女神を腕に抱く魔王   作:春秋

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 護堂はひかりと裕理に連れ添って、不可思議な空間を彷徨っていた。

 古びた祠と桃木を起点とした封印。注連縄(しめなわ)で囲まれたそこでひかりの力を振るい、祠を通った暗闇の中。どこへ続くとも知れぬ、何も見えぬ道をどれほど歩いたことだろう。(はぐ)れぬようにと繋いだ両手が、既に相当の熱を持っている。

 同級生の少女と手を繋ぐ照れから来る体温の向上もあるのだろうが、前の見えぬ不安による緊張から来る疲労もあった。

 時間の感覚が薄れた中で、右手を握る裕理が言葉をこぼした。

 

「草薙さん。お気づきですか、私たちはいま幽世を歩いているようです」

「幽世? っていうと例の、生と不死の境界とか言うアレか?」

「はい、黄泉平坂(よもつひらさか)とも呼ばれる狭間の世界。恐らくいま進んでいるこの道は、現世と幽世を繋ぐ回廊なのでしょう」

 

 幽世、生と不死の境界とは、人界と神界の間に横たわる世界。以前スサノオと顔を合わせたのもまた、この幽世と呼ばれる場所だった。

 

「黄泉平坂とか言われると思い出すのは、見るなのタブーって奴だよな。互いの顔も見えないのって、そういう意味があったりするのか?」

 

 半ば独り言に近いそれだったが、反応したひかりが左手を引く。

 

「イザナギがイザナミを追って黄泉の国へ行った時のお話しですね。イザナミの制止を無視して醜く腐った顔を見てしまったために、イザナギは独り黄泉路を逃げ帰る事になってしまった」

「そう、それのこと」

「どうでしょうか。この回廊は神君、斉天大聖さまの元へ赴くためのものですからね。西遊記にそのようなお話はなかったはずですけど……」

 

 むむむ、と考え込んでしまったひかりに代わり、今度は祐理が話しかけて来る。

 

「見るなのタブーと言われるのは、ギリシア神話のオルフェウスなどにも見られる禁室型神話ですね。他には旧約聖書の塩の柱に、蛇の女メリュジーヌ、草薙さんにも縁深い女神パンドラと災厄の箱のエピソードも、この一種だと考えられています」

「そういえば、パンドラは神殺しの支援者なんだっけか。転生の時に会ったきりだから、あんまり覚えてないんだけど……」

 

 うっすらと記憶に残っているのは自然界ではありえない色彩の髪に、妙な呼び方を強要された気がするという困惑くらい。他にもなにか重大な事を吹き込まれたような感覚もあるが、今の護堂が思い出せるのはその程度のものだ。

 そうして頭を悩ませていると、いつの間にか暗闇は終わりを告げた。光の漏れる四角い出口を抜けると、そこは粗末な小屋の中だった。

 

「……馬小屋?」

 

 そう、そこは木造の馬小屋だった。厩舎、と言った方が威厳があるだろうか。

 孫悟空は天界から厩番たる弼馬温の位を授けられた英雄神。彼を封じる呪法の名にも冠されるそれは、ある種彼の代名詞と言ってもいい。本人はそれを嫌って返上しているが故の名だろうから、これは皮肉とも取れる。

 外を見てみると、青空の下に中華式の宮殿がそびえ立っていた。宮殿の敷地内にある厩舎がここのようだ。紫禁城も斯くやという威風に呆然と立ち尽くしていた護堂だが、ひかりの上げた声が彼の意識を引き戻す。

 

「お兄さま! 干し草の上にお猿さんがいます!」

 

 声に釣られて視線を向けると、一匹の猿が寝転がっていた。

 

「――――ッ」

 

 金毛の猿。猿猴。間違いない、コイツはまつろわぬ神だ。

 

「あんたが猿猴神君か?」

「応ともさ! 我が宮殿へようこそ。何分久方ぶりの客人なのでな、神殺しとて大歓迎だ」

 

 飛び起きた猿は身の丈80センチ程度。猿としては一般的な大きさだが、軽快な仕草と明るい声から人間の子供にすら思える。

 

「と言っても、我にはもっといかした本名があるんだがなぁ。その呼び名も仰々しくて嫌いではないのだが、やはり己の名は特別じゃて」

 

 斉天大聖・孫悟空。

 天にも斉しく、空を悟る。なるほど、言うだけあって大それた名前だ。見栄っ張りな神様としてはそちらの方がいいのだろうが、封じられた本名を軽々しく呼んでは支障をきたす。と、道中に祐理から忠告されたからには飲み込んでおこう。

 事は早々に済ませるべしと、この場にやってきた本題を持ち出す。

 

「今日ここに来たのは下見でさ、この女の子があんたの巫女をやるか悩んでるんだ。すぐに役目に就くって訳じゃないんだけど、先に内容は知っておいた方がいいだろうからさ」

「おお、そういえばこのところ、巫女さんが遊びに来んと思っとったんじゃ」

 

 まあかれこれ百年は空席だったらしい役職であるからして。

 と、それよりも遊びに、だと? 疑問に思った護堂はすぐさま聞き返す。

 

「遊びって?」

「なんじゃ、知らんのか? 我の巫女は遊び相手を務めるのが習わしでな。談笑やら双六やら鬼事やら……おおっ! 一度腕っぷしの強い巫女さんとチャンバラをした事もあったか。とは言え我も《鋼》の端くれ、封じられておるとて人間の小娘には負けなんだがな!」

「巫女の仕事って遊び相手なのかよ。なんか拍子抜けっていうか、名ばかりっていうか……」

 

 干し草の上でふんぞり返る子ザルに神の威厳など欠片もない。西天宮の媛巫女というのは、斉天大聖を猿回しの猿扱いするのが仕事らしい。

 

「ふんっ。この孫様を良いように扱き使っておきながら、その程度の賦役(ふえき)で勘弁してやってるんじゃ。むしろありがたく思わんかい」

「扱き使って?」

「昔取った杵柄で我にあの蛇を追い払えやら、あの竜を退治しろやら泣きついて来るではないか」

 

 この言葉を聞いて、事の全貌が護堂にも見えて来た。

 スサノオの入れ知恵で封印された英雄神、孫悟空。その捕らえた《鋼》の神を竜蛇避けとして配置することで、この国のどこかに眠る最後の王を起こさないように護っているという話。そこに九法塚家と西天宮の媛巫女を組み込めば、仕組みはおぼろげながら理解できる。即ち、禍祓いの力によって封印を弱め、猿猴神君を斉天大聖に戻して竜を倒させるという手法が。

 すべての肝は禍祓いの巫女にある。

 神の助力により成った封印を、人間の巫女程度が打ち破れるはずはない。しかしそれでいいのだ。封印を破る必要などない、ただ少し手綱(たづな)を緩めるだけでいい。時が経てば巫女の呪力は薄れ、自然と封印による枷が掛かるようになっている。

 嫌に巧妙な手口だ。護堂は仕掛けた者の悪戯心のようなものを感じ取り、若干の辟易を覚えた。

 

「これまでに三度ほど外に出て暴れたんじゃったかな。最後にやったのは確か、あんたと揉めたときだったかね?」

 

 え? 覚えのない護堂は困惑するが、背後から聞こえて来た声には驚愕した。

 

「ええ、あれはわたくしたちの暦で百年近く前の事です。東京(とうけい)にて狼藉(ろうぜき)を尽くした竜神に振るった技の冴え、この眼に焼き付いております」

 

 どこからか響く女人の声、音楽的な美しさを宿す涼やかな美声だ。

 人影は見えない。しかし、確かに何か(・・)がそこにいる。

 神君の視線を辿ったがそこには誰も――否。人影はなかったが、確かに生命の輝きがあった。

 蜥蜴(トカゲ)だ。一匹の蜥蜴が悠然とこちらを見下ろしている(・・・・・・・)。実に堂々たる姿をしたそれは、小さな爬虫類の枠に納まるような存在ではなかった。

 護堂の身が震える。猿猴神君を前に感じた昂ぶりを超える、恐怖と高揚。武者震いだ。身の内に眠る翼持つ白馬が、高位に坐する王者への恐怖を訴える。身の内に宿す黄金の剣が、尋常ならざる敵手と見えた高揚に奮える。

 そして、震えていたのは護堂だけではない。彼以上の恐慌に震えていた裕理が、蒼白な顔色のままで口を動かす。

 

「あ、あなたはまさか――!! そんな、どうしてこのような場所に――ッ!?」

 

 カタカタと歯を鳴らす彼女に、普段の上品な所作は見る影もない。かつて彼女がこのような反応を示した例を、護堂はひとつだけ知っている。苦渋の思いと共に記憶を掘り起こした護堂は、そっと裕理の肩を抱き寄せる。

 彼女は盛大に身を震わせたあと、それが護堂だと知って呼吸を落ち着けた。

 そう、万里谷裕理がこうまで怯えた相手は彼の知る限りにおいてただ一人、神殺しの魔王、草薙護堂その人である。ならば、この蜥蜴の正体も(おの)ずと知れる。

 

「ほう、この国の媛巫女とやらですか。流石は神祖の末裔(すえ)の娘、よい()を持っているようですね」

 

 音を紡ぐと同時、蜥蜴はその姿を一変していた。漢服を身に纏う女人。絶世の佳人と呼ぶに足る、黒髪の乙女である。

 美しい。護堂は思わず目を奪われた。

 その衝撃はアテナに見惚れたあの瞬間以来だろう。女神と並べて見劣りしない天与の美貌。羽織り状の上衣も合わせて、まさに天女と呼ぶに相応しい彼女こそは――。

 

「おぬし、名を何と言ったかね? 同郷の神殺しよ」

「あなたの記憶に我が名を刻み込めなかったかつての未熟さ、まことに口惜しく思います。ならば此度こそこの名を刻み、そして死と共に忘却させてあげましょう」

 

 猿猴神君を正面から見据え、美麗な唇が冷たく宣う。

 

「我が性は羅、名は翠蓮、字は濠。五嶽聖教の教主にして、武の頂点に君臨する者です」

 

 恐るべし魔教教主、羅翠蓮。

 草薙護堂が新たに出会ったカンピオーネは、苛烈にして壮絶なる乙女であった。

 

 

 





16/8/18
教主の名前についてですが、結局「羅―翠蓮―濠」にしました。
お騒がせして申し訳ありません。

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