸の足元まで伸びてきている。

 部室の照明を点けてみれば、そこには散乱した衣類やスポーツ用品と、虎王丸がシャワーを浴びに行く前と然程変わらない光景が広がっていた。

 

「……用事が立て込んでいたのか」

 

そう呟いた虎王丸は部室に入ると、テキパキと室内を片付けていく。

 

 

共用のスポーツ用品は一まとめにして、誰も使っていない所定のロッカーに

 

救急箱はテープやハサミを元に戻してロッカーの上に

 

散乱したジャージやシングレットは名前を確認してから畳んで、各々のロッカーに

 

 

最後にエロ本の類を一番奥の棚に仕舞い込んで、虎王丸はふぅと一息吐いた。

 

「これで良いかな……」

 

そう呟いて、くるりと部室内を見回す。一先ず散乱していた道具やら何やらは片付け終わって、特に目ぼしい物は見当たらない。そこまで確認したところで「うむ」と頷くと、虎王丸はロッカーから取り出したリュックサックを背負うと、最後にもう一度だけ振り返ってから、電気を消して部室を後にしたのだった。

 

 

 

 

     ◆

 

 

 

 

 人気が無くなった部室等の廊下を歩きながら、虎王丸はぼんやりと少しだけ中空を見上げた。コツコツという硬質な床を踏みしめる音だけが響く中、何もない虚空を前に思い起こすのは先のレスリング部の生徒達のことだった。

 備品や個人の所有物の別なく散乱した部室と、虎王丸が戻るまでに立ち去ったフットワークの軽さ。そんな姿に、虎王丸は実にエネルギッシュな生徒達だなと結論を付ける。

 

「……元気が良いな」

 

そうして、もう一度呟いたところでそれ(・・)は唐突に姿を現したのだった。

 

 

とろん……と廊下に溶け込む様に佇む黒い影

 

無音のままするすると近寄ってくる気配

 

 

まるで、夕刻に伸びる影法師の様に進み出てきたのが藍染の道着を身に纏った生徒だと気付いたのは、その影法師が発した「会長?」という言葉を耳にした後のことだった。

 やけに抑揚が欠落した感情の薄い声音に、虎王丸は眼前に佇む男子生徒が自分と同じ様に遅くまで部活動に勤しんでいた生徒であることを理解する。

 

「……っと、すまんな」

 

反応が無い虎王丸を前に不思議そうに小首を傾げる生徒。そのことに気付いて、虎王丸は軽い咳払いと共に謝罪をする。

 見れば、卸し立てのためか濃い藍色の道着と袴を纏っているせいで、ゆったりとした着こなしが夜闇に溶け込んで、余計にのっぺりとした印象を抱いてしまったらしい。

 左手には模造刀と思われる、艶やかな漆塗りの鞘に収まった長物(ながもの)があり、ゆったりとした佇まいとは対照的に、タコ(・・)が発達したごつい手をしている。

 

(居合同好会の生徒か……)

 

指切高校に三十三ある部活とサークルの中から、模造刀を使う可能性のある候補にあたりをつける。

 

「こんな時間まで練習か?」

 

「見ての通りですけど」

 

世間話程度のつもりで尋ねてみると、端的な答えと共に影法師は軽く模造刀を持ち上げてみせてきた。

 

「そうか」

 

予想通りの答えに頷いた虎朗丸は「クラスと名前は?」と確認する。

 

「2‐Bの右螺旋(みぎねじ)右目(みぎめ)ですけど」

 

「右螺旋か」

 

再び返ってきた端的な答えを反芻する様に、虎王丸は呟きながら軽く頷く。影法師が口にしたのは自分と同じ学年だったが、その名前に虎王丸は心当たりが無かった。

 

「練習熱心なのは結構だが、あまり遅いと親御さんが心配するぞ」

 

「寮生活なので、それは無いですよ」

 

右螺旋と名乗った生徒の言葉に、虎王丸は「む、そうか……」と頷く。指切高校には学生寮があり、何名家の生徒がそこで共同生活をしている。そして、その門限にはまだ少し時間があったはずだ。

 

「まあ、それでもあまり遅くならないようにな」

 

「言われなくても、そのつもりですけど……」

 

黒い影法師の生徒(右螺旋)が放った気の抜けた返事に、虎王丸は「ああ……そうだな」と頷いてから背を向ける。

 

「それでは、私はもう行くから右螺旋も気を付けて帰るのだぞ!」

 

「はあ……」

 

相変わらず曖昧な返事をしてくる同級生に、軽く後ろ手で手を振る。

 結局、その真っ黒な生徒はそれ以上何も言ってくることもなかったが、立ち去り際に少しだけその生徒の視線を感じた気がしたのだった。

 

 

 

 

     ◆

 

 

 

 

 翌日、午後の授業を終えた虎王丸がいつもの通りに生徒会室に入ると、先に来ていたらしい一人の女子生徒が机の上のノートパソコンに向かって、何やら熱心に打ち込み作業を行っていた。見れば、その左腕には"風紀委員長"と書かれた腕章が嵌っていて、おさげ髪の彼女がこの生徒会の役員であることが見て取れる。

 

(うむ、いつ見ても見事!)

 

そんな彼女の姿を見て、虎王丸は内心で快哉する。

 滑らかにキーを滑る両手には淀みが無く、まるで穏やかなピアノ曲でも奏でるように、耳に心地よくキーパンチの音が響いてきていた。

 

「? あ、虎王丸さん♪」

 

と、そこで虎王丸の気配に気付いたその生徒が、作業をしていた手を止めて振り返る。おっとりとした両眼には慈愛の色が浮かび、パッと花が咲く様な笑顔を虎王丸に向けてくる。

 

「うむ、精が出るな璃子」

 

可憐な美貌を備えながらも、毛ほどもそれを鼻にかける様子も無く、指切高校の生徒全員に分け隔てない愛情を注ぐ才色兼備の委員長……そんな性格を持つ生徒会役員の一人、引水(ひきみず)璃子(りこ)の姿に、虎王丸も思わず表情を綻ばせた。

 

「次の生徒会の資料作りか?」

 

彼女の脇を通り過ぎ、"生徒会長"と書かれた厚紙の机上札が置かれている部屋最奥の机に腰掛けながら、虎王丸がそう尋ねると、「ええ」と頷いた璃子が下書きに使ったらしいノートを軽く掲げて見せてくる。ノートを摘まむ指はすらりと長く、爪の先までが薄っすらと桃色に色付いていて微かに艶を放っている。

 

「やはり、それか……」

 

「そうですね……」

 

そんな璃子のノートを見て、虎王丸は僅かに表情を曇らせる。掲げた璃子の方も同じ思いだったのか、虎王丸の表情の変化に合わせて痛ましそうに微かに目線を伏せた。

 引水璃子が見せたノートにやや丸めの几帳面な文字で書き込まれていたのは、"近隣市内での不審者出没について"の文字。ここ最近、指切高校内で問題となっている生徒の安全に関する懸念事項だった。

 虎王丸がここ数日レスリング部に顔を出せていなかった原因はまさにこれだった。

 いつ頃からかは明確ではないが、今年に入って指切高校近隣ではとある不審者のことが話題となっていた。

 それは目出し帽を被った肥満体型の人間らしく、生徒達が下校する夕暮れ時に現れては、片腕に下げた手提げ鞄から大きめのフィギュアを取り出しては、道行く人間に言葉にならない喚き声と共にそれを押し付けようとしてくるという。

 現状、それ以外の明確な被害こそ出てはいなかったが、行動がエスカレートすれば取返しのつかない結果を招く可能性は少なくないという話になり、虎王丸達指切高校生徒会では当番を割り振って、生徒達が下校する時間に、大まかに使われる通学路をパトロールしていたのだった。

 と、そこまで話したところで、沈痛そうな面持ちをしていた璃子が何かを思い出したように「そういえば」と口を開いた。

 

「今日のパトロールの当番なのですが」

 

「む?」

 

璃子の言葉に虎王丸が僅かに首を傾げる。

 

「何かトラブルでもあったのか?」

 

「トラブルというほどじゃないんですけどね……」

 

そう言って、風紀委員長は困ったように自分の頬に手を沿えてほぅ……と小さく溜息を吐いた。

 

「当番になっていた一二三(ひふみ)さん達なんですが、今から補修だと……」

 

「なんだと?」

 

璃子が口にした言葉に、虎王丸は思わず太い眉を持ち上げた。

 生徒会では運動委員長を務め、格闘技の経験もある二年生の一二三(ひふみ)金銀銅(きぎと)は、今回の不審者騒ぎへのパトロールでは虎王丸と並んで中心的な役割を果たしている生徒だった。

 昨日、久しぶりに虎王丸がレスリング部に顔を出せたのも、一二三がパトロールの指揮を執っていたからというのもあり、当然今日も虎王丸はそのつもりで考えていた。

 

「パトロールに間に合うかは聞いているか?」

 

「いえ……」

 

虎王丸の確認に、璃子はゆるゆると首を振る。しかし、その後再び頬に手を当てて、憂鬱そうにほぅ……と溜息を吐いた。

 

「ですが、聞いた限りでは一二三さん結構今回のテストで赤点を取っていたとか……」

 

「一本気なのは良いことなのだがなあ……」

 

現在は陸上部に所属して、日夜汗を流す彼は良くも悪くもスポーツ一筋というタイプだ。その分、他への情熱も全て部活動に注ぎ込んでいる所があり、熱意そのものは虎王丸にとっても尊敬を禁じ得ないものでこそあるものの、時折こうして頭の痛い事態が引き起こされることがある。で、それはそれとして、

 

「どうしましょうか……」

 

弱った様子で首を傾げる璃子に、虎王丸は「やむをえまい」と答えて笑顔を作る。

 

「一二三の代わりは私が入ろう。悪いが今日のパトロールメンバーの割り振りはあるか?」

 

虎王丸の言葉に、僅かに目を見開いた璃子は直ぐにノートの中から一枚の紙を取り出し「これです」と虎王丸に差し出してくる。

 

「結構居ないものだな……」

 

その名簿を見て、虎王丸は僅かに渋い顔になる。

 先に名前の出た運動委員長の一二三はパトロールの際に自分と仲の良い一般生徒数名を誘って見回りに出ていた。それが本件では大きな戦力となっていたのだが、如何せん一二三と気が合うということは本人と大なり小なり似通った性格をしている。端的に言うと、一二三が連れてきてくれていた仲間達は皆一二三と似たような理由で、現在補修を受けている様子だった。

 虎王丸は名簿を眺めながら、チラリっと壁に掛けられた簡素な時計に目を向ける。パトロール開始まで、後10分程度といったところ。幸い、例の不審者の目撃情報は夕方の短い時間に限られていて、下校時間だけはカバーすれば、一先ず生徒の安全は確保できる見通しだ。逆に言えば、一二三達を待っていては不審者の出没時刻を逃してしまう。

 

「仕方ない。ここは一先ず一二三達を抜きにして、私が入ろう……」

 

「ありがとうございます虎王丸さん……虎王丸さん?」

 

 気の良い生徒会の仲間のことを思い浮かべながら、苦笑交じりにそう提案したところで、虎王丸がふとその動きを止める。そんな虎王丸を見て、隣の璃子は不思議そうに小首を傾げた。

 そんな璃子を前に、虎王丸の脳裏に浮かんでいたのは、ある一人の生徒の姿だった。

 それは、藍染の道着を纏った、黒い影法師とも見紛う出で立ちの男子生徒。

 

 

―はあ……―

 

 

虎王丸自身、何故自分がその生徒のことを思い浮かべたのかは分からなかったが、どこか気の抜けたその返事だけは妙に克明に虎王丸の脳裏に焼き付いていた。

 

「なあ、璃子……」

 

「どうかしましたか?」

 

「この学校に……右螺旋(みぎねじ)右目(みぎめ)という生徒は居ただろうか?」

 

殆ど直感、いや、それ以前の当てずっぽうの様な感情に突き動かされながら、虎王丸は何故かその特徴らしい特徴を持たない生徒の名前を口にしていたのだった。

 

「少し待ってくださいね……」

 

虎王丸の言葉に、一瞬不思議そうに小首を傾げた璃子だったが、すぐに手元のパソコンを操作して、学校の教師と生徒会役員が閲覧できる共有ファイルにアクセスする。すると、すぐに名前が見つかったのか、璃子は「ありました」と言ってノートパソコンの画面を虎王丸に向けてくる。

 

「右螺旋右目。二年B組の男子生徒ですね。元は遠方の出身らしく、安定睡寮(あてすいりょう)に席を置いているみたいです。成績は中の上程度で、部活動およびサークルは居合同好会に所属しているようですが、会員は彼一人で活動費の支給などはなく、武道館の一部を借りて稽古をしているようですね……」

 

そう、映し出された情報を読み上げながら、璃子がチラッと視線を上げて"彼がどうかしたのか"と尋ねてくる。そんな璃子の視線に「ああ、まあ……」と曖昧に頷きながら、虎王丸は少し思案する様に首を傾げると、やがて考えをまとめるのを諦めたのかわしゃわしゃと頭を掻きながら「なあ、璃子」と目の前の風紀委員長に向かって口を開く。

 

「その生徒……右螺旋右目のことなのだが……今からパトロールに呼ぶことは出来るか?」

 

果たして、自分の口から出てきた言葉に、虎王丸自身が驚いていた。

 何か、明確な理由や意図があったわけではない。何なら、その生徒自身を認識したのが昨日の夜の事ですらあった。一応、武道を修めていることから全くの無力ということはないだろうが、それでも見回りという専門外の行動に向いているかは不確かだ。そもそも、虎王丸の依頼に応えてくれるかどうかさえ不透明だが……

 

「呼ぶのは構わないですけど……本当に良いのかしら?」

 

そんな虎王丸の言葉が余程予想外だったのか、両目を見開いた璃子が生徒会室では滅多にしない、砕けた口調で問いかけてきた。

 璃子の確認に勢いのままに頷きそうになった虎王丸だったが、その表情に純粋な困惑というよりはむしろ積極的に虎王丸を思い留まらせようとする色が浮かんでいることに気が付いた。

 

「何か気になることでもあったのか?」

 

そんな璃子の表情に虎王丸が訝ると、尋ねられた璃子は少し気まずそうに「実は……」と言いながら右目のページをスクロールした。

 そこには学校での成績などといった画一化された情報とは別に、その生徒に関する寸評の様なものが幾人かの教師によって書き込まれている欄があった。

 

「これは……」

 

その記載された内容を見て、虎王丸は思わず眉を顰めた。

 そこには教師達自身の感想と、傍から見ての右螺旋右目と他生徒の関係があったのだが、端的に言ってあまり好ましい内容ではなかった。

 まず、基本的な反応として"優秀ではない"という意見で一致していた。国語、数学、英語、理科、社会といった主要科目から、保健のような入試に直接関係しにくい教科まで、指導する教師が文を揃えて『多少の努力は見られるが成績に直結しておらず、徒労感が多い学習方法など、要領が悪い』としている。

 加えて、対人関係においては積極性が無く、思考力に乏しいとしており、記憶をそのまま取り出す作業は多少できるものの、察しや感受性が悪く、コミュニケーション能力に難があるとしている。

 そして、大方の教師の意見として『とはいえ、手を貸さないわけにはいかないため、成績や他生徒との間の軋轢などは自分が対応することで場を収めてやることに成功した』という趣旨の内容で締めくくられていたのだった。

 

「どうしましょうか……」

 

端的に言ってぼろくそな内容に、優しい璃子が心を痛めているのを見て、虎王丸も申し訳なく思いながらも昨日の夜に見た右目のことを思い出していた。

 確かに、会ってみた限りでは光るものが見られないというか、それ以前に真っ黒な印象の生徒だったが、同時に虎王丸はそこまで書かれるような思考の鈍さは感じなかった。もちろん、単に部室棟でばったり出くわし、一言二言交わしただけの相手の全てを察せる訳ではないのだが、ここまで露骨に扱き下ろされている生徒が、一切そういった色を見せなかったというのは聊か不自然にも思える。

 

「璃子」

 

「はい」

 

「悪いが、彼を呼んでもらいたい。責任は私が取る」

 

やがて、決心がついた虎王丸は、心配そうにこちらを見つめる彼女に対して、端的な指示を出した。

 

「虎王丸さん?」

 

そんな虎王丸の言葉に、璃子は本当に良いのかと言う様にちらちらと手元の画面と虎王丸を見比べてくる。

 

「構わん」

 

信頼する風紀委員長の不安げな表情に、虎王丸は力強く頷いた。確たる証拠があるわけではないが、この生徒―右螺旋右目―は必ずしも悪い相手には思えなかった。

 しばし見詰め合った二人だったが、先に折れたのは璃子の方だった。こうなった虎王丸が頑固なことを良く知っている彼女は、軽く溜息を吐くと「分かりました」と頷いて、自身の席から立ちあがる。そして、僅かに迷う素振りを見せながら、ゆっくりと生徒会室の入り口に手を掛けた。

 

「……少し待ってくれ、璃子」

 

そんな璃子の姿を見て、虎王丸は思わず彼女のことを呼び止めた。眉尻を落として振り返った璃子の表情に、虎王丸は思わず可憐という言葉と共に罪悪感を抱きながら「その……だな……」と頭を掻く。

 

「私の我儘の片棒を担がせてしまって申し訳ない。無論、呼び出した責任として私が最大限フォローをする……なので、この場は許してもらいたい」

 

そう言って、虎王丸は「この通り!」と優しい彼女へと頭を下げる。

 十秒、二十秒と続いた時間だったが、やがてグラウンドで練習する運動部の掛け声だけが聞こえてくる室内にクスリという微かな笑い声が響いた。

 

「虎王丸さんがそう決めたのなら、仕方ありません」

 

「ああ……ありがとう、璃子」

 

"仕方ないですね"とでも言うように、全てを許すような慈愛の微笑を浮かべる璃子の表情を見て、虎王丸はほっと胸を撫で下ろした。立場上、生徒会長となってはいるものの、どうしても頭が上がらない相手というのは居るものなのだ。それが、虎王丸にとっては目の前に居る引水璃子で、それは多分永遠に変わることのない事象なのだった。

 全てを許す優し気な璃子の表情に、虎王丸はいかつい表情を緩めて頬を掻く。

 

「うーっっす! って会長? ……相変わらずお熱いっすね」

 

「むっ!?」

 

「あらあら」

 

そんな二人の見詰め合いは、やがて別の生徒会役員がやって来るまで続いたのだった。

 

 

 

 

     ◆

 

 

 

 

「失礼します」

 

 そんな事務的な言葉と共に、その生徒―右螺旋右目―は虎王丸達生徒会役員が集う一室に姿を現した。

 こちらも午後の授業を終えて同好会活動に勤しんでいたのか、昨晩見たのと同じ藍染の道着を身に纏っており、陽の光に掘り起こされたその姿は昨晩以上に黒点の様な印象を虎王丸に抱かせた。

 璃子がした呼び出し放送を聞いてから急いでやってきたのか、微かに息は上がっており、額に浮いた汗に長い前髪が貼り付いている。

 

「あなたが……」

 

「2‐Bの右螺旋右目ですけど」

 

確認する様に口を開いた璃子に、右螺旋右目は昨晩虎王丸に向けたような抑揚の薄い声音で端的に答えながら頷く。

 相変わらず影法師の様な右螺旋右目に、璃子が困ったように眉を八の字にする。今日のパトロールのために集まってきた他の生徒達も、そんな彼を前に顔を寄せ合って、何かしら訝る様にひそひそと耳打ちをしあっている。

 

「稽古中済まない、右螺旋」

 

そんな周囲の注意を引き付けるようにパンッと手を打って、虎王丸が右螺旋右目に向き直って口を開く。

 

「別に構いませんけど……」

 

対する右螺旋右目は本心から頓着していないらしく、周りを気にする様子も見せずに小首を傾げいる。

 

「それで、何かありましたか?」

 

そう言った右螺旋の表情には欠片の存念も見られない。ただ、そんな彼を囲む生徒達の表情に僅かではあるが影が見え、隣に立つ璃子もまたほんの些細なことではあるが、普段はおっとりとしている自然体の笑顔が虎王丸以外には気付けない程ではあるが強張っているのが見て取れた。

 

「右螺旋は最近噂になっている不審者の事は知っているな?」

 

「放課後とかによく校内放送で流しているあれですよね? もちろん知ってますけど」

 

「ああ。それの対策で、私達生徒会役員とボランティアで放課後に通学路付近をパトロールしているのだが、今日のパトロールにお前の手を借りられないかと思ってな」

 

あまり、話を引き延ばしても仕方ないと感じた虎王丸が端的に話を切り出して、呼び出した目的を口にする。

 周囲のひそひそ声と璃子の顔に浮かんだ影が一段と濃くなる中で虎王丸の顔を不思議そうに見詰めた右螺旋右目は……

 

 

 

「別に構いませんけど……」

 

 

 

先程と同じ様に、実にあっさりと首を縦に振ったのだった。

 

「そうか……礼を言わせてくれ」

 

そんな右螺旋右目に虎王丸が叫ぶと、四方八方から息をのむ音が聞こえ、同時に目の前の右目もまたこの日初めて驚きを見せるように両目を見開いたのだった。

 

 

 

 

     ◆

 

 

 

 

 黒点の様な生徒・右螺旋右目を新たなメンバーに加えた生徒会によるパトロール隊は出発の準備もそこそこに、早速夕方の町へと繰り出していた。

 

(ふむ……)

 

 そんな虎王丸の隣を滑る様な足取りで進むのは件の右螺旋右目で、その歩く姿に、虎王丸は内心で小さな驚きを抱いた。

 

(どうやら、随分と腕が立つみたいだな)

 

昨晩見送った背中は夜闇に紛れていたせいで気付かなかったが、サッサッというアスファルトが擦れる音だけを残すその姿は、ふわふわとした立ち振る舞いとは対照的にピタリと重心が座り、レスリングを嗜む虎王丸の目からしても凡そ隙というものを手繰り寄せるのが極めて難しい姿勢をしているように思えた。

 

(しかし、そうなると余計にもったいないな……)

 

そして、そんな右目の姿を見て、虎王丸は口惜しい気持ちになりながら内心で独りごちた。

 先の呼び出しから軽い自己紹介を経てパトロールの班分けを行った際、どういう訳か元居たメンバーの半数が右目と組むのを嫌がったのだ。そして、もう半数は"自分の指示に全面的に従うこと"を条件としており、とても臨機応変な対応が必要となる不審者の対応において現実的とは言えない要求を付け足してきていた。

 結果、どうにもならないと虎王丸が右目のツーマンセルを買って出ると、前日までのツーマンセルだった璃子の友人達からブーイングが上がり、それならば右目と対等に組むかと虎王丸が問い返したところで、ようやく事態が鎮静化したのだった。

 一応、全ての生徒会の生徒が腕に覚えがあるわけではないため、右目の様な人間はそういった相手と組ませたかった虎王丸だったが、この際仕方ないと内心で蹴りを付ける。

 

(それに、必ずしも不審者が姿を現す訳ではないからな……)

 

あまり荒事が得意でない仲間の姿に一抹の不安を覚える虎王丸だったが、ここ数日のパトロールが効いているのか、姿を見せる頻度が明確に減らした賢い不審者に、ある程度の余裕はあるだろうと見立てを立てていたのだった。と、

 

「きゃっ!?」

 

不意に、虎王丸達が歩いていた通りの裏路地の方から、ドスンッという音と共にまだ幼い子供の悲鳴が聞こえてきた。

 

「むっ?」

 

反射的に音のした方を覗き込んだ虎王丸の両目に映ったのは、自身の体半分ほどもありそうな荷物を抱えた少女の姿。恐らくだが、両親の手伝いのために一人で買い物をしてきたところなのだろう。凡そ一人では抱えきれなさそうな大荷物は彼女がここまで頑張った証だろうか?

 見るから健気なその子供の姿に感動を覚えつつ、虎王丸はそんな彼女を助け出すために慌てて駆け寄る。が、一歩二歩と走り寄ったところで、その少女の表情に明らかな恐怖が浮かんだことに気が付いた虎王丸はすぐさまその走りを止めた。飛びぬけて醜いとは自分のことを思っていない虎王丸だったが、如何せんレスリングで鍛えた体格と合わせれば、小さな子供には真っ先に恐怖を抱かせてしまう外見をしていることは自覚をしている。それもあって、先にまずは彼女の警戒心を解かなければと、宥める意味もあって両手を掲げながら努めて笑顔を作って、少女の方へと歩み寄っていく。

 

 

 

 

―そして、それが大きな誤りだった―

 

 

 

 

虎王丸が全身の意識を少女に向けたその瞬間、トンッという軽い衝撃が腹斜筋を通して全身へと伝って来た。

 

「む?」

 

その方向を振り向いた虎王丸の目に入ったのは、自分の腹に伸ばされたぶよぶよと太い垢まみれの右腕とその先に握られる金色の毛束。そして腕の元を遡ってみれば、そこに居たのは黒い目出し帽を被った肥満体型の、昨今話題となっていた不審者の姿だった。

 

「ぬんっ!」

 

そのことに気付いた虎王丸は即座に不審者の腕を振り払う。何があるかは分からないが、不審者の意図する物体を体に当てられている状況というのは決して好ましくはないだろうという判断からだった。

 虎王丸の太い左腕に振り払われて、不審者の手が宙を泳ぐ。風にはためいたその手に握られていた毛束は、狐の耳を生やした少女の人形から伸びる長い頭髪だった。

 

「ふっ!」

 

即座に身構えた虎王丸は身体を屈めてその不審者の足元へとタックルを敢行する。男の手にあるのが少女の人形であったこともそうだが、何よりもまず背後に倒れた少女から、この不審者を引き離さないといけないという判断からだった。

 幸い、虎王丸の様に肉体を鍛えた形跡もなく、ウェイトこそ見事なものの、組み伏せるだけならばそう時間は掛かるまいと判断した虎王丸は男の腰元に頭を付けながら、その勢いのままに一歩二歩と前に出る。……が、

 

「ぬ!?」

 

そこまで進んだところで、不意に重くなった全身に虎王丸は両目を見開いた。

 初手でかましたタックルの勢いが無くなり、純粋な力勝負になった結果だろうか? しかし、そうであるならば背の上から押し潰そうとしてくる贅肉の重みは一体何だろうか?

 次第に相手へと傾く天秤に内心で焦りを覚える虎王丸。それでも、必死に両足を繰って目の前の敵を押し出そうとする虎王丸だったが、その勢いは一歩一歩確実に失われ、そして十も数えたころには完全に動きが停止してしまっていた。

 

「ふひっ♪」

 

愕然とする虎王丸の後頭部に振ってくる、妙に甲高い男の声。直後伸びてきた二本の人間の手の感触が、初手に打ち込まれた拳の感触に比べてやけに分厚く広がり、そして、虎王丸の両肩を包み込むと、容易くその体を引っぺがしてしまった。

 

「ぐ、はっ……」

 

固いアスファルトに叩き付けられた感触に、思わず虎王丸は絶息する。苦痛に顔を歪めながらも、何とか片目を開いた虎王丸が見たのは、マスク越しにふーっふーっと荒く息を吐く、でっぷりとした不審者の姿。その目出し帽に空いた穴かから覗くやけに細い目がギラリと異様な光を帯びた。

 

「くっ……?」

 

 男の眼の光に負けまいと睨み返した虎王丸だったが、その瞬間ふと妙なことに気が付いた。

 この不審者対策のパトロールで、虎王丸は激しい動きがあることも想定して、常に学校指定のジャージを着用していた。その際、下は安全も考えて長ズボンにしていたが、上半身の方は虎王丸の好みもあって半袖の方にしていた。その半袖は当然鍛え上げた虎王丸の二の腕の太さもあり、常に力瘤の上でぴっちりと肌に食い込んでいた。

 しかし、今の虎王丸の体にはそういった運動着のタイトなフィット感が無くなっていた。それどころか、無理に引き延ばしても力瘤の三合目までを越えるかどうかといった有様だったはずの半袖が二の腕全体を包み、前腕にまで微かに触れるようになっている。

 ハッとなって手を持ち上げてみれば、そこにあるのは太く分厚い男性のそれではなく、小さく細く、そして華奢な、例えて言うならば、丁度今助けたばかりの少女の様なそれがあったのだった。

 

精神性現象改変症(ロールシャッハ)か!!)

 

その特異な現象に、自身の身に何が起こったかをようやく理解して愕然とする虎王丸。

 

「ふひっ♪」

 

そんな虎王丸を現実に引き戻したのはやけに甲高く、そして、一聞で腹の底からの歓喜を読み取れる耳障りな男の笑い声だった。

 手を降ろしてみれば、右手に持った人形の頭を一撫でしてから、大切そうに左手に下げた鞄に仕舞い込む肥満体型の男の姿。

 長ネギが突き出たそれから顔を上げると、男は細めた両目の目尻を落とし、そのまま股間に手を伸ばして綿ごみの付着したデニムのジッパーをゆっくりと、見せ付けるようにして引き下ろしたのだった。

 ボロンとまろび出た赤黒く歪んだ肉塊。ドクン……ドクン……と脈打つそれがビンッと男の下腹の贅肉を打つ。入浴をあまりしていないのか、饐えたような悪臭が漂うそれを前に、虎王丸は男が何を考えているのかを理解する。

 

「くそっ」

 

 その光景に虎王丸は歯噛みする。自分が犯されることはこの際良い。不快で屈辱なのは事実だが、所詮自分は男だ。極論だが、目の前の男にそうされたとしても、明日にはすぐに立ち直るだろう。だが、後ろに居る少女はどうだろうか? 虎王丸を犯した後、男が最初のターゲットである彼女に目を向ける可能性は決して低くない。むしろ、ここまでやってしまった時点で、毒を食らわばとばかりに手を出す可能性の方が高いだろう。それだけは、あの健気な少女が穢される未来だけは防がなければならない……!

 

「逃げろ!!」

 

そう考えた虎王丸がその言葉を叫ぶのは当然のことだった。むしろ、ここまでその一言を上げられずにいた自分の不甲斐なさに拳を握るほどだったが、兎にも角にも自分が犯されている間にでも彼女に逃げ切ってもらうしか、少女が目の前の男に犯されない手段が他になかった。

 

(一刻も早く!)

 

当然のように甲高くなった自分の物とは思えない声を聞きながら、虎王丸は内心の焦燥を何とか抑え込んで、ここから先には絶対に進ませないと男をキッと睨み付ける。たとえそれが男の嗜虐心をそそるだけの

結果になったとしても、それでより時間を稼げるのであれば本望だった。が、

 

「なっ!?」

 

その瞬間、虎王丸は自身の五感を疑った。

 虎王丸が逃走を叫んだその瞬間、背後からササッという軽い足音共に濃密な人の気配が押し寄せてきたのだった。

 

(まさか、私を助けに!?)

 

推定される可能性に、虎王丸は血の気が引くのを感じる。この状況で自分を助けるために走り寄ってくるのとは、果てしなく優しくも、それ以上に気高い少女だ。が、今はそんな彼女の気高さが彼女自身の尊厳を穢す原因になりかねない事態なのだ。

 咄嗟に振り返り、「戻れ!」と叫ぼうとする虎王丸。そんな虎王丸の視界を過ったのは……

 

 

 

 

風に表を波打たせた、一面に広がる漆黒の鱗地だった

 

 

 

 

ヒュンッという風切り音と共に、カサリと着地する黒い布切れ。その右手に握られた白刃は黄昏時の天に染まって、鈍く光を放っている。直後にベチャリと響く、やけに軽い粘質の着弾音。

 

「う、うひゅ……」

 

そして、目の前にはガクガクと膝を震えさせる、虎王丸を犯そうとしていた不審者。その股間にそそり立っていた悪臭放つ男性が失われ、後には鮮血を垂れ流す悍ましい断面図だけが浮き出されていた。

 

「俺の事忘れてたでしょ、会長」

 

「が、ぐ……」と白目を剥いて崩れ落ちる男を他所に、チンッと振り抜いた刀を納めながら右目が虎王丸に近付いてくる。その表情には感情らしい感情は浮かんでおらず、今しがた斬り捨てた不審者の男根にも特段興味を示さなかった。

 

「で、大丈夫ですよね?」

 

そんな右目の確認に、虎王丸は「あ、ああ。助かった」と頷く。が、すぐに先の少女のことを思い出して、バッと後ろを振り返った。

 

「あ……」

 

見れば、多少の擦り傷に両目に涙を溜めてこそいるものの、それ以外の目立った被害というものは見られない。

 そのことに胸を撫で下ろした虎王丸だったが、今度は反対側でどうと何か重いものが地面に倒れる音がする。慌てて振り返ってみれば、先の変質者が泡を吹いて倒れたところで、その光景に虎王丸は慌てて仲間達へとメッセージを送ったのだった。

 

 

 

 

     ◆

 

 

 

 

「会長!」

 

 陽が落ちた中で人だかりができた裏路地で、一人の女性の声が響く。呼ばれた虎王丸が顔を上げてみれば、そこに居たのは今日のパートナーと共に慌てた様子で人の波を掻き分けてきた風紀委員長の璃子の姿だった。

 

「璃子か」

 

両肩に大きなタオルを掛けられた虎王丸が右手を上げると、一瞬驚いたように立ち止まった凛子だったが、事前に虎王丸が送ったメッセージのこともあってすぐに事情を理解したのか、ふるふると頭を振って足早に虎王丸へと近付いてくる。

 

「大丈夫でしたか、隊長」

 

「まあ、見ての通りだ」

 

優しく心配する璃子に、虎王丸は曖昧に笑いながら小さくなった肩を竦めて見せる。実際、外傷などは特には無く、暴行を受けた訳でもないのだが、果たして今の状態が無事かと言われると、虎王丸自身もどう判断していいのか分からないというのが本音だった。

 実際、今の虎王丸の姿はといえば

 

 

頭からぴょこんと伸びた大きな耳

 

尾てい骨から伸びた広い尻尾

 

そして、性徴が始まったかどうかといった華奢な体躯

 

 

と、端的に言えば件の変質者が握り締めていた人形の姿そのままになっていたのだった。

 

「そうですか……」

 

率直に随分と可愛らしくなった虎王丸を見て、心優しい璃子は痛ましそうに両目に涙を浮かべる。

 

「あれ? 風紀委員長?」

 

と、虎王丸と璃子が見詰め合っていると、先ほどまで警官相手に何事かを離していた右目がてくてくとやってきて首を傾げた。

 そんな右目を見て璃子がキュッと唇を引き結んで険しい表情になる。おっとりとした彼女が滅多に見せない表情に虎王丸が困惑していると、つかつかと右目に近付いた璃子は虎王丸が止める間もなく「右螺旋さん」と何時になく厳しい口調で切り出した。

 

「これはどういうことですか?」

 

「どうって、見ての通りですけど?」

 

璃子の言葉に答えた右目は「会長に聞きませんでした?」と不思議そうに首を傾げている。

 

「ええ、ええ。聞きました。聞いたうえで尋ねているんです」

 

そう言って、璃子はギュッと眉をしかめてひょろりとした右目を見上げるように真剣な目で見つめる。

 

「会長から態々付き添ってもらっておきながら……自分が情けないとは思わないのですか?」

 

「待て、璃子」

 

滅多に聞くことのない激しい口調で右目を問い詰める璃子の姿に、流石に虎王丸が割って入ろうとするが、「虎王丸さんは黙っていてください!」と遮られてしまう。

 

「兎に角、事情は学校で伺います。向後さん、彼を生徒指導室へ」

 

そう言って指切高校の方に続く通りに出る璃子と、「抵抗するなよ」と言いながら右目の腕を捕らえて歩き出す、生真面目で精悍な風貌の生徒会役員の一人。その状況に、面倒くさそうに溜息を吐きながら、何も言わずについていく右螺旋右目。

 そんな三人の姿に、慌てて割って入ろうと追いかける虎王丸だったが、結局風紀委員長の引水璃子が虎王丸の言葉に耳を貸すことは最後の最後まで無かったのだった。

 

 

 

 

 




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