「ハァ……ハァ……!!」
湖の畔を歩く人影があった。
元々、そこには湖などない。ついさっき、天に至りし魔女の遣わした水龍が大地を抉り、湖と化したのである。
「ハァ……グッ……!!」
幸いにも水は魔法だった。
物質としての水よりも気化は早く、湖が干上がるまでにはそう時間は掛からない。一時は水底に沈んだ彼女が地上に這い上がれたのも、そうした幸運に恵まれた部分が大きかった。
「損傷が……!!」
それほどまでにアイの傷は深かった。
彼女の魔核は一度臨界──暴走状態まで至った。限界を超えて生産され続けたエネルギーは、他でもない彼女自身の体を内側より焼いていた。
ただでさえ金継ぎのように繰り返し補修された体だ。継ぎ接ぎした金属部分は所々解けており、現在進行形で彼女の肉体より剥がれ落ちている。満身創痍。そう呼ぶより他にない有様であった。
「──もっと」
しかし、それでも。
「もっと……壊さなくちゃ」
歩みは止めない。
濁った黄金の視線は真っすぐ前を向いていた。つい先程まで繰り広げられていた死闘の余波により、多くの倒壊した建物が垣間見える聖都の方に。
「もっと……奪わなくちゃ」
彼女の脳内では悪魔が呼びかけていた。
何度も。何度も。
何度も。何度も
何度も何度も何度も。
気が狂いそうになるくらい。
「そうでなければ、ボクは……──ッ!?」
狂気じみた強迫観念の歩みが、ピタリと止まった。
「……オ」
目の前にあったのは壁。
否──“盾”だった。
「オマエは……!?」
生き写しのような。
あるいは鏡合わせのような容姿。
しかし、決定的な違いはいくつかあった。
一つは体。
千切れたのだろうか。彼女の左腕はどこにも見当たらず、焼け爛れた痛々しい断面が空気に晒されていた。それどころか鎖骨と肩口は焼き断たれ、左の頬も焼け落ちる始末。常人であれば死んでもおかしくはない深手だ。
だが。
「……」
もう一つある決定的な違い。
その瞳──玻璃のように透き通った生命の光だ。アイの濁った瞳孔とは違い、片方だけでも目を背けたくほどの輝きを放っている
マインはまだ──死んでなどいない。
「──!」
先に駆け出したのはアイだった。
──殺さなくては。
殺さなければ自分が死ぬ。命の危機に瀕し、極限まで高まった生存本能がそうさせた。
さらにそこへ加わるルキフグスに刻み込まれた命令。他者より奪ったものが自分の価値となる──裏を返せば、奪わなければ自分に価値がないという歪な価値観が、彼女を攻撃に奔らせたのだ。
(殺れる──!)
先手は取った。
遅れてマインが飛び出すが、アイは勝利の確信を得る。
現状、マインには片腕がない。
となれば、必然的に取れる手段は攻撃か防御のどちらか一方だけ。確実にこちらの行動に一歩出遅れるというのが、アイの見立てであった。
そして、相手が防御を選択した場合、手数の関係で軍配はこちらに上がる。
(勝つのはボクだ!!)
ただし、彼女は一つ見誤っていた。
(──なんで守らない?)
みるみる縮まりつつある両者の距離。
手刀を構えるアイに対し、マインもまた拳を握り締めて迫ってきていた。
(死ぬんだぞ?)
まるで防御など欠片も考えていない。
このままかち合えば互いの攻撃は通るかもしれない。だが、そうなった場合命を落とすのは向こうの方だ。道連れにするにしても余りにも分が悪い賭けである。
(本気か? 本気なのか!?)
互いの姿は眼前まで近づいていた。
激突まで、あと一秒の猶予もない。
(いや……ありえない!)
恐怖を押し殺し、アイは地面を踏み込んだ。
(死んでまで勝つ理由なんて!)
研ぎ澄ませた手刀を突き出す。
鋼を纏い、文字通り刀と化した刃はマインの胸を容易く貫いた。肌や肉は勿論のこと、胸の奥深くに埋もれていた“核”を貫く衝撃に、アイは今度こそ確信を得る。
──核心を突いた。
──生命を絶った。
(そんな……!)
だのに、
剥き出しの頬の内側は未だ食い縛っており、限界まで引き絞られた拳はとうとう繰り出される。
逃げようとするが、もう遅い。
(そんな──!?)
眼前まで迫った拳が
刹那、アイの世界が反転した。
大地が空に、空が大地に翻ったような違和感と浮遊感。遅れて頬を焼く熱と共に、頭の中に極彩色の光が雪崩れ込んでくる。
「──あ」
背中に衝撃が奔った時、ようやくアイは自分が叩き飛ばされたと理解した。
「あ……あぁ……」
しかし、それ以上の衝撃がアイを駆け巡る。
頬より脳へ。脳から全身へ。
そして、全身を一周した衝撃は──何処とも知れぬ彼女の胸の奥へと流れ込み、涙となって目尻から溢れ出した。
「
叩かれた頬に触れるアイが呟く。
与えられたのは痛みなどではない。
「迷宮でのことも……全部」
〈強欲〉の権能──与える力。
それは知識や記憶も例外ではない。忘れ、風化してしまった日々。悪魔の手によって虫食いとなった記憶。
その全てが今、アイの下に還っていたのである。
「……よかった」
作戦が成功し、マインが安堵の息を漏らす。
無機質ながらも人間味を感じさせる安堵の乗った声音だった。
「これで──」
直後、何かが崩れ落ちる音が響いた。
「思い残す……ことは……」
アイが体を起こせば、そこではマインが膝を地に突く姿があった。
さらに言えば、全身の崩壊が始まっている。焼き切られた断面や爪先といった体の先端がボロボロと崩れ、塵と化していたのだ。
「ま──待って!」
思わずアイも満身創痍の体を押し、マインの下へと駆け寄る。
そして、崩れゆく彼女の体を繫ぎ止めんと〈
「なっ……どうして!?」
「無駄……です」
「無駄って……何がです!?」
「魔核が……もう……停止していますから」
「っ!!」
瞬間、アイは自分の掌を見つめた。
それこそ穴が開くほどの凝視。次第に掌は小刻みに震え、そこには一滴の涙が吸い込まれるように落ちていった。
「……そんな」
「気に病む必要はありません、よ……」
「だって! キミはボクが──!」
「──
「……え?」
「これはワタシの……〈強欲〉の結果です」
マインの虚ろになりつつある瞳が、アイの双眸を見つめる。
先とは打って変わって光に満ち満ちた瞳だった。感情の波に溢れて潤んでいる双眸を見て、マインは満足そうに口角を吊り上げる。
「
大罪化。
罪に殉じる覚悟を決めた罪使いの成れの果て。天をも啼かせる力を得る代償は、逃れられない死の運命である。
生き残る術があるとすれば、肉体が完全に朽ち果てるより前に解除すること。
ただし、それも容易な話ではない。それこそ聖剣クラスの罪器を用い、ようやく解除できるという代物だ。
自力解除はまず不可能。
彼女が用いたのは、そういう力だった。
「命を奪う為ではなく……未来を与える為に……その為なら……死んだとしても……」
「ど、どうして……?」
「……どうして?」
「怖くないんですか!? そんなっ……死ぬかもしれない力を使って!」
「……」
慟哭のような叫びを真横で聞き、マインはしばし思案する。
「……そう、ですね。やはり……少し、怖いです」
「だったら……!」
「でも、不安はありません」
「……不安?」
「死ぬのが怖いのは……死んだらワタシという存在が忘れ去られて、なかったことにされてしまいそうだから」
違いますか?
そう問いかけるマインに、アイの瞳が見開かれる。
「どうしてそれを」
「
『与えたものは永遠である』……と」
「──!」
震えた掌がアイの頬に向かって上げられる。
「奪い、自分の物にしたとして……それはいずれ、自分と共に失われる……けれど、誰かに与えれば、それはその誰かの命と共に生きていく……」
先程は全力で振り抜かれた掌。
それを今度は優しく──温もりを与える為に添えられた。
「ワタシの命と記憶も……ワタシが守った誰かの命と共に生きていく……繋がれていくはずです。──お母さんに命を与えられたワタシ達のように……」
「!」
「だから……不安なんてありません。ワタシの命はもう……アナタに与えたか、ら──」
突如、マインの体が前方へと倒れ込む。
咄嗟に受け止めたアイであったが、それでも尚、マインの体は
──崩壊は、とうとう顔や体にも及んでいた。
「マイン……!」
「最期に……ワタシの、頼み……」
「待って……死なないで!」
「ミンナに『アリガトウ』、と──」
「ボク達を置いてくなっ!!」
今にも滑り落ちそうな手を掴み、アイは叫ぶ。泣き喚く。
どうすれば彼女が死なないか。
どうすれば彼女を救えるか。
頭には、ただその考えだけが巡っていた。
(ボクはどうすれば──!?)
『──アマイモン』
(!)
ふと、懐かしい声で呼びかけられた。
(……お母さん?)
『人間がどうして今日まで繁栄できたか、お前には分かるかい?』
それは記憶の母の声。
マインより与えられた数々の思い出の日々。何気ない、しかし、今となっては二度と手に入れられぬ大切な日々が語り掛けてきた。
『それはね──分かち合ってきたからだよ』
一見合理的で冷徹そうな、しかしながら情に厚かった母が自分に説いた教え。
──現在を生き、未来に進む為の答えは過去にあった。
「……そうだ」
アイはマインを抱きしめる。
掴んだ掌を、今一度自分の頬に添えた。疾うに指先から温もりは消え去り、動くもなっていた。
だからこそ。
「命を──
母から教えを賜い、己で導き出した答え。
誰が正解と認めてくれるでもないが、彼女には躊躇いも不安もなかった。
(……もう、怖くなんかないです)
力を解き放つアイ。
すると、それまで崩れて地上に積もるだけだった塵が、導かれるようにアイの下に集まり、そして肌から取り込まれていった。
金継ぎの跡は消え、白磁器の肌も黒く染まる。
『アイ』という個体のアイデンティティが喪失されるような変化であるが、彼女の表情は実に穏やかであった。
(キミとボクは元々一つ)
そして、遂にはマインの核──魔核をも取り込んだ。
その瞬間、悪魔の手によって無理やり複製された肉体に熱が宿る。
本物の──生命の灯火が。
(アナタの罪もキミの罪も、二人で背負っていきましょう)
而して、一人の人間が産まれた。
「今日からワタシ達は──」
「──マイ~ン!」
不意に聞こえてくる恋しい声に、咄嗟に振り向く。
「皆さん!」
「無事だったんだね、マイン!」
真っ先に駆け寄り、飛び込んできた少女を受け止める。
「心配したよ~~~も~~~! あんなにボロボロなのに『ここは任せて』なんて言うもんだから……!」
「……ご心配おかけしました」
「……マイン?」
「はい?」
「なんか……様子変わった?」
ぐしゃぐしゃに泣き腫らした面を上げるも束の間、核心に迫った問いかけをしてくるアータンに、“彼女”は思わず面食らう。
「ワタシは……」
「あ゛ぁー! マイン捜索選手権1位をアータンに取られたぁー!」
「おお、無傷ではないか! やるなマイン!」
「マインちゃ~ん! ご無事で~!」
「……」
そこへ遅れて駆け寄ってくる仲間達。
彼らの声を、言葉を聞いて、“彼女”は決心がついた。
「マイン?」
「……はい!」
これからも、ずっと。
「ワタシは──『マイン』です!」
名前は問題ではない。
大切な思い出は、ちゃんと“心”に仕舞ってある。
***
「好き勝手を……!」
暗い闇に鳴り響く舌打ち。
闇に溶け込むような黒が、心底苛立たしそうに眦を歪めた。
「危うく死ぬところだ……!」
大悪魔──ルキフグスはそう漏らす。
〈六魔柱〉ともあろう彼がここまで深手を負うことは、彼の人生においても初めてであった。
(聖都侵攻は失敗。巨神兵も潰された)
作戦失敗。それに伴う兵力の消費に、ルキフグスは頭を抱える。
(……切り替えろ。雑兵はどうとでもなる)
しかし、彼は冷徹で冷静だった。
死んだ悪魔の命は代替の利く戦力でしかない。替えのない駒があるとするならば、それはこの戦いにおいて
(早く帰還しなければ……。……?)
だが、そこで気付く。
「ここは──
「──お前の墓場さ」
「ッ!!?」
ズッ、と。
「な゛、ぁ゛……?」
「こんな迷宮で俺を呼ぼうとしてくれるなんてお熱だこと……♡ 感動の余り、追いかけてきちゃったぜ♪」
胸を貫く剣には見覚えがある。
〈断罪の聖剣〉──罪使いに致命の痛打を与えし聖剣。だがしかし、その本物がルキフグスに握られてしまっている以上、これは贋作であることは間違いない。
そして、その贋作を扱える者が居るとすれば。
「ッ……〈
「ここに居るのかってか? 逆だ、逆。俺がお前をここに連れて来たんだよ」
そう言ってライアーは何かを投げ捨てた。
暗闇の中、仄かに光を放つ魔法陣。その光は魔術式が刻まれた媒体を明らかにしてみせる。
「
「てめえにはもったいない墓だ」
「〈金字塔〉……!!」
正確には、その入り口があった場所だ。
今や〈金字塔〉は、マインが巨人と化して起動した際に大部分が下層に崩れ落ちた。騎士団が配った巻物と繋がる魔法陣も、その際に下層の奥深くまで落ちてしまったのである。
「知ってたか? 途中からアータンの
「グ、くぅ!?」
「魔王に体乗っ取られて記憶吹っ飛んでたかもしれねえが、その時にはもう分身を出しておいた。……巻物を持った俺の分身をな」
「ありえ、ない……」
「何がだ?」
聖剣に貫かれ、今や風前の灯と化す命で敵意に燃える悪魔が叫ぶ。
「貴様──何故〈
あの時とは、ルキフグスが逃亡を図ろうとした瞬間、浄罪の聖剣の炎を解き放った瞬間のこと。
「分身は貴様の〈罪〉の産物……ならば、あの時消えるのが道理の筈だ!!」
「さぁ~て。なんででしょ~ね~?」
「ッ……!!」
茶らけた口調でシラを切る勇者に、悪魔は凄絶に目元を歪めた。
──が、しかし。
「!! ……そうか」
「あん?」
「貴様も〈
刹那、炎が闇を掻き消した。
燃え上がる清らかな炎は奈落の如く深く穿たれた迷宮を優しく照らす。そんな中、一人の悪魔は炎に焼かれていた。
「……タイムオーバーだぜ」
偽物の剣であろうと、魔を焼き払う炎は偽りではない。
焼かれ続ける影は、みるみるうちに輪郭を保てなくなり──ついには全てが焼き消えた。
「……ベリアル」
血払いの代わりに火の粉を振り払う。
しかし、どことなく浮かない顔を浮かべるライアーは、静かに魔王の名を口にするのだった。
「お前が……どうして──」
奈落の底でも、地獄までにはまだ足りない。
そして、勇者は剣を鞘に納めた。
Tips:プロヴィタス
『──ええ、私ですよ。ベルゴ様の愛馬・プロヴィタスです。いつもご主人様を背に乗せたり、皆様の荷物を載せた馬車を運んでいるプロヴィタスですよ。ブルヒヒン。でも、最近何かと一人取り残されることが多いんですよね。スーリア教国では皆様が牢獄に囚われたりするし、船旅では一人だけ港町に到着させられるし、今回に至ってはなんかデッカイ人が迷宮から飛び出して、皆それについていきましたからね。ええ、私はお留守番です。だって馬の乗るスペースはないですからね。でも、心配はしてないです。なんやかんや最終的には誰かが迎えに来てくれますからね。今回もどこからともなく現れたライアーが迎えに来てくれました。分身ができると何かと雑用を押し付けられるみたいです。便利ですからね。馬も一緒です。ブルルン。あいつらシバたろかな』