細々とでも続けていきたいと思います。
――草薙護堂は、未だ神殺しにあらず。
イタリアの南端、地中海に浮かぶリゾート島。それがサルデーニャ島である。島の面積は日本の四国と同程度だが、人口は三百万を超える四国と比べ僅か十五万前後で、その大半が最大都市のカリアリに集中しているという。そのため周辺の海や島の自然はほとんど手付かずで、リゾート地として大人気、という訳だ。
これは全くの余談になるが、サルデーニャ島で使われている言語は公用語こそイタリア語だが、なんとサルデーニャ語という独自の言語が存在しているらしい。同じラテン語を起源とするものの決してイタリア語の方言・変種という訳ではなく、スペイン語やフェニキア語からの影響を受けた言語であるそうな。
という枝葉の話はさておき、そんなサルデーニャの地に護堂は足を踏み入れていた。
きっかけは祖父の元にとある品が届いたこと。
概要としては、長方形の古びた石板である。両手足を鎖で縛られた人間。羽を広げた鳥。太陽。星。酷く稚拙な絵で、テレビで見る古代壁画を切り取ったらこんな感じだろうか、と思うような代物だ。全体的に摩耗し、所々に焦げ跡のような染みも見て取れる。
一言で言い表すのならボロボロの骨董品。なのだが、この有り様でも不思議と頑丈らしかった。
そんな石板は過去、二十名もの人命が失われた怪死事件のおり、祟りと恐れられたそれを鎮めたなどという曰く付きの代物らしく、元の持ち主に届けたいが郵便などで送る訳にもいかない。さりとて護堂の祖父本人が届けようにも、凡そ外に漏らす訳にもいかないやんごとなき事情のため叶わず。そうして孫の護堂にお鉢が回って来たので、中学の卒業式を終えてからの春休みを利用し、こうしてイタリアくんだりまでやって来たという事と次第。
いま護堂が歩いているのは先の都市カリアリ。島の南に位置する港街で、紀元前八世紀頃のフェニキア人が街を築いたとされるほどに由緒ある古都だ。そんなところだから路地裏のカフェ(イタリアではパールというらしい)で食事を摂ったあと、地図を片手に街中を観光しているのである。そして。
護堂がその少年と出会ったのは、海辺を歩いていた時だった。
「××××、××、××××××……××××××」
聞きなれない言葉が耳をくすぐった。
イタリア語でもなければサルデーニャ語でもない。護堂自身はそれらの言語を習得していないが、喋っている言語が同一か否かはイントネーションで判別できる。だからと言って英語でも中国語でもなく、もちろん日本語でもなかった。
疑念を覚えつつも振り返れば、立っていたのは少年だった。
否、立っていたのは
「×××、××××××?」
次いでかけられた声に、護堂はハッと我に返る。
そうだ、話しかけられていたのだった。何をやっているのだと内心で
「悪いな。あんたの言葉だけど、俺には全然わかんないや」
相手の言語は分からないのでは仕方がないので日本語で言って、大げさに肩をすくめてみせる。
たとえ言葉が通じなくても身振り手振りのボディランゲージで意思の疎通はできるものだと、護堂は幼少の頃からの海外旅行で知っていた。だから驚いたのは、この後。
「おお、そうか。すまぬことをした。ではおぬしの流儀に合わせるとしよう、これで通じるであろう?」
思いっきり流暢な日本語だった。
これには護堂も絶句する他にない。流石に予想もしていなかったし、出来たとしても驚いただろう。まさかこの
ともあれ、少年は護堂の驚愕など気にも留めず、朗々と己の要件を口にする。
「なに、たいした用があったわけではないのじゃがな、おぬしの身体にまとわりつく妙な匂い――いや、妙な気配と言うべきかの。それがどうも気になっての、ひとつ声をかけてみたという訳なのじゃ」
「匂い、気配って言われてもな……もしかして幽霊とかそういう話か?」
「幽霊、死者の念か。うむ、そのような気もするし、些か見当違いのようにも思える。まあ思い当たる節がないというのであればよい。出会い頭に妙なことを訊いてしまったのう」
全身で困惑を表現する護堂に対し、少年は朗らかな態度を崩さない。
「許せよ少年。悪気はなかったのじゃ」
「全然謝ってるように聞こえないぞ。おまけに少年って、見たところ似たような年だろうにさ」
日本人は童顔に見られがちとは言え、少年のほうもそう変わらないように見える。
護堂は人種の違いを鑑みて、むしろ自分の方が年上の可能性さえあるのではないかと疑っていた。そんな護堂に対し、少年はあっけからんと宣ってみせる。
「はて、我は
「え? じゃあ名前は? まさかそれさえ覚えていないっていうんじゃないよな?」
「うむ。それも覚えておらぬ。我が名、我が
いくつかの質問の後、彼は自身の記憶喪失を白状した。それはもうあっさりと、あっけなく。口で言っておきながら困っているようには全然見えないが、相当な大事だろうと護堂は助力を申し出た。記憶を取り戻すまでは叶わなくとも、医療施設や公的機関まで案内し付きそうことは出来るからと。
しかし少年は微笑のままで手を振り払う。心配は要らない。何故ならば、自分について最も重要な事を知っているからと。
「うむ、我は勝者じゃ。勝利こそ常に我が手中にあり、我を我たらしめる本質。あらゆる闘争、いかなる敵と対したとしても、我が勝利は変わらぬ。揺るがぬ」
唇を僅かにほころばせた微笑のまま、少年はそんな言葉を口にした。
あまりに当然の如く口走るので、護堂は素直に納得してしまいそうな自分がいる事を自覚する。
「ふふっ、
煽るでも試すでもなく、勝負と言う割に本当に遊びに誘うかのように軽やかな口調だった。
何気なく発しただろうこの一言が、彼らの運命を決定的に歪めてしまう事になるとは、天の果てで興味深そうにこれを観察する女でも予想出来なかっただろう。
それから彼らは多くを語り合った。
「傷を嘆くのはかまわぬが、恥じてはならぬぞ。戦士たる者が傷つくのは、世の道理じゃ。戦わぬものは傷つかぬ。それはおぬしの戦いの証でもあるのだ」
「ふふっ、そう不思議がるな。我は闘争と勝利の具現たる者。おぬしが戦いの果てに得た成果であれば、良きものも悪しきものもわかる。少年よ、傷つき、疲れた体でなお戦う者を戦士という。かつての武具を捨てるのは決断というものじゃが、そやつから逃げてはならぬぞ。それは戦士の行いにあらず」
共に過ごした時間は短く、言葉にしてもすべてを尽くしたとはとても言い難い。
それでも少年らは多くを語り、多くを感じ、多くを学んだ。短くはあるが、大きな時間だった。かけがえのない、大いなる意味を持つ時間だった。
しかし悲しきかな、彼らの友誼は長く続かなかった。どれほど尊い出会いであろうと、だからこそ別れは無情にやってくる。人々はそれを乗り越えて生きていく。世界はそうして廻ってゆくのだ。