1
時は九月の半ば、十四歳の少年が中国より入国した。
適度に伸ばしているが整えられた黒髪。
生来は色白なのだろうか、日焼けした肌からは判別し辛い。
しかし見る者が見ずとも分かる事はある。
一見して特徴的なのは手だろう。
広く分厚い
幾度となくマメが潰れた跡などからして、明白な来歴がひとつある。
彼は武術家だ、それも幼い頃から鍛えられている。
人波を物ともせずに通り抜ける身のこなしからしても、その実力の高さは垣間見えるだろう。
少年が成田空港発の巡回バスに乗って程なく、その隣にいつしか亜麻色の髪の少女が座っていた。
それは天使にも似た美貌の白人。
しかしその容姿の無垢な印象は、殺意と邪念に満ちた凶相に打ち消されている。
それは報復であり征服の意思。
天使では決してありえぬ、憎悪に濡れた女の妄念だった。
「おいおい
「つまらん。なぜ妾がこんな窮屈な思いをしなければならんのだ、さっさと飛んで行けばよいではないか」
得体の知れない少女に臆すこともなく、少年はふてぶてしい笑みを浮かべる。
どこか小馬鹿にしたような、可愛げのないヒネクレた笑い方だ。
「馬鹿言わないでくれ。下手打って早々に見つかったら、師父の折檻が酷くなるだろ?」
「ふんっ、軟弱な小僧め」
言って、少女は再び姿を消した。
チラリとその後を認めてから、彼はひとつため息を吐いた。
「僕はあんたの手下じゃないんだってぇの。やれやれ、乗っけから面倒になりそうだ……」
とは言え、文字通り神より怖い師からの命令には逆らえない。
香港出身の武侠、
同じ頃、草薙護堂の学校生活は元の落ち着きを取り戻していた……とも言い難い。
この数日、彼の周囲は騒動続きで騒がしい。
原因はもはや言うに及ばぬ転校生、護堂の妻と名乗りを上げた女神様である。
自然と教室中から質問攻めに遇い、昼休みと放課後には生徒指導室で事情聴取という不名誉な事態と相成った。
教師陣にも生徒たちにも「入籍前なので正確には婚約者」という事情を説明し理解しては貰えたのだが、それとこれとは話が別とばかりに嫉妬やら羨望やらで針のむしろ状態。
周囲の攻撃ならぬ口撃や激励などを躱しつつ、素知らぬ顔で
それも今日あたりでようやく収集がついてきたといった所だ。
好奇心旺盛で、やや世間知らずな所がある箱入り娘。
同級生たちのアテナの総評はこんなところだろう。
女神も斯やという――実際に女神だと知る者は校内に数人しかいないが――容姿も相まってファンクラブが設立されたとの話も耳にしたが、まあ実害がなければ何も言うつもりはない。
常連となった屋上の定位置に腰を落ち着け、ようやく一息ついた。
共に連れ立ってきたアテナも、それに倣い隣に座る。
それぞれ片手に弁当を下げており、ここで昼食を摂るつもりだった。
「疲れたか、護堂」
「当然だ。ああ何度も来られると、流石に辟易もするさ」
敢えて所々で煽っていた事に文句は言わない。
素直に聞き入れる性格もしていないし、あれはあれで共同作業染みて楽しかった部分もある。
それにしてもと、護堂は隣に眼を向ける。
透き通るような銀髪の上に猫耳を思わせる特徴的な青い帽子。
まだ残暑が厳しい季節のため、半袖で薄手な制服を身に付けている。
恋人と揃いの制服を着ているというのは、中々に心を揺さぶられる物がある。
幼い頃から友人は何かと多かったものの、恋人や彼女という者には
野球を止めて高校に入ってからこんな状態になるとは、夢にも思っていなかった。
しかし恋人と同級生というシチュエーションに加え、絶世の美貌を持つ少女が相手と来ている。
ふとした拍子に思わず顔がニヤけそうになるのも無理はないだろう。
……などと頬を緩める護堂だが、女性に縁がなかったなどと思っているのが本人だけという実情は、それこそ周知の事実である。
その辺は少年少女と交流を持ち始めたアテナも知ること。
しかし彼女は、それもまた可愛い所などと惚気けていたりする。
明日香などはそれこそ何時か刺されてもおかしくないと危惧していたりもするのだが、この男が刺された程度で死ぬはずもないので大丈夫だろう。
「それでアテナ、学校生活はどんな感じだ? 楽しんでるか?」
「ああ、中々に新鮮な体験だ。だがひとつ思うのは、やはり現代は文明が進み過ぎているという事か」
女神アテナの出自たるギリシア神話が栄えたのは紀元前の時代だ。
例えば数学の授業で習うような計算術は当時、そもそも計算法どころかその用途が存在し得ない。
複雑怪奇な式を使う必要もなく、ゆえに編み出される事などなかった。
現代社会は余計なもので溢れているというのは、誰も否定することが出来ないだろう。
――人類は蒸気機関の発明から堕落した。
カンピオーネの中にはそのような持論を持つ者がいるが、当時から時代の流れを俯瞰し続ける程に長寿ならばそう思うのも致し方のない事である。
極論を言えば、文明とは即ち余録だ。
人類の持つ知性とは本能の妨げであり、生きる上では余分となる事もある。
誇りや矜持に命を賭ける者がいる。
それらを虚飾や欺瞞と忌避する者がいる。
主義主張がすれ違い、闘争に発展する事もある。
「でも、だからこそ通じ合うものがある。それが人類の『今』だというなら、それを悲嘆する事はないさ。過去は変えられないし、
「……かつてはお前ともそうであった妾には、確かに否定できまいよ。ならばこの身の滅ぶまで、その行く末と共に在ろう」
古き守護神の神格として、それも間違いではないのだろうから。
それは神話にまつろう道か、或いはそれからも外れる道か……
意図せずしんみりとした会話に区切りを付け、両者は弁当を広げていた。
包みを下敷きにして蓋を開け、二段重ねになった容器を分ける。
箸入れから中身を取り出し、親指の付け根に挟んだまま両手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます」
余談だが、アテナはこの動作が痛く気に入っている。
己の血肉となる食材に感謝を捧げ祈るという行為。
恵みを
日本人は良い事を考えるものだと、当初は感心すらしていた。
こうして食材たちと作り手たる静花に感謝を捧げ、二人共に同じ内容のおかずに箸を付ける。
まずは程よい焼き色の玉子焼き。
弁当のおかず用に小さく作られたそれから。
片側を摘むとそのまま持ち上がった。
どうやら食べやすいようにと、半分に切っていたらしい。
この気遣いが静花の魅力だ。
口に運びもぐもぐと
瑞々しさと風味からして、どうやら和風ダシが混ぜられていたらしい。
ご飯を一口食べて舌を整える。
続いてはおかずの大部分を占める焼き鮭。
薄めの切り身を焼いたあと、詰めやすいように三等分されている。
これも塩加減が丁度良く、ご飯を口にしてコクコクと頷く。
そうそう、これが美味しいんだよ。
とでも聞こえて来そうな動きだった。
次に味わうのはほうれん草のお浸し。
他に飛び散らないように、擦りゴマを使っているのが嬉しい。
口に入れた瞬間に広がる微かなゴマ油の香り。
これも出汁が染みていてご飯が進む。
……ちなみに、ここまでまったく同じ動作である。
この後も同じタイミングで食べ終わり、同じタイミングで手を合わせ。
仲がいいどころか以心伝心とさえ言える光景が広がっていたのだった。
後半にイチャイチャ描写入れようとしたら、何故か弁当の描写に……
この時間だから飯テロにはならないよね?