禁域というのは、草薙の想像を遥かに超えた魔窟であった。道を歩けば界異にでくわし、木陰を踏めば幽世につながる穴がぽっかりと口を開けている。五感が常に正直で居てくれるとは限らず、絶えず霊的な知覚を開いておかなければ自分がどの方向へ歩いているのかさえおぼつかない。
仮に何も知らない一般人が足を踏み入れようものなら数分も立たずして死に至るだろう。草薙とて、十全の装備を持っていたとしても生き延びることができる気がしない。それほどまでに禁域の中は死が身近にあり、生命に対する悪意に満ちた空間であった。すっかり傷だらけになって疲れ果てた草薙を見かねたのか、今は荼毘の提案で各々適当な岩や樹に背中を預けて休憩を取っている所だ。
「なるほどなるほど、見た目と名前こそふざけちゃあいるが中々立派な装備じゃねえの。それ、アレだろ? 受けた穢れとか呪詛とかを貯めて威力に転化してるんだろ」
「……ノーコメントで」
一応は機密扱いの新作装備のカラクリを言い当てられ、草薙は目を逸らした。禍地蟲との戦闘以降、堰を切ったかのように様々な界異に襲われての連戦を強いられている。
マジカル⭐︎ブラックシールドが受けた穢れや呪詛を貯蓄し、その供給を受けたマジカル⭐︎ホワイトタクトが霊的な攻撃に転化して撃ち放つ。この二つは合わせて一つの装備であり、攻防一体を実現する堅実な武装と言えた。そのふざけた名前と形状さえ除けば、と言いたいところだが、これはこれで使用者の羞恥も呪詛として貯蓄したり“魔法少女”というパッケージを利用することで霊的な攻撃力を担保する目的があるらしく、かなしいかな草薙にはそれを論破してデザインを変えさせるほどの知恵も権力もなかった。下っ端は粛々と与えられた仕事をこなすしかないのである。
「俺としちゃあんたの術の方が気になるけどな。単に霊力を放出してる……わけじゃなさそうだし」
「はっはっは、企業秘密だ。ま、お前みたいな才能ある奴にゃ縁のない代物だよ」
「才能、ねえ……」
笑いながら放り投げられたエネルギーバーを受け取って、包装をじろりと見回す。特に細工の跡はない。毒とか
「評価してくれてるなら嬉しいけどさ、その才能の結果が……これだぜ?」
これみよがしにタクトを振って見せると、荼毘のツボにハマってしまったのか腹を抱えて笑い始めた。草薙にもその気持ちはわかる。わかるからこそ、自分で振っておいて腹も立つ。
「ひーっ、ひーっ、おまえ、お前それはズルだろ! 何がどうなりゃそんなおもちゃで戦うことになるんだよ!」
「霊力を攻性に変える才能が致命的に欠落してるんだと。お陰で俺は
ヤケクソ気味に叫ぶ草薙とさらに激しく笑う荼毘。傍目から見ると女児玩具を手にした成人男性とその横で爆笑する禿げ男だ。客観的に見てあまりに怪しい二人組となっていることにますます草薙の目から光が消えていく。
「はーっ、俺の人生どこで間違えたんだろうな。祓魔師になったのは文句……なくもないけど、せめてもっと格好がつく形で活躍したかったよ」
「わはは、散々笑っちまったけど間違ってはなかったんじゃねえの? 無辜の民を守るって仕事は立派なもんだろ────おっと」
不意に後方へと振り向いた荼毘の拳を、円筒状の結界が覆う。それは拳から放たれた呪詛の爆発に指向性を与え、黒い光線のようにして放射する。真っ直ぐに飛んでいった呪詛は遠く何かにぶつかりその身を朽ちさせたようだった。草薙には何も見えていないが、また弔飛棒か、直接知覚するとマズい何かが居たのだろう。
「霊視距離でも負けてる、か。ここまで負けが込むと自信なくすよ」
「そりゃあお前、これでもオレはベテランだぜ? ガキンチョに負けちゃオレの立つ瀬がなくなるだろ!」
「ガキンチョってなあ……一応成人してるんだぜ? これでも」
「ならその卑屈な癖を直してくるんだな! 現実を見るのは悪いことじゃねえがそれで視野が狭くなってちゃいけねえよ」
豪快に笑いながら頭をバシバシと叩いてくる手を払う気にはなれなかった。四号級を苦もなく祓う実力に反してやたらと気安いというか、遠慮のない男であるせいか、うっかりと気を許してしまいそうなのだ。呪詛を扱うこと、所属を明かさないこと、あからさまな偽名と犯罪者を疑うに足る理由はいくつもあるのに、草薙から敵意を抱くのを難しくするおおらかな雰囲気を荼毘は纏っていた。
「それに、案外オレたちゃ似たもの同士かもしれないぜ?」
「ええー、どこがだよ。ガタイも性格も似てないと思うけど」
「まともに扱える術が加護防壁くらいって所とかな」
うんざりした顔で荼毘を見上げる。謙遜にしても揶揄いにしてもひどい冗談だ。
「あんたにはそのよくわからん爆発があるだろ」
「お前にはこれが
ニヤリと笑う偉丈夫に息が詰まる。
答えは、否だ。呪詛によって穢れを祓う、確かに祓魔術にもそのような術は存在する。しかし、荼毘のそれは、どちらかというと────
「……いいや。俺にはあんたが、呪瘤檀*1に見えてるよ」
「ならお前も呪瘤檀を使えば良い。ほら、これで一緒だろ?」
愉しげに言う荼毘がなんともムカつくものだから、大袈裟に肩を落として呆れてみせた。そう簡単な話ではないという反発と、簡単な話なのかもしれないという期待が顔を覗かせる。どちらを採択するか考えて、草薙は玉虫色で居ることを選択した。
「考え方は分かったけど、活かすと答えるにゃあまず生還できるかが不安だな」
「なーに、そこは心配すんな。形代が残ってりゃ生き残れるさ!」
「なんだその条件!? マジで何する気なんだよあんた!」
悲鳴じみた声を上げる草薙の背中をバンバンと叩いて、荼毘は手元の栄養バーを一息に飲み込んでみせる。腰に下げた水筒の中身を一気に飲み干すと、にやりと草薙に笑ってみせた。
「飯食って元気出たならやることは一つだろ。祓魔だよ」
「セリフだけ聞けば祓魔師なんだよなあんた……」
実際の所は推定呪詛犯罪者である。しれっと五号級界異との戦闘に巻き込まれることが決定した草薙はため息を吐くが、それでも不思議と怯えてはいなかった。この男は、一見楽観的なアホにしか見えないが実力は確かだ。ならば、やり遂げてしまうのかもしれない────そんな不思議な安心感を抱いていたからだ。
五号級界異、
その正体は、境界渡りと呼ばれる非常に弱い界異が強く
「おーおー、立派に育っちゃってまあ」
「マジで供潰じゃんか……何でここまで育ってんだよ」
「元々ここはケチな呪詛犯罪者のアジトだったらしい。境対への嫌がらせだとか霊地への侵入用に境界渡りを飼ってたらしいんだが、他の呪詛犯罪者とのいざこざでな」
指を銃に見立てて頭に当てる荼毘のジェスチャーに大まかなことを察しつつ、草薙は呪詛を吐きたい気持ちでいっぱいだった。供潰というのはその実、戦闘力だけで言えば五号級の底も底、下手すれば強力な四号級にも負けてしまいそうな程度のものでしかない。では、なぜ供潰が五号級足りうるのかといえば、それは偏にその能力のせいだ。
「おっと、来るぞ、気をつけろよ!」
「分かってる……うおおっ!?」
供潰から伸びた暗黒の触手が真正面から二人へと伸ばされ、
「右っ!」
「おーけい、その調子で眼を頼むぞ!」
触手の先端に足裏を合わせた荼毘が呪詛の爆発を叩き込み、反動で供潰から距離を取る。首根っこを掴まれたままの草薙は締まる気道に情けない声を漏らしてようやく地面へと降ろされた。
「やっぱ厄介だよなあワープ能力!」
「瞬間移動の方がまだマシだもんな……!」
境界渡りは、結界を喰う。では、その進化系である供潰が何を喰うのかと言えば────“境界”だ。
現世と幽世の境界。ある地点とある地点の境界。物質と非物質の境界。供潰は物事と物事が入り混じらぬように仕切るナニカを喰らい、強引に繋げてしまう。その力にどこまでの限界があるのか、どのような応用が効くのかはいまだに未知の部分が多い。ただひとつ確かなのは供潰が居続ける限り禁域はその領土を広げ続け、いずれは地球全土を覆いつくしてしまうということだけだ。
「幸い、あいつは知能自体は高くない。オレが張り付いてりゃお前に攻撃は来ないと思うが油断して穴に落っこちんなよ」
「わかってるよ、それやらかして俺はここに来たんだから! 二度目はねえの!」
「そいつぁ重畳! んじゃ頼んだぞ!」
獰猛な笑みを浮かべた荼毘が、供潰へと突っ込んでいく。後ろから状況を俯瞰する草薙が出す警告に瞬間的に反応し、伸ばされる触手を次々と迎撃して急速に距離を詰めていく。これは事前の打ち合わせ通りの連携であったが、それだけに荼毘の命を握る重責が草薙の頬に冷たい汗を流した。
荼毘が俺をここまで信頼する理由がわからない。確かに荼毘を失えば俺は生還が不可能になるだろうが、それでもこれだけの実力を誇る犯罪者を葬れるならそうした手を取ることもあり得た。その問いを直接ぶつけて返ってきた答えは、「信じてみた方が面白いだろ」と来たものだ。ああまったく、気が狂っている!
「はっはぁ!! そらそら捕まえてみろよ!」
直撃すれば死ぬだろう触手の群れを爆発で捌き、拳で捌き、蹴りで捌き、捌いて捌いて捌いて進む荼毘の歩みは、しかし地を踏むことはなかった。唐突に開いた足元の穴。しかしそこから触手が出てくることはない。何故ならその穴の行き先は────
「────幽世だっ!!!」
生命なき世界。質量なき世界。未だに、そこから界異がやってくるということくらいしか分かってないような人類の未踏域。そこに直通する“落とし穴”はまさしく一撃必殺の切り札となりうる。
これには荼毘も冷や汗を流し、足元で起こした爆発の反動で飛び上がって……その全方位を囲むように、触手が現れる。
もはや漆黒の球体にしか見えなくなった荼毘への包囲に草薙の顔が青ざめる。あれは避けようがないし、耐えようがない。仮に刺突に耐えたとしても触手に巻きつかれればそのまま直接幽世に叩き込まれる末路が確定してしまうのだから。
諦観と絶望に草薙の顔が沈もうとした、その時。
「────ははは」
「はははははは!」
「ははははははっ!!」
連続し無数に重複して聞こえる爆発音と、それに紛れた哄笑が草薙の耳に届く。まさかと思い顔を上げると、爆発音が響く度に球体の内側で肉の潰れるような音が追随するのに気がついた。
「あいつ……あの中で爆発させてるのか! 自分で発生させた呪詛から逃れる空間もないのに!?」
正気の沙汰ではない。今まで見てきた荼毘の戦闘スタイルはきちんと爆発の規模や方向を制御したり、加護防壁で身を守って自傷を避けるものであったはずだ。だが、あの密閉空間に加え、相手は元々結界を喰う境界渡りの進化系。自分で起こした呪詛の爆発から身を守る方法などあるはずがない。
自殺行為というのも生ぬるい。自らの肉と霊体を薪に焚べるが如き所業に草薙は戦慄した。
「助かるぜぇ! 直接“穴”開けてくれちゃってよお!」
爆ぜる。触手の壁が薄くなったのか、先ほどよりも声が明瞭に聞こえる。
「この触手さえどうにかすりゃあよお! ちまちま距離詰めなくってもよお!」
爆ぜる。爆圧に耐えられずに吹き飛ばされ、供潰の懐で派手に触手が跳ね上がったのが見えた。
「“穴”通って懐に飛び込めるってことだよなぁーーーっ!!!」
その後を追うように、凄絶な笑みを浮かべた血まみれの鬼が中空へと現れる。ぼろの布切れと化した服はその凶体を隠すことなく頼りなさげに引っかかり、露わとなった筋肉ダルマの体表には夥しい数の呪言が入れ墨のように浮き出ていた。
苦し紛れに供潰が開けた幽世への穴を中空に展開した結界を足場としてかわし、とうとう悪鬼は供潰の中心にほど近い場所へと到達することに成功する。その背後で結界が喰われるが、もはや手遅れだ。
一瞬、荼毘の鋭い視線が草薙へと向く。悪寒を感じた草薙は加護防壁を展開しながら盾を構え、その上からさらに何重にも展開される結界に眼を見開いた。
視線の先で、荼毘が腕をクロスさせて何事かを唱える。それは簡素な呪言、素養さえあれば素人にさえ扱える程度の低い呪詛だ。その矛先は、荼毘自身。
呪詛を獰猛に喰らった荼毘の肉体が、爆発的な呪詛を生み────輝く闇が全ての音を掻き消した。
途切れていた意識が蘇るのと同時、草薙は懐に入れていた形代紙が二枚役目を果たして散ったのを知覚する。盾を構え、加護防壁を張り、さらに荼毘が幾つも重ねがけした上で、これだ。全くもって意味不明の火力というしかない。
呪詛の過剰供給でひび割れた盾に顔を引き攣らせ、辺りを見回すと、半径100m程の森が消し飛んで土が捲れ上がっている様子が目に映る。本当に、なんだこれは。
「よう、草薙。お前も生きてたか。良かったな!」
「いや良かったなじゃねえんだけど。なんでピンピンしてんの????」
破壊の光景を作り出した偉丈夫がその中心で豪快に笑う。ふと思い出したように黒ずんだ肉塊のようなものを吐き出して、それっきりまるでダメージなどなかったかのように元気いっぱいに振る舞う姿に草薙はぶっちゃけ引いていた。いや形代なかったら死んでたんだけど。もしかして形代が残ってれば生き残れるって言ってたのこれか?
こんなアホなことをするなら先に言えとか、覚悟する時間くらいはくれても良いだろとか、言いたいことは山ほどあったが、それを口にする前に辺りが濃霧に包まれ始めていることに気がつく。
「お、おい、なんだこれ。あんたの仕業か?」
「あーいや、これは……お迎えだな。霧に逆らわず進めよ、それで帰れる」
「いやいやいや、何なのか具体的に説明してくれないと怖いぞ!?」
「はっはっは。迷わず行けよ、行けばわかるさ! じゃあな草薙、縁があればまた会おう!」
何だか爽やかに笑っている禿げ頭に食ってかかろうとするが、その姿はみるみるうちに霧に呑み込まれて手が届かなくなってしまう。
気がつけば、そこには草薙が一人きり。荒らされた森の姿も蔓延る界異の気配もなく、霧はある一方向のみを避けて完全に辺りを覆い隠してしまっていた。
この道を行けと言うことだろうか。最初から最後まで振り回され続けたことに重い重いため息を吐いて、それでもなんだか憎めない奴だったなあ、と草薙はめをほそめた。