アテナのパスポートを受け取った次の日、休日の昼間。
ピンポーンという呼び鈴を受け、長男の護堂は玄関に向かう。
「お久しぶりです、護堂様!」
扉を開いての第一声を聞いて、思わず破顔してしまう。
「お久しぶりです、アリアンナさん」
遠路はるばるイタリアからやって来た、メイドの少女が大荷物を抱えていた。
護堂はアリアンナを中へ招き入れ、向かいのソファーに座らせる。
男の矜持として荷物を持とうとしたが、従者ですからと断られてしまった。
男の矜持と従者の誇り、勝利したのは後者である。
「わざわざご苦労様です、エリカが色々とやらかしたそうで面目ない」
共に腰を落ち着けて、まず護堂は謝罪した。
エリカが勝手に行動した事とはいえ、彼女のお陰で助かった部分は否定できない。
あのままの三つ巴では、有効打に欠けた不利は否めなかった。
であるなら、自分のために動いてくれたエリカの責任は自分が負うべきだ。
筋を通すのは男の務めと頭を下げる護堂。
「いえいえ、そちらこそ大変だったでしょう。エリカ様、朝に弱いですから」
「ええ、まぁ。今朝も中々起きなくて、揺さぶったら絞め殺されかけました……」
それを物ともせず笑顔で受け止め、エリカをダシに会話を流すアリアンナ。
主人を引き合いに出すその豪胆さ、まさにエリカ・ブランデッリの従者にして親友である。
その後、静花とも意気投合し共に台所に立つ姿は、まるで姉妹の様に思える護堂であった。
昼食後はエリカの世話をアリアンナに任せ、友人とのショッピングに出掛ける静花。
その様子を見て影響を受けたのか、アテナが急に出掛けたいと言い出した。
こうしてデートの誘いを受けることなど珍しいので、一も二もなく賛同する護堂。
イタリアの主従を自宅に残し、二人仲良く家を離れる事にする。
家の護りは、エリカがいるので心配はいらないだろう。
「いってらっしゃいませ、護堂様」
「たまにはアテナ様を
丁寧に頭を下げるメイド姿は、見慣れてなお込み上げる熱を感じる。
護堂とて年頃の男である。
浮気をするつもりは毛頭ないが、メイドさんに憧れる部分は致し方ないだろう。
トレードマークとすら言える赤い服で手を振るエリカも、流石の優雅さを醸し出している。
悪戯好きな彼女も本来は貴族の令嬢である。
だからこそあの性格に育ったとも言えるが、そのニヤケ顔は止めて貰いたい。
「行って来ます。夜には帰るんで、晩飯も食べますから」
「うむ、
静花より本日の台所を任されたアリアンナに向け、蟲惑的に微笑むアテナ。
こういう笑みを見ると、堕落の悪魔と象徴される蛇を感じさせる。
「承りました。まだまだ手慰み程度の腕前でございますが、腕を振るわせて頂きます」
しっかりと返答し再び頭を下げる従者を見て、女神は満足気に頷いた。
「では、往くぞ護堂。妾がエスコートしてくれる」
「そうかよ。なら、案内してもらおうか」
胸を張るアテナに鷹揚に頷く。
女神が後ろ手に髪を梳くと、それに沿うように銀髪が伸びる。
軽く首を左右に髪を振り乱すと、白いワンピースに包まれた肢体が女性的な丸みを増した。
「二度目の
「――仰せのままに、俺の女神様」
苦笑と共に白い手を取る。
暑い夏の日差しの中、左手にひやりとした冷たさを感じる護堂。
闇の冷気を宿すそれに、いつか熱情を灯してみたい。
護堂は人知れず野望を抱いたのだった。
(ふふふ……
人にはバレなくても、女神にはバレているかもしれないが。
繋いだ右手に力を込め、ひっそりと口元を釣り上げるアテナだった。
電車で近場の町まで繰り出した二人は、今や腕を組んで歩いている。
アテナが常の姿なら歩幅の違いから護堂も歩きにくかったに違いないが、ゴルゴネイオンによって真に女王の位を取り戻した乙女の姿なら、互いを思いやって進む余裕さえ生まれている。
アテナの容姿なら普通は目立つだろうが、そこは神の特権。
彼女の神力と特性を以て、集まるはずの人目を散らしていた。
「汽車の類は以前に乗ったが、あの電車というのはいけ好かぬ」
眉をひそめる彼女はやはり闇の女神。
大量の電力を消費して動く乗り物は、感性にそぐわないらしい。
(これでもライトとか車とかには慣れてくれたから、まだありがたい方か……)
都市機能を停止させる暴挙に出ないだけマシだろう。
「それで、まずは何処に行くんだ。俺をエスコートしてくれるんだろ?」
「静花と共に予定を組んだのだ、心配は要らぬ。向かうは水族館だ」
どうやらまともにデートプランまで組んでいたらしい。
アリアンナの到着と共に静花が出掛けたのは、どうやら予定調和だったようだ。
あの分では、エリカにも予め伝わっていたのだろう。
出立時のニヤケ顔はそういう事かと、妙な敗北感を覚える護堂。
そんな内心の移ろいを感じたのか、腕に絡みつく女神から呪力が刺さる。
「あなたの心中は妾で満たされていれば良いのだ」
どうやらエリカを思い出した事に妬いているらしい。
半目で睨む女神は微笑ましいが、護堂としては身体が戦闘的な意味で昂ぶるので止めて貰いたい。
「ごめん、気を付けるから」
「……心掛けよ」
プイッ。
澄まし顔で視線を前に戻すアテナ。
流石はメドゥーサとして美を讃えられた女神、仕草がいちいち愛らしい。
「ごめん」
「んっ」
護堂がもう一度謝罪を口にすると、鼻を鳴らして頭を差し出して来る。
右手を伸ばして頭を撫でると、くすぐったそうに声を上げた。
目的地の水族館は、もうすぐそこだ。
「へぇ、いい感じだな」
入館してみた所、思ったより内部は暗めだった。
通路に明かりは薄く、水槽の中から漏れ出る光の方が強いくらいだ。
だが、その照明の使い方がいいのだろう。
魚が水を優雅に泳ぐ様は、本当に綺麗だと思える。
「上手い物だ、見せ方に工夫を凝らしているのが解かる。海の子等は美しいな」
(お前の方が美しい、なんて今更だな)
薄く笑うアテナの横顔を上から眺め、口に出すまでもない事を思う。
代わりに言葉にするのは、頭の隅に浮かんだ疑問。
「そういえば、海とか魚は嫌いじゃないんだな」
機会がなかったので問わなかったが、前にも思った事はあったのだ。
彼女はアテナでありメドゥーサ、であるならば――
「察するに、あなたが引っかかっているのはポセイドンの事か? あれは確かに海を司る男だが、それとこれとは話が別、という奴だ。海は生命の大母、妾とて心惹かれる事もある。それに、今となっては別段気に留める事もないのでな」
ポセイドン――ギリシア神話において海と地震を司る神。
この神はメドゥーサと愛人関係にあり、メドゥーサから生まれた天馬ペガサスやクリュサオルは彼の子とされる。
コリントスで大地の女神として信仰されていた頃のメドゥーサとは夫婦の関係であり、古代ギリシア人に征服される事で神話が書き換えられたようだ。
そしてアテナとはアテナイの地の支配権を巡り争ったとされる。
彼女の根幹はメドゥーサではなくアテナなので男女関係は横に置いておくが、争ったことの遺恨があるのではないかと護堂は勘ぐっていた。
が、杞憂に終わったらしい。
否定する彼女に恨み辛みは見られなかった。
「そっか、ならいいや。折角来たんだから楽しませてもらうよ」
「無論だ。妾がいながら、興が乗らんとは言わせぬ」
得意気な顔で腕を引くアテナに、護堂は大人しくエスコートされるのだった。
次で過去編の回想を始める予定。