アテナに連れられて水族館に来た護堂。
腕を引かれて中を進んで行くと、大型の水槽が見えてくる。
通路を抜けると一気に視界が開き、巨大水槽に囲まれたフロアに出た。
「おお~。小さい魚でも、これだけ大量だと圧巻だな……」
精々が体長五十センチといった魚だが、それらが列を成し軍団で動くとひとつの巨大な生物のように思える。
向かって右に進んでいたかと思えば、急に左を向いて泳ぎだす。
先頭と後尾が入れ替わる様は、龍の
「ん、こちらに向かってくるアレはジンベイザメという奴ではないか?」
アテナが指差した先には、確かに巨大な魚影が近付く姿があった。
ジンベ
灰色の巨体に腹部は白の割合が強く、胴部にはチェス盤にも似た斑点と格子状の模様を持つ。
頭部は平たく、大きな口の両端に目があるその巨体は、現生最大の魚としても有名だ。
海洋生物の知識に明るくない護堂も、有名なその存在は記憶していた。
「アレがジンベイザメか……そういえば水族館でサメって、他の魚を食ったりしないのか」
目を丸くして水槽を眺めていた護堂は、ふと思い浮かんだ疑問をそのまま口にする。
その答えは、隣の女神から返ってきた。
「元来
そう、今でこそサメには恐ろしいイメージが付き纏うが、実態は言うほどではない。
もちろんいざとなれば餌を求めて獰猛に海を往くが、満腹の状態で
人を標的として襲い喰らうのは、サメの中でも
「此処のサメ達は飼育されている。腹を満たす餌が勝手に用意されるのだ、わざわざ狩りをする必要もないのであろうよ」
某人食いザメ映画で登場するホオジロザメのイメージが先行した結果だろう。
百獣の王と称されるライオンが草食獣に負ける事も珍しくないように、イメージや認識というのは恐ろしいものだ。
これは、神にも通ずる道理である。
『神』とは、超自然の現象を古代の人々が型に嵌めたもの。
型に嵌め性質を既知とする事で、災厄をやり過ごし繁栄を呼び込むための知恵。
『まつろわぬ神』とは、そうして形作られた神話より抜け出た存在。
故に、神話にまつろわぬ神と呼ばれるのだ。
地上に顕現したまつろわぬ神は、降臨時の神話伝承を元に肉付けされる。
例えばそう、先日護堂がジークフリートとシグルズの関係を紐解いた。
彼らは同じ起源を持ち同じ流れを汲む英雄だ。
つまり、異なる神格だが元となる神性は同じ。
サルバトーレがジークフリートより鋼の権能を簒奪したが、もし招来されたのがシグルズでも同じ権能を得られたか。
得られなかったであろう。
シグルズに《鋼》としての相は乏しい。
元となった伝承が、人々の認識が枝分かれした別物となっているからだ。
神は人を歯牙にも掛けない、掛ける価値もない羽虫のような認識しかない。
まるで象と蟻だ。そこにいるのは解っているが、踏まないようにするのは難しい。
しかしその実、どちらが蟻でどちらが象か。
人々の暮らしに、神は必要ない。
神が在るには、人が不可欠。
所詮は神など、人々の認識に左右される程度の不確かでか弱い存在でしかないとも言えるのかも知れない……
ジンベイザメの巨体を仰ぎ見て、水族館を堪能した護堂とアテナ。
一通り館内を見て回った二人は、一度休もうと休憩スペースに足を運ぶ。
護堂は紙パック飲料の自動販売機で牛乳といちごオレを買い、ベンチで足をブラブラと遊ばせるアテナの隣に腰掛けた。
「アテナは
「流石は我が夫、妾の好物を良く熟知している」
顔を綻ばせたアテナはピンクのパッケージをしたそれを受け取る。
紙パックの裏側を向けるとストローの頭に爪を立て、尖った先端をビニールの袋から押し出す。
白いそれから透明の先端を抜き出すと、頭頂部の刺し口に突き刺し銀色の膜を破る。
ストロー上部の波打った部分を引き伸ばして折り曲げ、遂に
「ちゅー」
一連の動作が堂に入り過ぎている。
女神はしっかりと現代文明に馴染んでいた。
隣の護堂も同じ動作で飲み始める。
共に一息ついて、再び会話に入った。
「水族館なんて初めてだけど、意外に楽しめるものなんだな」
「妾が隣で案内してやったのだ、当然であろう」
既視感の沸くやり取りに、顔を見合わせ声を上げて笑う。
間に流れる和やかな空気は、まさにカップルのデートそのものと言えた。
「そういえば温帯・熱帯海域に生息する
「ふむ、それはまた異様な。蛇は脱皮によって生まれなおす様から不死の象徴となった。ならば不死そのものを体現するクラゲが神性を得れば、いったいどのような神が生まれるのであろうな」
「見てみたい気もするけど、実際に顕れるのは遠慮してほしいかな……」
言いながら苦笑を零す護堂。
もっともこのように、会話の内容は些か場にそぐわないものであるようだが。
そんな調子で会話を続けていた二人だが、次の発言を聞いて護堂は少し居た堪れない気持ちになった。
「サメって思った以上に大きかったなぁ」
「あの種類がそうなのであろう。前にテレビで見たのは、あれより余程小さな体長をしていた」
出会った頃はあれほど現代文明を毛嫌いしていた彼女。
こうして共に暮らせている事は喜ばしいが、俗世に染まりすぎてしまったのではないかと。
先日も静花と共にテレビドラマをじっと観賞している姿を目撃した護堂は、かつての威厳溢れる女王を堕落させてしまった事に自室で頭を抱えた事実がある。
それほど情けない顔をしていたのだろうか。
隣に座るアテナが振り向き、斜め下から護堂の顔色を伺う。
「ん、どうした護堂?」
「……いや、何でもないよ」
紙パックのいちごオレをストローでちゅーちゅーと吸っているアテナを見て、護堂はその葛藤をスッパリと切り捨てた。
(うん、もういいや。だって可愛いし)
諦めた、もしくは開き直ったとも言える。
それを指摘する者がいなかったのは、幸運だったのかどうか。
瑞々しい唇に折れ曲がったストローの先を咥えて右側に小首を傾げる淡い水玉のワンピースを纏った大人アテナは殺人的に可愛いのでなにも問題ない。
(あの時から考えれば、冗談みたいな状況だよな……)
自動販売機で買ったジュースを美味しそうに飲み干すアテナを見て思う。
市販の飲料を初めて飲んだ時、甘味料が濃すぎると渋い顔をした彼女。
ギリシャの地で再会したのは、護堂が神殺しとなった翌日の事だった。
それは、草薙護堂が神殺しの王となった後。
「ママだよ~!」
果てまでの全てが灰色で、空も大地も同色のため地平線が見えない世界。
そんな空間に浮かぶ、二つの特異点。
内の一つは、草薙護堂。
身に付けた衣服はズタズタに裂かれ、ところどころが焼け焦げている。
しかし不思議な事に、その下にある身体には傷一つとして付いていない。
もう片方は今しがた声を発した女性。
髪色はストロベリーブロンド、というのに近いだろうか。
自然では有り得ない濃度のピンク色をしたその頭髪を左右で括り、薄く微笑みを浮かべる幼い――幼く見える神秘的な女性。
神秘的にして蟲惑的。
白い薄布のドレスがその色香を際立たせる。
『女』――
幼く可愛らしい容貌で、纏う空気は軽い物だ。
しかし、その幼さに反して――否。
幼さが色気を際立たせた、美の女神と称するに相応しい少女であり女性。
護堂に笑いかけてくるのは、そんな女の化身であった。
「……はい?」
護堂は混乱した。