アヴァリー教国聖都コルディアは、かつてない程に緊迫していた。
今や大聖堂には、教団関係者のみならず住民の大部分が迫り来る脅威より逃れんと、少ないスペースにすし詰めになっている。
それでもすでに収容人数は大幅に超えていた。収まり切らないほとんど住民は、大聖堂前の大広場に肩身を寄せ合って震えている。
その光景を見下ろすは、千尋の谷の如き皺を顔中に刻んだ
「猊下、避難経路の確保が完了致しました」
「応。そうかぁ」
『猊下』と呼ばれる彼こそが、アヴァリー教団を率いる長──教皇その人であった。
対して、教団トップの彼に報告を上げるのは、これまた恰幅の良い大男であった。一見その姿はふくよかだが、よくよく観察すると膨らんだ肉の部分、その全てが鍛え上げられた筋肉だと見てとれる。
「スイコぉ。堅気の連中は全員掻き集めたか?」
「大部分は。ですが、一部の住民は恐怖の余り逃げ惑ってしまい……」
「御託ぁいい。完了してねぇならするまで呼びかけろ、それだけだ」
叱責する訳でもなく、淡々と指示を出す教皇。
しかし、大男──
「は! 直ちに」
「ところでスイコ。手前ェ……
「はい。通常の避難経路ではなく、旧道の方を使います」
「よし」
その返答に教皇は満足そうに頷いた。
「あんな大物仕向けるくらいだ。どうせ普通の経路はバレてらぁ。聖都の周りにゃ悪魔がうじゃうじゃ居るはずだし、そんなとこに突っ込んだら死ぬわなぁ」
「……猊下」
「ああ?」
「レイム団長は……あの巨人を討ち取れるでしょうか?」
絞り出すような声音を紡いだスイコは、窓より遠方に見える人影を見遣った。
間もなく発見したら一刻が経つ。時間が経つにつれて刻一刻と膨れ上がる輪郭を見て、その尋常でない巨大さには、歴戦の騎士も心の底から震え上がるほどだった。
『応戦……致す』
いの一番に打って出たのは他でもない。
アヴァリー教国聖堂騎士団〈
負ければ死。
すなわち、聖都陥落は決まったようなものだ。団長で勝てぬ相手に、それ以下の騎士が束になって掛かったところで──情けない話だが──勝てる可能性は限りなく薄い。
「さあなぁ。ま、討ち取れようが討ち取れまいが、奴ぁ時間を稼ぐ為に一番槍を引き受けた」
「……捨て駒だったと?」
「知るかよ。んなもん、手前ぇから訊け」
ぶっきらぼうに煙草を吹かす教皇に、スイコは唇を噛み締めながら面を伏せた。
「……さて。そろそろ往くかぁ」
「『往く』? ……猊下、一体どこへ?」
「魔王軍とやり合いに決まってんだろ」
とんでもない発言にスイコが目を剥いた瞬間、背後の通路から複数の足音が聞こえてくる。
「おう、フィラデル。こっちの準備は済んだぜぇ」
「す──枢機卿!? そんなお召し物と武器を持って何処に……!?」
「あ? 打って出るに決まってんだろぉ」
今度こそスイコの目玉が飛び出しかけた。
枢機卿──すなわち、教皇に次ぐ教団の上層部に当たる賢人たちが、大太刀や十文字槍、錫杖と言った物騒な得物を握り締めているではないか。
しかも、全員が白衣を靡かせているときた。
まるで死装束のようで縁起が悪い──そう思った時だ。
「殿はおれ達だ」
さも当然のように教皇フィラデルは告げた。
「あの調子じゃあ遅かれ早かれ巨人は聖都に辿り着く。そうなりゃあ首長くする悪魔も、ここぞとばかりに雪崩れ込むだろうよ」
「で、ですがまだそうと決まった訳では……!」
「寝ぼけたこと抜かしてんじゃねえ。大勢逃がすんだ。時間はいくらあっても足りゃしねえ」
大の大人でも泣いて許しを請う強面に迫られながらも、スイコが噫にも出さなかったのは日頃の
「いいか? 死ななきゃやれねえ役目はおれ達年寄りがやる。手前ぇら若いのは、
「げ、猊下……! し、しかし教団は……!?」
「なあに。おれらにゃ
「婆も居るしのぉ! 安泰じゃあ!」
「むしろ死んで清々すると言われるかもしれんわい!」
「ガハハッ! そいつは滑稽じゃ!」
──そう年寄りが死んだ後の心労はどうするのだ?
口に出して叫びたかったスイコ。だが、腹を決めた老人の意思を曲げるなど到底不可能であることは誰よりも理解していた。
「徒花何本咲かせられるか競争だなぁ?」
「装束真っ赤に染めたろうやないか」
「死化粧は血化粧で。誰が一番派手に塗りたくれるかのぉ」
だってこんなに血気盛んだもの。
骨と皮しかないような痩躯も、人生最期の舞台に上がれると見るや、みるみる生気を取り戻して肉が膨れ上がっていく。どこにその筋肉を隠していたのかと洗いざらい問い質したいところであるが──。
「報告! 報告ゥーーーーーッ!」
けたたましい声が物見櫓の方より響き渡ってくる。
「巨人の肩に敵影を確認ッ……まるで影のような……これは!?」
「影だぁ? まさか──」
「〈
ただでさえ張り詰めている空気が、尚一層引き締まる。
「ルキフグス……だとぉ……!?」
「〈邪見〉と言やぁ、〈六魔柱〉の頭張ってるっつー……」
「大物じゃあねえか!」
教皇の執務室が浮足立つ。
“恐怖”ではない──紛れもない、これは“戦意”だ。
「カカッ……まさか魔王の右腕サマがいらっしゃるとは」
教皇の皮ばかりの顔面に、鋭い笑みが浮かんだ。
「冥途に土産にゃちょうどいい。地獄の水先案内人は奴さんに頼もうぜ」
そう言って歩き出す教皇に、枢機卿らも『それがいい』と声を大にして賛同してみせる。
「スイコ、手前ェもそろそろ準備しな。死んでも堅気一人死なすんじゃねえ」
「猊下……」
「国も宗教も民草あってだ。根差さぬ大地に実り無し、ってな」
ありとあらゆる土地から流れ着いた人間が築き上げた国と宗教だからこそ。
アヴァリー教の根幹を説く教皇に、スイコは深々と、それは深々と頭を下げた。
「……は!」
その瞬間、聖都に激震が奔った。
今まで延々と伝わってきた震動とは一線を画する衝撃だ。
「……遂に」
教皇の薄く細められた眼光が巨影を見据えた。巨大過ぎるが余り遠近感が狂うものの、長年聖都に根を張った彼の眼に見間違えはない。
──来やがったか。
聖都外周。
神聖なる退魔の〈聖域〉の境界に、その巨影は辿り着いていた。
***
「お、おい……!」
時を同じくして。
広場に集う住民もまた、その光景を目の当たりにしていた。そして、場数を踏んだ騎士とは違い、動揺の輪はみるみる広がっていった。
「結界が破られるんじゃねえか……!?」
「滅多なこと言うな! 弱ぇ悪魔や魔物なら簡単に追い払っちまう結界だぞ!?」
「あれが弱く見えるかよ!?」
気が動転する余り、口論から喧嘩に発展する者もチラホラと現れる。
それがまた混乱と恐怖の呼び水となり、住民より平静さを失わせていく。
「皆様! 落ち着いて、落ち着いてください!」
「我々が皆様をお守り致します故、ここは安全です!」
「間もなく避難も始まります! 落ち着いて誘導に従って──」
必死に住民を宥めていた騎士だが、不意に異変に気付いた。
静か過ぎる。
あれだけどよめいていた群衆が、水を打ったように静まり返っていたのだ。
いっそ不気味な空気に全身が粟立つ騎士が振り返る。
「あ──」
今や、遠目でも禍々しい単眼と無数の巨腕をハッキリと窺える。
その巨腕の内の一つが──振り下ろされた。
──ガァンッ!!!!!
「ひぃ!?」
一瞬、振り下ろされる拳の周囲に白い膜のようなものが見えた。
すると、遅れて鼓膜を殴りつける轟音と共に強風が吹き抜ける。衝撃か震動か。どちらが原因かは分からないが、広場周囲に建ち並んでいた建物の窓ガラスも砕け散った。
だが、それで終わりではない。
巨人は何度も。
何度も何度も。
何度も何度も何度も、背中に生やした巨腕を次々に〈聖域〉に叩きつける。その度に轟音と衝撃が聖都を襲い、古く脆い建物から軒並み倒壊していく。
悪夢だった。
夢なら醒めて欲しいと、誰もが願っていた。
けれども、これは現実だ。
現実であると思い知らされてしまった。
『わ……わああああ!?』
張り詰めた糸が切れ、蜘蛛の子を散らすように群衆が逃げ惑う。
「落ち着いて!! 落ち着いてください!!」
「ここから離れては危険です!!」
「門から逃げてはいけません!! 避難経路に!!」
聖都を取り囲む悪魔に襲われると説明しても、パニックに陥った群衆の耳に届くはずもなく、住民は我先にと聖都のあちこちへ逃げ出そうとする。
一部広場に残る住民もいたが、彼らは彼らでろくに走れない老人や怪我人、そして、親と離れ離れになった子供といった始末だ。
辛うじて今は騎士が円陣を組んで群衆を堰き止めているものの、数百……否、下手すれば数千にも及ぶ人波を受け止められはしない。むしろ堰き止めてしまうだけ、今度は人波に飲まれた住民が圧死してしまう恐れも出てくるという状況だった。
「うわぁ~ん、おっかあ~!」
親と逸れ、一人の幼子が泣き喚く。
しかし、群衆の悲鳴や怒号が叫ぶ中では親を呼ぶ声が届くはずもない。
そんな中で唯一届いた音は。
──ゴガァンッ!!!!!
それまでの轟音とも違う。
例えるならば、致命的な。そう感じ取れる音だった。
「け、結界が」
退魔の〈聖域〉は『貫けぬ盾』と比喩される防御力を誇る。
故に、悪魔はあの手この手で〈聖域〉をどうにか出し抜こうと知恵を巡らせ、突破を試みるのだ。
〈六魔柱〉でさえ正面突破は試みない。
それほどの鉄壁を誇る〈聖域〉が、今。
「──破られたぞぉおおお!?」
決壊。
今度こそ、群衆の人波──それも大津波が、騎士団の防波堤をも飲み込まんとする勢いで押し寄せてくる。
「そ、そんな……〈聖域〉が……!?」
そして、波紋は騎士団にまで及ぶ。
騎士も騎士で、心のどこかでは『〈聖域〉は破られないだろう』という希望を抱いていた。それがたった今、ただただ純然な暴力で打ち破られてしまったのだ。
結果、放心する騎士を中心に、遂に防波堤は崩壊を始めた。
「おい!! しっかりしろ!?」
放心する騎士と肩を組んでいた騎士が叫ぶ。巨人の迫る足音を耳にしながらも、民を守るという一心で最後の一線を死守していた。
──ズシーン……ズシーン……。
肩が剥がれても腕を組み。
──ズシーン……ズシーン……!
腕を離されても手を掴み。
──ズシン……ズシン……!
手を放されても指を絡め。
──ズシン、ズシン、ズシン!
限界は──すぐそこまで迫っていた。
(もう、これ以上は──!!)
──ズシンズシンズシンズシンズシンッ!
──ッガァアアアアアンッ!!!!!
違和感を。
轟く足音に違和感を覚えた瞬間、混乱はピタリと止んだ。
「
一人が。
「
あるいは全員が。
『──
鈍色の巨人を殴りつける金色の巨人の姿を目の当たりにした。
「いいや、違うさ」
しかし、ある者はこう言った。
「
神とは、人の信ずる場所に現れる。
この時、この瞬間を以て。
金色の巨人は──守護神と成った。
***
「──右前腕部に裂傷を確認。想定以上の硬度を有する対象への攻撃の反動と推定。直ちに修復を開始」
拡張した意識と視界の先で、殴り飛ばされた巨神兵がゆっくりと地に沈む。
舞い上がる砂塵は天高く舞い上がり、視界を覆い尽くす。
だが、それは巨人より排出される熱された空気の勢いで掻き消される。
開かれる視界、そして世界に彼女は立っていた。
「右前腕部、修復完了。その他不具合無し。充填魔力残量約八割──」
装甲の合間より青白い光を迸らせる金色の巨人は、ゆっくりと体勢を起こす。
「どうにか……間に合ったようですね」
殴り抜いた姿勢から。
その間、たった今修復したばかりの拳を巨人は握り直した。周りの被害も鑑みず、百の腕を支えに立ち上がる巨神兵──否、破壊神を目の前にしてだ。
「アイ」
巨人と巨人が睨み合う。
すると訪れる静寂。
遠方にまで響き渡る余波がようやく聞こえなくなった頃、彼女達は動き出す。
「アナタにとってワタシは他人かもしれません──ですが!」
破壊神と守護神が拳を振り翳す。
「
互いの頬を打つ音色が合図だった。
ド派手な火蓋が切られれば、双つの巨躯は間もなく地に沈んだ。だがしかし、これはまだ始まりでしかない。
立ち上がれ、〈
掛け替えのないものの価値を
Tips:
かつて世界を恐怖に陥れた破壊神。
山と見紛うばかりの巨体を有し、ただの歩みが災厄となって大地に生きる者達に死を降り掛からせる。
過去にプルガトリア大陸に現れた際は、立ち上がった勇敢な戦士とその仲間達に討たれ、その伝説の礎となった。
もし再び彼の破壊神がこの世に降り立てば、新たなる犠牲は免れない。
止められる者が居るとすれば、それこそ勇者か。
あるいは同じ巨神──破壊神に対を成す守護神のみだ。