十月に入ってすぐの連休の初日。
九法塚から寄せられた日光へ向かう送迎車の車中。
左側後部座席でむすっとした顔の女神が呟く。
「護堂、狭いぞ」
中央に座る護堂に押されて窮屈そうなアテナだが、それには当然理由があった。
護堂を挟んで反対側に座るひかりがにじり寄って来ているためだ。
助手席に座る裕理がそれを見とがめ声を上げる。
「す、すみませんアテナ様。ひかり! あまり草薙さんの方に押しかけないの!」
「良いって万里谷。ひかりも、縮こまらなくて全然いいんだからな。アテナは我慢してくれよ。一緒に行くって言ったのはお前なんだから、万里谷に気を遣わせるなよな」
最愛の妻と小学生の少女。
傍目には同じ年頃の両者だが、中身はまるで違うし護堂との続柄も同じく。
アテナの同行が事後承諾だったこともあり、優先すべきは幼い少女の方だと判断した。
「…………むぅ」
そんな心境を読み取ったのだろうか。
アテナは文句こそ言わないが膨れっ面が悪化している。
その様もまた可愛く思えて、ついつい指で頬を突いてしまう。
「むっ……はむっ」
「うぉっ」
――指を噛まれた。甘噛みだ。
そのままじっとりとした眼付きで見上げられ、護堂は言い知れぬ危機感に突き動かされて指を引き抜く。
(危なかった。何がどうとは言わないが、あのままじゃなんだか危なかった)
好きな娘を苛める背徳と、好きな娘に蔑まれる愉悦。
妙な道に足を踏み入れる前に引き返せたのは良かったのか悪かったのか。
ひとつ言えることは、彼がこれから先もこの選択を突きつけられるだろうという事だ。
護堂がハンカチを取り出して手を拭いていると、反対側から視線を感じた。
振り向くとひかりがキラキラとした眼差しを向けている。
「お兄さまとお姉さまは本当に仲がよろしいんですね!」
……どうやら一連のやり取りで興味を引いてしまったらしい。
「お二人はどこで知り合われたのですか?」
「護堂と初めに顔を合わせたのは家の近くだったな。最も、知り合ったと言えるのは妾の生国、ギリシアの地であったが」
「どういった経緯でお付き合いされたのでしょうっ?」
「妾に一目惚れした護堂が追いかけて来たのだ。初めは戸惑ったが、今はこの関係を気に入っている」
「じゃあじゃあ、どんな告白だったのですかっ!?」
「中々に情熱的であったぞ。たしか――」
護堂は思う。
仲良くなるのはいいが、自分を間に挟んで恥ずかしい話をしないでもらいたい。
いや、それよりもだ。
「流石にそれは勘弁してくれよっ!」
過去の言動を思い返して羞恥に手で顔を覆う始末。
それを見て溜飲は下がったのか、アテナなりの仕返しはお仕舞いとなった。
「そこは勘弁しておいてやろう。せっかく護堂に贈られた言の葉だ、妾の胸に仕舞っておくべきだろうからな」
「ふわあぁ……大人ですぅ」
耳年増なひかりは尊敬の眼差しを向けているようだ。
羞恥に悶えていた護堂だが、ドヤ顔のアテナが可愛かったのは覚えている。
もはや末期である。
到着後もひかりは護堂にくっついて回っている。
右にひかり、左にアテナの構図が、後ろを歩く裕理の目に慣れて来ていた。
「お兄さまお兄さま! 見てください、お猿さんですよ! ちゃんと
「あれ? 見ざる言わざる聞かざるじゃなかったのか……」
幼いとはいえ本職の巫女の言であるため、覚え違いだったかと恥じ入る護堂。
それに横合いから祐理がフォローを入れる。
「確かに三猿の元となったのは
非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、非礼勿動。
孔子の論語にある一節だ。
――礼にあらざれば視るなかれ、礼にあらざれば聴くなかれ、礼にあらざれば言うなかれ、礼にあらざればおこなうなかれ。
こうした教えが天台宗の僧侶により日本に運ばれたと言われる。
そして三猿の構図もまた、古代エジプト周辺に見られる事からシルクロードを伝って中国に、当時の中国から日本に伝わったという。
有名な
話していて興が乗って来たのか、祐理の勢いは止まらない。
「この三猿は本来、神厩に描かれた物語の一部なんですよ。三匹の猿は物語の二番目ですね。子供は悪いことを見たり聞いたり話したりしないで、素直な心で成長しなさい、という教えが描かれているそうです」
ひかりも見習いなさいと言い聞かせる祐理だが、肝心のひかりはそっぽを向いた。
「お姉ちゃんの言う事なんて聞かざるですぅ~」
「っもう!」
妹のお転婆な様子に癇癪を起こしながらも話を本筋に戻す。
「まず子の将来を案ずる母、次に今言った三猿、一人立ちしようとする子、立身出世を夢見る『青雲の志』の図、挫折しながらも友に励まされる図、思慕の情に惚ける図、想い伝わり伴侶を得て、子宝に恵まれ最初に戻る。そういう人生の手本を現しているとされているのです」
一息に口を動かして説明する裕理。
心なしか得意げな顔をしているように見える。
そんな姉に近寄り、背伸びして耳元に顔を近付ける少女がひとり。
「……お姉ちゃんも見習ってお嫁さんにしてもらおうね」
「……な、何を言うのひかりっ!」
チラリと護堂の顔を窺いながら耳打ちされた言葉に顔を真っ赤にして慌てた。
そんな祐理の反応を面白がっているひかりは、まさに小悪魔という言葉がよく似合うだろう。
小声でじゃれ合う仲睦まじい姉妹に触発されたのか、アテナが左腕に抱きついて話に加わって来る。
「猿の
「大陸って中国か? 英雄で龍を降すっていうからには《鋼》なんだよな、でも流石に中国の神様は分からないぞ」
「……いえ、お待ち下さい草薙さん。彼の神が活躍する唐代伝奇は、日本においても相当な知名度を誇る大英雄です。恐らく名前くらいはご存知かと」
道中で護堂より伝え聞いた《鋼》の封印という事柄を思い返し、祐理は戦慄と共に立ち竦む。
魔除けの龍殺し、猿の闘神、不死身を持つ厩番の英雄。
龍馬と共に旅した中華の大英雄とくれば、真っ先に浮かんでくるのは
姉が言い淀んだその神のあまりに有名な称号を、ひかりはそっと護堂の手を取り言い放つ。
「天界より厩番たる
斉天大聖・孫悟空。
西遊記にその名を刻む中華大陸の大英雄である。
「――孫悟空ッ!? それが封印されてる神様の名前なのか?」
「うむ、沙耶宮とやらに伝え聞いたそれが正しいとするならばな」
「って沙耶宮? なんか聞いた覚えがあったような……」
「沙耶宮家は九法塚家や清秋院家と同じ四家の一角ですから、恵那さんあたりから聞いたのではないでしょうか?」
「……ああっ! そうだ、前回の件で清秋院と話してた時に聞いた気がする。たしか、沙耶宮――馨さん、だったっけ?」
「確かそのような名であったと記憶している」
いつか清秋院恵那から聞いた名前に驚く護堂。
出てきた名前にというより、アテナの口から出てきたという事が何よりの驚きだ。
「お前その人に会ってたのか?」
「これまで幾度か顔は合わせているぞ。イタリアからの帰国後、妾を学校へ編入させた時に挨拶に来たゆえな」
いずれはお前にも面通しをしたいとも言っていた、との言伝をアテナより受け、護堂もまた件の女性を頭の一角に留めおいた。
とまあそれはさておき、今はまず目の前の事である。
孫悟空が蛇退治の守護者として封印されているという厄介事だ。
護堂の勝手なイメージとして、悟空といえば悪戯者という印象が強い。
本当にひかりを預けて大丈夫なのかと不安に苛まれる魔王であった。
アテナ様のはむはむを描いている時ですが、自分で想像してゾクゾクしてしまいました。
その時の私は客観視するまでもなく変な人だったと思います。
パソコンに向かってニヤニヤしていたかと思いきやブルブルと震えだすんですもの。