ヴォバン侯爵の撃退を決意した護堂だが、予想される到着日時は本日の夕刻。
現時刻は13時過ぎ、到着にはどれだけ早くても約5時間程度の猶予があると考えられる。
その猶予期間は有効に使うべきだ。
「万里谷、今すぐその委員会に連絡を取って、ヴォバン侯爵についての情報を教えてもらってくれ」
「か、畏まりました!」
現代日本の高校生にしては珍しく、裕理は携帯電話を所持していない。
故に今すぐ自宅に帰って連絡を取ろうと、一礼してその場を去ろうとした。
だが。
「それには及びませんよ、裕理さん」
音もなく現れた眼鏡の男性に呼び止められる。
「あ、甘粕さん!」
地味な印象を受けるスーツ姿のその男は、甘粕冬馬であった。
「お初にお目にかかります、王よ。正史編纂委員会東京分室、甘粕冬馬と申します」
「その気配の残り香、覚えがあるぞ密偵」
「失礼ながら、あなた方の警護を仰せつかっておりました」
「監視、の間違いであろう?」
「いやはや、お恥ずかしい限りです」
アテナの言及にも飄々とした態度を崩さないその姿は、護堂にも一流の気風を感じさせる。
口調こそ陽気に思えるが、カンピオーネの知覚から逃れていたというのは驚異の隱行術だ。
「一応名乗っておくと、俺は草薙護堂、こっちはアテナ。知ってるんですよね?」
「僭越ながら」
正体も、事情も、理解していると。
わざわざ見せつけた事さえあるのだから当然だろう。
「私が姿を見せたのは、王の要望にお答えするためです」
「侯爵についての情報を、教えてくれるんですね?」
「はい、お望みの通りに」
そして、冬馬は語った。
己が知りうるサーシャ・デヤンスタール・ヴォバンの情報を。
虎の瞳と称されるエメラルド色の瞳を持っていること。
外見は学者然とした知的な老人であること。
「まぁ、中身の方は肉食獣も斯くやといった感じらしいですが」
出身はハンガリーの辺りで、御年300歳にもなる老体だということ。
元は孤児であり、侯爵の地位は昔の貴族から奪い取ったものであること。
ヴォバンという名も、その貴族の飼い犬に由来するということ。
「飼い犬の名を自ら名乗るとは、その神殺しは犬に思い入れでもあるのか?」
「あるんでしょうねぇ。彼の君が持つ権能は、狼に関する物が有名ですし」
これが最も重要と言える情報、保持する権能についてだ。
長き戦歴から考えて十を超える数を持つのではないかと言われているが、その中で判明しているのは5つ。
件の狼に関する権能は“貪る群狼”、“
鼠色の体毛を持つ巨大な狼を無数に召喚する、軍勢型の権能である。
狼というと有名どころは北欧神話のフェンリルなので、元はその辺の神だろうと推測されている。
次に凶悪と忌み嫌われる“
殺した人間の魂を縛り従属させ、死人を操る醜悪極まりない効果を持つ。
従僕となった者は自己判断能力に欠けるが、その能力自体は生前と変わらず発揮可能。
「なるほど、そいつがアテナの情報を得たのは、この権能で部下に霊視でもさせたって事か」
「ええ、我々もその線が濃いと睨んでいます」
先ほども話に出た虎の瞳を齎らす権能、
ケルト神話の魔神バロールから簒奪したとされる権能で、その能力は生命の塩化。
視界にいる生物を塩の柱に変えてしまうという、これまた凶悪な邪眼である。
有名どころは以上の三つ。
他にも嵐を操る権能と炎を操る権能も所持しているようだが、詳細は不明との事らしい。
「物知りなんですね、甘粕さんって」
「いえいえ、この程度の知識なら簡単に手に入りますよ」
謙遜と言うよりは過小評価させるためのブラフ、なのだろうか。
有能だが油断ならない人種に思える。
「さて、私が知る侯爵の情報はこれくらいですかね。彼の来歴や行動は、触りだけ知っていれば十分でしょうし」
つまり、似たような事ばかり起こしてる迷惑爺さんな訳だ。
呆れた面持ちで侯爵の評価を再認識する護堂。
彼が次に行うのは、権能を使う準備だ。
「一応候補としては、フェンリルとバロール。死せる従僕の対策に、冥神の類もある程度網羅しておくべきか」
「あとは直接対峙してから、という事で良いな?」
「ああ、じゃあ頼む」
「うむ、任すが良い」
ツーカーの仲、と言って分かる者がどれくらいいるのかが疑問だ。
阿吽の呼吸、以心伝心、と言った方が分かりやすいか。
互いに相手の意図を汲み、澱みなく予定を組み上げる。
困惑と疑念を浮かべる裕理と冬馬を背景に
アテナの
漫画の様に潤んだという表現は似合わない、芯のある堂々とした瞳と視線を合わす。
ゆったりとした動きで腰に手を回すと、アテナもそれに合わせて頬に手を添えてくる。
細く柔らかな体躯だが、見た目に反して力強い生命力を感じさせる。
この至近距離まで近づいて、黒曜の瞳に熱が宿っているのを見て取る。
「必勝祈願の
「前祝いか、勝った後にもしてくれよ」
「それは貴方の健闘具合による」
「よし、やる気出てきた」
軽い口調と裏腹に、両者の情念は勢いを増していく。
そして同時に、距離を縮める。
柔らかい感触と共に伝わって来るのは、感情の熱と知識の奔流。
教授の術。アテナが護堂に仕掛けた呪い、これがその正体だ。
あらゆる魔術を弾くカンピオーネの特異体質をダシにして、戦闘準備という名目を掲げ愛を育む。
「さぁ護堂、我が夫よ。余す事なく受け取るがいい」
送られるのは神々の来歴。
まずは明確に名前の出てきた二つの神格。
次は冥界、冥府に関する神々を。送り込み、流し込む。
北欧神話、神殺しの魔狼。地を揺らすものという名を持つ巨大な怪物、ロキの長子にしてオーディンを呑み込む。ケルト神話、邪視の巨人。太陽神ルーの祖父にあたる魔神、暗黒龍クロウ・クルワッハを呼び出した者。ギリシア神話、冥神ハデス。主神ゼウスの兄にして、冥府を取り仕切る死者の国の王。北欧神話、女神ヘル。死者の国ヘルヘイムの女王、
他にもアテナが知る限りの情報を、護堂の脳裏に焼き付けていく。
だが護堂は流れ来る情報の奔流を意識の外に追いやり、ただひたすら唇の感触に集中する。
「んっ、ふぅ――」
嗚呼、この甘美を味わうこと以外に気を取られてはいけない。
護堂の頭は既に、アテナを貪る事しか考えていなかった。
「っぁ……んぅっ、ふぁ――」
吸い付き、
いつまでそうしていたのか、息も絶え絶えになりようやく隙間が生まれる。
「んむ、ぷぁっ」
「はっ、ふぅ、ありがとうアテナ。これで大丈夫そうだ」
護堂の脳裏には神々の来歴が刻みつけられている。
それに伴い、護堂の中で黄金が眩く輝いていた。
黄金。黄金の剣。
ウルスラグナ第十の化身、黄金の剣を持つ戦士。
護堂が数日前その身に収めた、新たなる権能。
それがカンピオーネの権能にも効くというのは、自分自身の体で以て知っている。
ウルスラグナの剣に貫かれて、ゼウスの権能は2日間使用不可能となっていた。
黄金の剣で権能を切り裂けば、数日は神格を貶める効果が続くだろう。
どの権能に使用するか、この知識で権能を切り裂けるかは、戦闘中に見極めるしかない。
ゼウスの方は相手も嵐を操るらしいから、ぶつかり合ってからでも神速になれるだろう。
相手は歴戦の神殺しなのだ。
下手にアテナを前に出せば《鋼》の権能で大打撃を喰らう、なんてことになりかねない。
自分が戦うしかないが、この二つの権能でどこまで渡り合えるか……その辺りはなるようになる。
「俺たちが出来る事はやりました。何処か人のいない場所――最悪の場合、周囲数キロが吹き飛んでも人的被害が出ないような場所を用意して下さい」
「……承りました。用意が出来次第、再び参上致しますので、これにて失礼」
頭を下げ、甘粕冬馬は退散する。
それを見た裕理も、真っ赤にした顔を伏せて今度こそこの場を後にする。
物騒な会話が飛び交っていたが、ここは学校の屋上で、今は昼休みなのだ。
授業時間を知らせるチャイムが鳴り響き、護堂も慌てて教室に戻るのであった。
「
一人残された女神さまは、ポツリと呟いて風と共に消え去った。
キスの描写って、どうしていいかわかんねぇ……