ヰ世界の歌 夜明け前のダークエルフ 王道硬派な大河ファンタジーの世界で一歩から始める人外愛譚   作:所羅門ヒトリモン

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#263「眠りの女神」

 

 

 ──そして、声が聞こえる。

 

 起きて? 起きて? ねえ、起きて?

 

 (くら)き安楽の底。

 深き泥濘の眠りの園。

 優しい微睡みの底なし沼で、ただ気持ちよく自由落下を味わいながら揺蕩っていた俺の耳に、声をかけ続ける何者かがいる。

 

 起きて? 起きて? 困ったわ……どうしたらいいの?

 

 声は困っていた。

 困った女の声だった。

 俺は起きていない。

 目を覚ましていない。

 それなのに、何故か声が聞こえて。

 まるで夢現(ゆめうつつ)に、誰かに耳元で囁かれているような不思議な感覚。

 

 だがどうでもよかった。

 

 女の声はまるで、母親の胎の中を思い出させるような優しさに満ちているから。

 こんな声を聞かされては、ますます目蓋は重くなってしまう。

 脱力していた身体から、さらに力が抜けて安寧に身を預けるしかなくなってしまう。

 

 ああ……どうしましょう? 私のせいで、余計に逆効果に……

 

 問題はないんだよ。

 だってここでは、それが当然でひどく普通の幸せなのだ。

 

 誰も頑張る必要はない。

 誰もあくせく働く必要はない。

 

 もう充分に頑張った。

 もう充分に働いた。

 

 疲れた身体をゆっくり休めて、気持ちのいい眠りに心は穏やかな凪の静寂。

 

 ああ、最高じゃないか?

 

 上質な羽毛のベッドで、最高級の毛布に身を(くる)めて。

 側には暖かな暖炉と、居心地のいい温もりを共有する女。

 柔らかで満ち足りていて、こんなにも心安らぐ場所があったなら、もっと早くにやって来るんだった。

 そのくらい、この泥濘みを堪能していたいダラァ……とした気持ちで一杯。

 

 だめ。だめ。お願い、起きて?

 

 ええ……?

 女の声はおっとりと間延びしていて、とんでもなく眠気を誘引する。

 なのに、言っているコトはとても残酷だ。

 そんなに困っているのだろうか?

 

 俺は数瞬、なんだよもう……と目を擦りかけたけど。

 

 目を擦ろうとする気持ちもやっぱり途中で無くなって、ジッと静かに〝何もしない〟をするコトにした。

 

 というか、さっきまでは本当に〝何も無かった〟のだ。

 

 俺は『無』だった。

 何も感じず、何も考えず、何も思わず、何もせず。

 そういう真っ暗闇に溶け込んでいたはずで、だからもう一度、さっきと同じ『無』になりたい。

 もう眠いんだ。頼むから寝かせてくれ。

 

 いいえ。いいえ。私も本来なら貴方を抱き締めて、胸のなかでむにゃむにゃ赤ちゃんのように眠らせてあげたいところです……でも、それでは困ってしまうのです。

 

 どうしてだよ……?

 俺はこんなに眠いのに、どうして眠らせてくれないんだ……?

 

 貴方が眠いのは、私の世界に落ちてきてしまったから。本当はまだ役目が残されていますよ。だから頑張って目蓋を開けて? 目を覚まして、大切な物を取り戻して?

 

 うーん……。

 うーん……。

 うーん……。

 

 いやだ……。

 

 ええ?!

 

 だって、めんどくさい。

 起きたら火熾しとか、いろいろ大変なんだ。

 寒いしお腹は空くし、外はおっかないのがウロウロしてる……

 

 ──そうですね。そうですね。大変なのは分かっています。それでも、起きて?

 

 ……いやいや。あれ、おかしいな……

 そんな急に、可愛くお願いされても……

 普段の俺なら、ちょっとは心揺さぶられたかもしれないけどさ……さすがにね?

 せめて理由も教えてくれないと……

 

 理由なんて、この私が可愛くお願いしている……それだけで充分でしょう……?

 

 あ、いかん。

 意識が急に一気に薄れてきた……寝ているのに意識なんて不思議な話だけど。

 

 そんな!? ……誤算です。でも、そうですね。目を瞑っているから、貴方は私の姿が見れないのでした……困りました……困りました……ではこういうのはどうです? 起きてくださったら、後でたっぷりご褒美も差し上げますよ?

 

 ……ご褒美?

 

 なんだかますます、相手をするのが面倒になってきたな……胡散臭すぎるよ。

 

 胡散臭!?

 

 見知らぬ女の人に声をかけられて、ホイホイついて行ったらお高い壺を買わされる。

 これ前世からの常識なので、俺はそういうのには引っかからないよう警戒心のある男なのです。

 というワケで、おやすみなさい見知らぬお姉さん。お帰りはあちらです。

 

 うぅ……うぅ……

 

 ……?

 

 女は急に呻き出した。

 何だろう?

 さては泣き落としだろうか?

 何処の誰だかは存じ上げないけれど、だとしたらなかなか男の弱みを把握している……

 耳元で囁かれている気分なせいもあって、俺は小さな罪悪感に眉を顰めかけた。

 

 顰めかける途中で、やっぱり何もしなかったんだけれども。

 

 罪悪感もすぐに、どこかへ消えてしまったんだけれども。

 女はそんな俺に、とうとうメソメソ泣き出す。

 

 貴方しかいないのです……貴方しかいないのです……

 

 いやぁ、そんなコトを言われても。

 何がどうして俺しかいないのか、その理由をさっきから一向に聞かされていませんが。

 この場所に落ちてから、俺は自分ではどうするコトもできない。

 でも、それでいい気もしている。

 だって、ここにあるのは〝許し〟だけだ。

 

 もう何もしなくていい。

 

 すべてのしがらみから解放されて、俺は自由な眠りを満喫している……

 

 ──でも、それは本当に安らかな眠りなのですか?

 

 え?

 

 ──為すべき誓いを果たさず、志も忘れ、ただ無闇に現実から逃避するだけの泥濘など、それは安楽ではなく怠惰なだけ。

 

 まだ残っている。

 やるべきコトが残っている。

 それは、たしかに言われてみればその通りで……起きなきゃな、とは少しだけ思えた。

 

 だがすぐに何も思わなくなる。

 

 消されて、殺されて、どうせこれは夢なんだからマトモに耳を貸す必要はないと、怠惰な眠気がちょっとだけ浮かび上がりかけた情動の足に再びしがみついて、奥底へ沈めていく。

 女は不意に謝った。

 

 ごめんなさい。私は私の法則を、自分でも破れません……

 

 なるほど。誰だろう? とずっと夢見心地に不思議だったが、お姉さんは地底下界そのものなのか。

 正史の眠りの女神、名はたしか……

 

 ──ユミナ。私の名はユミナです。黎明の国の王、その斬撃の畏るべき後継者様……

 

 斬撃王ヨキも知っているのか。

 あれ? と、俺はそこで違和感を覚えた。

 

 そういえば森羅斬伐の感触が、何処にも無いような……夢の世界だからか?

 

 いいえ。違いますよ? ここはたしかに夢の世界ですが、夢と死の狭間にどれだけの境界があるでしょう……

 

 地底下界において夢は、死と区別されない。

 なぜならここは、安楽の底無し穴。

 地上で役目を終えたモノを、安らかに迎える終着の(とこ)

 女神の声は(しとね)のように、泥濘のごとき抱擁を以って魂を癒す。

 だけどそれは、役目を終えていない者には与えられない報酬だった。

 

 起きて目を覚まして、大切な物を取り戻してと言いましたね?

 

 まさか……

 

 落っこちている間に、俺は森羅斬伐を何処かに失くしてしまったのか?

 遺失物と廃棄物の集まる地底下界の切れ端(カットエンド・ボトム)

 女神の前で胡乱な思考は避けたいけれど、ゴミ塚の何処かに〈遺風残香(レリック)〉を?

 

 ──ダメだ。

 

 俺はあの斧を、死んだって手放したりしない。取り戻さないと……

 

 ──よかった。私も一緒に、探してあげます。

 

 目蓋はまだ開けられない。

 だけど、夢の世界でなら目を閉じていても問題無かった。

 フワフワとボヤけながら移ろう夢幻(ビジョン)に向けて、俺は(いざな)われる。

 

 眠りの女神ユミナの声に、誘われる。

 

 

 

 

────────────

tips:眠りの女神

 

 ユミナ。

 〈正史黎明神代〉において、地底下界が神格化された存在。

 地上で役目を終えたモノに、安楽の眠りを授ける慈しみの女神と伝わる。

 「泥のように眠った」と言った時、その者はユミナに抱かれたとも。

 遠い昔、多くの神々と地上を退去したはずの神性だが、世界から排斥された異界エル・セーレンでは、何らかの理由で切れ端のカタチで残っていたようだ。

 分身、分け御霊のようなものと思っていい。

 

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