入学式の日。
晴れた春空の下、体育館傍の裏庭。
ベンチで祝辞の文言を軽く浚っていた私の前に一人の男子生徒が現れた。
ひどく息急き切らせて汗を浮かべている。
その真っ新な制服姿。どうやら新入生らしい。
「もう始まっているよ。そうだな、私とタイミングを合わせて入るといい。少しは誤魔化せる」
初登校どころか式に遅刻とはなかなか大胆だな。
ありがとうございます
心底安堵した声で彼は笑った。
無防備で人懐こい笑顔だった。
その歳の男子らしい体格は私など高さも厚みも敵わないが、大型犬を思わせる穏和な雰囲気に何やら朗らかな気分になる。
冴えた春風が吹く。
運が良いのか悪いのか私は風下、彼は風上に立っていた。
ぬるい。
まず微熱を孕んだ空気を感じた。
そう認識した途端に満ちる。鼻腔を、匂いが。
日向を思わせる、けれど芯に隠し切れない雄を孕んだ。
彼の汗、男の体臭。
「ッ!」
鼻の粘膜から舌に浸透し喉元を過ぎた臭気はそのまま背筋を走り抜けて脳天を直撃した。
甘い痺れが全身を。
一際、体の中心部を電撃めいて刺激する。
それはもはや性的快感に近い。
未体験の感覚に私は惑乱した。踏鞴を踏んで、胸元を抑えて背を丸める。
彼の方も戸惑っていた。
気遣わしげで深刻そうな顔が私を覗き込む。自然、彼は近寄ってくる。
彼の匂いが迫ってくる。
火入れしたように顔が熱い。体も熱い。
ダメだ。
なにがなんだかわからないがこれは、ダメだ。
あと一吸いもすると私は。
その時、体育館から呼ばわる声があった。
祝辞の出番。
私は正気に立ち戻る。
息を止め、逃げるようにそちらへ走った。
彼を置いて。
スピーチの最中の記憶がない。
極めて機械的に仕事を終えて在校生席に着く。
頭を占めるのは、匂い。麻痺毒のような彼の臭気。
私は必死に記憶に封をした。
こんな衆人環視の中でまさか粗相などする訳にはいかない。
私は新入生席に目を走らせ先刻の彼を探した。その時の私の眼光はまるで指名手配犯を探す刑事のように鋭かったことだろう。
有体に言えば、下心だ。
それは言い訳の余地もない。
彼の人相風体を教員方に尋ね、クラスを割り出し探し当て、部室へ呼び付けることに成功したのも
呼び出された彼の不思議そうな顔がなんだか愛らしく見える。同時に、純朴なその眼差しに今更の罪悪感がちくりと胸を刺した。
彼はきっと夢にも思うまい。
目の前の女がその体臭を嗅ぎたいが為にわざわざ自身を召喚したなどと。
私は澄まし顔で内心あれこれと言い訳を探す。
「突然呼び付けてすまなかったね。実は折り入って君に頼みがあるんだ。なに、そう難しいことじゃない」
疼く体を叱咤し今にも深呼吸しそうな肺を鎮めて私は不敵な笑みを作った。
「君に是非我が文芸部へ加わってもらいたい」
彼は目を丸くする。
緊張してるのかな。少し匂いが強まった気がする。
────あ、すごくいい
狭い部室に二人きり。
素敵な新学期になりそうだ。
鍵を開けて踏み込んだ玄関の暗さ、しんと静まり返った廊下、探るまでもなく体が位置を把握しているスイッチを一つ一つ押して家の照明を点していくこの作業。
誰もいない家。おかえりも、ただいまも、もう随分口にしていない。
もう慣れた。
ダイニングのテーブルにコンビニ弁当の入った袋を置く。
ビニールのくしゃくしゃという音が耳を劈くほどうるさい。幻聴だし、錯覚だ。
両親が共働きで忙しくしているのは誰あろう家族の、自分の為なのだと理解している。何不自由ない生活をさせてもらっているのだから。だからこそ、自分は良い子でいなければいけない。手のかからない、優等生の、将来有望だと思ってもらえる、自慢の娘に。
「……」
溜息が零れた。
吐き出した分だけ微かに吸い込んだ空気は、やたらに無味乾燥だった。
家の匂い。この世で一番安堵できる匂いが染み着いている筈のこの場所で、何故か。
何も感じない。何も想起されない。ただ、虚しい。
ああ、違うな。
私は思い直す。自分が今感じたものを正確に表現し直す。
「寂しい、な……」
その時、肩に提げたままの鞄が震動した。
ドキリとして、それはスマートフォンの着信なのだと思い至る。
取り出して、画面に表示された名前を見て、私は迷いなくメッセージアプリを起ち上げた。
[入部届書きました]
[これで大丈夫ですか?]
机に広げられた紙面の写真は今日私が手ずから用意して彼に渡したもの。
IDを交換しようと持ち掛けたのは自分であるし、本来は先輩の自分から連絡すべきところを、こうしてわざわざ確認の為にメッセージを寄越してくれる彼は大変律儀だ。
[これからよろしくお願いします]
[ところで、文芸部ってなにすればいいんでしょう]
「ふふっ」
真面目くさった文章なのに、それがあんまりお惚けた質問だから。
リビングのソファーに寝転んでスマホの画面を仰ぎ見る。
「ふ、あははは」
私はなんだか楽しくなってしまって、しばらくそうして笑っていた。
横着をした自分が悪い。
午後の体育でしこたま汗を掻いたのに、インナーを替えずYシャツを着ていたものだからシャツにはすっかり汗の臭いが移ってしまっていた。
バイト先の喫茶店には勿論スタッフ用の更衣室がある。順当にそこで着替えるべきだったのだ。
多少の気持ちの悪さを我慢して早々に出発してしまえばよかったのに。
やや湿ったインナーを脱ぎ捨てた、その時だった。
部室の扉が開かれ、そこには見知ったあの人の姿が。
同学年の女子より幾分背丈が高く見えるのはその手足がすらりと長いからだ。
淡いブラウンのショートボブ。
アーモンド形の左目の赤みがかった虹彩が丸く見開かれる。
硬直した表情で、長い睫毛が優美に一度瞬いた。
憧れの先輩────なんて言うと少し、いやかなり気恥ずかしい。けれどこの表現が最も適当であるから否定の仕様がない。
とはいえ、学校一の才媛も半裸の男を前にしては為す術なしというか呆れて物も言えないといった様子。
「すまない、ノックすべきだったね」
半秒の静止の後。
冷静に状況を把握して彼女はそっと扉を閉めてくれた。
謝罪すべきなのは間違いなく己である。
たった二人と言えども部員が自由に出入りできる部室で着替えなどすれば、このような状況になることも十分予想はできたろうに。
見苦しいものを、よりにもよってこの人の目に触れさせてしまった。
改めて室内のソファーに落ち着いた彼女に、無論しっかりと衣服を着てから俺は平身低頭詫び倒した。
「いやいや私の方こそ不躾だったんだ」
いや自分こそ不用心この上なく。
気分の悪い思いをさせてしまい。
「そ、そんなことないぞ。引き締まっていてとても素敵な……ん゛ん゛!」
咳払いというには荒々しく呼吸を乱して先輩は続く言葉を濁した。
「そ、それよりだ! 君、そろそろバイトの時間じゃないのかい?」
────しまった。
壁の時計を見上げる。
針の位置関係から自転車の全速走行は確定だった。
俺はその場で先輩へ直角に辞儀して謝罪を叫び、部室を飛び出した。
「いってらっしゃい」
先輩の声に送られ、教師の目を憚りながら廊下を疾走する。
そんな最中ふと。
頭の隅で引っ掛かる。
何か忘れているような気がする。
生憎それを思い出すだけの余暇が今の俺には許されなかった。
「ふふ、まったく」
普段はしっかり者なのに時々こういうぽかをやる。
私の後輩くんはなかなか可愛い奴だった。
入学間もなくなんとも強引なやり口で部に引き込まれたというのに、随分懐いてくれたな。
加えて、私に“妙な”愛着を持っているらしい所も。
成績や素行について評価されることには、傲る訳ではないが慣れていた。
しかし彼が私にくれた最初の褒め言葉は。
────先輩は、うちの猫に似ています
未だ曾てない評定であった。
友人や教師や両親からも賜ったことがない。
彼が何を以て私を猫っぽいなどと思ったか定かではないが……私は思いの外、それが嬉しかった。
優等生、人格者、生徒の見本。
それらを期待されることを光栄に思う。
思うが。
責任の窮屈さに少し、疲れてもいた。
この部室や彼の隣を、私が内心密かに安らぎの場と決め込んだことを知る者はいない。
「……あ」
そしてもう一つ。
私には誰にも秘すべき癖があった。
あるいは、病と言っても差し支えない。
対面のソファーに放置されたくしゃくしゃの白いシャツ。それは彼の忘れ物だ。
私に裸身を見られて、よほど慌てたのだろう。
私はほとんど無意識にそれに近寄っていた。誘われるように。
吸い寄せられた。
シャツを手に取る。
布地にはまだ微かに温もりを感じた。彼の体温の残留を。
喉が鳴った。
唾を飲んだらしい。
そのあまりの意地汚さに、忘失しかけていた理性が戻る。
これだ。
私はまた、またこんなことを。
指先が冷えて震える。
だのに呼吸は荒く乱れていく。
私は、けれど、ダメだ。
してはいけない。
こんなものは紛れもない変態行為だ。
あるいは犯罪行為に当たるかも。
頭では理解していた。
しかし、私はそっと。
口付けるようにして。
彼のYシャツに鼻を埋めた。
大きく、肺一杯に大きく大きく息を吸う。
吸い込んだ瞬間に私の鼻腔口腔気管支の隅々に。
彼が満ちた。
彼の匂いが充満した。
「すぅ……はぁ……すぅう……は、ぁ」
無我夢中で吸い、味わう。
「後輩くんの匂い……優しい香り……僅かに汗の混じった……あぁ」
癖になる。
嗅げば嗅ぐだけ欲しくなった。
今ではこうして衣類を掠め取って彼の目を盗んで。
まるでケダモノみたいに。
「もっと、もっと……あと少しだけ……!」
言い訳を重ねて。
鼻を突き抜けた匂いは粘膜に染み込むと電気刺激に変わる。
甘い痺れが背骨から全身へ行き渡り、私にそれを否応なく自覚させた。
快感を。
淫らな法悦を。
「だ、だって、必要なことだこれは、そう。後輩くんの匂いが私には、私の安らぎには」
熱を持った体をくねらせ、もたらされる波濤に耐えた。
もう、堪らない。
彼のシャツに顔を押し付けながら片手はするすると内股に伸びていく。
ダメだ。
ここは学校。ここは部室。
ここは、私と彼の安寧の場所じゃないか。
それをお前は穢すつもりなのか。
“何度も”
何度、こんなことを繰り返してきた?
「……ん、く……んあっ」
私は優等生なんかじゃなかった。
人格者でも生徒の見本などでもない。
そう。彼の言った通りだ
私はただの、発情した雌猫だった。
「後輩、くんは、私……のっ……!」
視界が白く燃えて、バチバチと火花が散る。
背徳と熱情と。
そしてなにより強く。強く。
私は求めた。
この布切れの向こうに。
愛しい匂いの主を。
彼の姿を想いながら。
果てた
後日。
通学路上のバス停で彼女と落ち合った。
既にして待ち受けていた先輩は俺の姿を認めるや、どうしてか顔色を変える。
それは快不快で推し量れない何とも曰く言い難い微妙な表情で。
当然どうしたことかと尋ねる。まず真っ先に懸念されるのは体調不良だが。
「いや!? なん、でもないよ?? そ、それよりこれを」
差し出された紙袋の中身は、俺のYシャツである。
うっかり飲み物を溢して汚してしまったというそれを、彼女はわざわざ自宅に持ち帰り洗濯をして返却してくれたのだ。
「すまないね。その……何度も」
実のところ彼女に衣類を洗濯してもらうのはこれが初めてではない。
以前は雨に降られ、その前は……なんだったか。
とにかく親切で律儀なこの人に俺は頭が上がらない。
「……流石にこの手はもう使えないな」
不意に彼女が微かに囁いたような。
しかし、過ぎ去る自動車の排気音に浚われ、その声が満足に己の耳に届くことはなかった。
「な、なんでもないよ!? バス遅いね! ははは……は? ん、あれ」
からからと笑ったかと思えば突如────先輩の面相から表情が失せた。
俺は虚を衝かれて、彼女を見返す。
すると。
先輩がこちらに踏み込む。
詰め寄る、と言った方が正しかろう。
そんな強い気配。
そして彼女は俺の右肩に鼻先を近付けて臭いを嗅いだ。
思わず身を引く俺の袖口を先輩の手が掴む。
退くを許さない。
体臭を嗅がれることそのものより、彼女に臭いを知られることが恥ずかしかった。
居た堪れない。羞恥には罪悪感すら伴った。
「香料……化粧品だね。肩に触れた程度の濃さじゃない。どうしてだい?」
穏やかな口調であるのに、それは明らかに詰問の響き。
俺は冤罪で仕立てられた犯人の心地で心当たりを言い訳する。
ここへ来る前にバイト先に寄った。
今朝は店主の大学生の娘さんが揶揄いにしな垂れかかってきたのだ。
きっとその時に、等々。
「店の娘……ふーん、随分馴れ馴れしいな。というかこんな朝早くからどうしてバイト先に?特別な用?その……娘さんに、会いに、行ったとか」
朝の仕込みの手伝いである。そのついでにモーニングを賄いとして相伴するのだ。
俺は何を疑われているのかも解らずそうした事情を説明した。
必死に。
言葉を尽くして。
先輩は納得しているともしていないとも判らない顔で、一応は頷いてくれた。
そうして、そのまま。
袖口を握る指は離れない。それを握り締めたまま、強く引き寄せられる。
先輩は俺の右肩に寄り添い、ひしと腕を抱き寄せたかと思うと徐に。
頭を肩に擦り付けた。
ぐりぐりぐりぐり、髪が乱れることも厭わず捻りを込めて熱が篭るほど。
察しの悪い愚鈍を自称する己が、しかしその行為の意図だけはすぐに理解できた。
何故なら俺は自宅で幾度となくそれを経験しているから。
それは匂い付けだ。
嗅ぎ馴れない匂いを自身の匂いで上書きする為の習性行動。
野良猫を撫でた日、猫カフェに浮気した日、我が家の猫は目敏くそれを察知して俺に体を擦り付けた。
「ん……あ、いや、その」
程なく先輩は己から身を離してあたふたと両手で空を掻いた。
乱れ髪が何だか無性に愛らしい。
俺が彼女に抱いた印象はやはり間違いではなかった。
愛猫に常日頃感じる庇護欲が、彼女に対しても湧いて出て仕様がない
正直にこれを言った時、果たして先輩は俺を許してくれるだろうか。
バスが到着した。
先輩の綺麗な顔が朱に染まる。それを隠すように彼女は乗口に飛び乗った。
「た、他意はないから」
あの行動における他の意とやらを今一つ想望できず、俺は思わず笑った。
先輩は大層不服そうにさっさと一人用座席に着く。
俺はその前の席に座った。
運転手の気だるげなアナウンスと共にバスがゆっくりと発車する、その時。
耳許に彼女の唇が。
「私の匂いはお気に召すかな」
慌てて後ろを振り返る。
先輩はもうこちらを見ておらず、背もたれに背を預け、走り出した車窓の景色を悠然と眺めていた。
俺は今更に、己の右肩の薫りに気が付く。
囚われる。
まるで今なお頬を寄せられているような。間近に感じる先輩の、生々しい気配に。
バスの座席で一人、俺は目的地までの十数分を無様に周章狼狽し続けたのだった。