ヰ世界の歌 夜明け前のダークエルフ 王道硬派な大河ファンタジーの世界で一歩から始める人外愛譚 作:所羅門ヒトリモン
「虫が入り込んでおるなァ? のぅ、市長殿」
「……」
帝都グレムリン・エンパイア。
都市庁舎最上階、市長室。
青緑色の灯光に染まって、暗くて冷たい印象を覚える陰気な部屋。
壁一面に所狭しと並べられた上質な書物に囲まれて、革張りの椅子に腰掛けているのは一人の青年だった。
市長のデスクと、市長の椅子。
市長らしい立派なスーツに身を包んで、青年は深く眉間にシワを刻んでいる。
暗くて薄いヴァイオレット色のスーツ。
上着は羽織っているだけで、ボタンは留めていない。
ベストでハッキリした体の輪郭は、とても細かった。
衣服は上品で高級な仕立て。
だが、青年は身嗜みや自分自身に無頓着なのか。
天然パーマの黒髪は無造作に伸ばされたままで、唇もガサガサ乾燥していた。
肌の色もひどく青白くて、目元のクマは眼鏡をかけていても誤魔化しきれないほど濃い。
健康にも気を遣っていない。
……いや。それを指摘するのであれば、青年の外見はそもそもが異様だ。
まず瞳が赤く、白目の部分が黒い。
青白い肌も、本当に青みが強くて血が通っているようには思えない。
唇など、炭でも塗ったかのように黒い。
それ以外の身体的特徴は、どう見てもニンゲンとしか思えないのに。
青年は普通のニンゲンではなかった。
明らかに異常な変異を辿っていた。
名は、デスクの隅に置かれた卓上名札によると──
「のぅ、市長殿? 聞こえておるかのぅ? ヴィクター」
「……」
「ふぅむ。なぜ返事をしてくれんのだ? のぅ、蒸気文明の父よ。ドクター・ワポルマキナよ。工場長にして兵器開発局局長。妖精──」
「聞こえている」
「おおっ! ようやく返事をしてくれたのぅ、ヴィクター・C・グレムリン」
青年は帝都グレムリン・エンパイアの統治者であり、最厄地エル・セーレンの実質的『王』である異界の主だった。
ヴィクターに話しかけているのは、如何にも好々爺然とした声音の老人だ。
ただしこちらも、ただの老爺ではない。
身の丈が三メートル以上あり、非常にガッシリした体格をしている。
ヴィクターと比べると、まるで
エメラルド色のコートを着ていて、顎にはたっぷりと髭まで湛え、威厳は完全に老爺の方が優っている。
が、そんな特徴は大した話じゃない。
老爺の最たる特徴は、
ともすれば、神話世界生物である
ひび割れた浅黒の肌に囲まれて、顔の中心には溶けた鉄みたいな色の単眼があるのである。
その両側部には、婉曲した真っ黒なツノも生えていて、口があるべきところには髭しかない。
どこから喋っているのか?
単眼巨躯の老人の声は、コートに隠された腹のあたりから聞こえていた。
ヴィクターはその正体を知っている。
「
「おやおや。もしや、市長殿ともあろうお人が、気がついていない? この素晴らしきグレムリン・エンパイアは、隅から隅までヴィクター・C・グレムリンという男の把握下にあると思っておったがのぅ?」
「無論、すぐに分かる。だが貴様は、異界の化身。境界より現るるモノ。すなわち
「フッフッフ」
「客の探知速度は、貴様の方が上だ」
ゆえに話せ。
ヴィクターは速やかな情報の伝達を協力者に求めた。
単眼の魔物は、慇懃にお辞儀をする。「もちろん、仰せの通りに」
「虫は二匹じゃのぅ。
「正体は」
「それは分からんが、
「……」
ヴィクターは顔を顰めた。
もともと渋面ではあったが、カルメンタリス教の使徒が現れたと聞いて機嫌が良くなるはずはない。
エル・セーレンは女神に呪われ誕生したのだ。
ヴィクターらグレムリン・エンパイアの全ては、そのせいで
「僕のワポルマキナが、どうして聖具に負ける?」
「聞こえないかのぅ? 耳をすませ」
言われて、外に意識を集中させた。
──轟音。明滅。激しい熱の唸り。
「
「そういうワケじゃ。儂ら第八の徒ならざるとも、アレは容易に打ち砕くであろうなぁ?」
「……昨日の空の件との関係は」
「ふぅむ? まぁ、偶然ではあるまい。よもやエル・セーレンを、内側から壊し得るモノが訪れるとは。果たしてこれは、凶事の前触れかのぅ? それとも慶事の兆しなのかのぅ?」
クツクツクツ。
肩を揺らして笑うルーブルに、ヴィクターはギョロリと視線を向けた。
長年の計画に成功の目処が立ったのは、たしかについ最近だ。
それが目の前の好々爺を気取る化け物と、その悍ましき仲間たちのおかげであるコトも認めるしかない。
しかし、協力関係はあくまでも対等。
交わした契約にも、今さら変更は加えたりしない。
相手がたとえ、
「虫が入ったなら、分かっているな」
「おお……市長殿はせっかちじゃな。安心せぃ、ヴィクター。分かっておる。分かっておるとも。邪魔な虫は、叩いて潰さねばならんからのぅ」
「分かっているなら、他のヤツらを呼び戻せ」
「それは難しい……あやつら、儂の言うコトなど聞かず外へ行ってしまったからのぅ」
呼びかけてはみるが、素直に言われた通りにするかどうか。
魔物は嘯きながら、「とりあえず、差し当たっては儂らで対処するしかあるまいよ」と。
誠に業腹な、不愉快極まる猫撫で声でヴィクターの肩に手を置いた。
「焦っても仕方がない。慌てても仕方がない。大作を完成させようと言うのなら、必要な工程は一個ずつ丁寧にこなしていくものじゃ」
神に呪われた地、エル・セーレンと。
その内部にある最大の異界グレムリン・エンパイアは、ほとんど等号である。
帝都市長ヴィクター・C・グレムリンの目的は、もう四千年以上もずっと変わっていない。
それと、現世への帰還。
叶えるにはルーブルら大魔の協力が不可欠で、ルーブルらもまたヴィクターの協力を必要としている。
ヴィクターの目的を叶える手助けをすれば、魔物たちはエル・セーレンに来た目的。
探し物の在り処を見つけるコトが出来て。
同時にそれは、
……昨日、遠方の空で謎の現象を確認し、当初の計画に頼らなくても脱出が叶う可能性が急速浮上して来ているが。
(想定外の事象を、既存の計画に組み込んだりはしない)
イレギュラーへの対応を始めれば、調査、研究、仮説、検証、たくさんの時間を取られる。
四千年間の幽閉にありて、あんな事象は一度たりとて無かった。
ならば、すでに動き出している最適化済みの計画を止めたりはしない。
ルーブルにとっても、あの
人ならざる化け物。
破綻した精神の闇。
大いなる魔物といえども、対話を持ちかけ交渉の真似事が出来たのなら、論理的な判断は下せるはず。
ゆえに、
「貴様に言われるまでもない。──僕は必ず、女神を超えてみせる」
「──素晴らしい。なんと頼もしい青年じゃ。闇の公子もさぞやお喜びになられるであろうのぅ」
ニタリ。
ひとつしかない目だけで、魔物は器用に笑っていた。
ヴィクターはそれに、内心で大きく警戒を強める。
協力関係は薄氷の上の成立だった。
互いの目的が成就した瞬間、コイツらは確実に本性を晒すだろう。
それをお互いが、黙したままに確信しながら人魔はしばし肩を並べる。
すべては、黒詩の魔女が鍵だった。
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tips:ヴィクター・C・グレムリン
帝都市長。
グレムリン・エンパイアの統治者であり、エル・セーレン最大の異界の主。
ワポルマキナの製造者でもあるようだ。
カルメンタリス教の女神に呪われた地で、恐らくたったひとりだけの理性を宿したヒト。
その目的は『完璧な被造物の作成』と『現世への帰還』らしく、メランたちに先んじてエル・セーレンにやって来ていた怪しい大魔数体と、協力関係を結んでいる。