私は砂浜に立っていた。
砂は輝くように白く、打ち寄せる波は冷たく透き通っている。時折運ばれてくる小さな貝殻たちはどれも色とりどりで美しい。
上を見上げると、夜明けの近い翠の空に点々と星が薄らいでいく所だった。手を伸ばし線で繋げば、辛うじて古い英雄の影が浮かび上がる。今にも失われそうな淡さの光が、何か胸の奥を妙にざわつかせてくる。
「おーい」
不意にどこからか人間の声がした。
振り返ると、そこには「誰か」がいた。顔は不自然にぼやけていてよく分からないが、その声を聞いていると何故か首筋に形容しがたい感覚が登る。
それは大きく腕を振りながらのんびりとこちらに接近してくる。確実に私に向かって声を掛けている──とても、聞き覚えのある声なのだ。それなのにその記憶は霧に形を見出すように思い出せない。
私が何も思い出せずに狼狽えていると、それは砂浜を1歩ずつ確かめるように踏みしめながら間もなく目の前1mの距離にやって来た。こんなに近付いたのに、やはり顔はぼやけている。輪郭すらも掴み難い。
「何してんの、こんな所で」
それは軽い調子で言い、屈託なく
どう答えるべきか考えあぐねていると、それは怪訝な
「また考え事か? や、確かにそれが俺らの仕事ではあるけど……俺が言いたいのは何でまたこんな所でってことで」
あまりにも「いつも通り」といった様子で
すまないが、君の事は知らない。誰なのか分からないんだ。
私がそう言うと彼はあからさまに悲しそうに「えっ」と声を漏らした。
「冗談だろ? 俺たち親友じゃないか」
彼はしょんぼりと肩を落とす。仕草はわざとらしいが落胆は本物のようで、その曖昧な輪郭ですらはっきりと分かるほどに落ち着きを欠いた様子だった。
彼の顔に掛かった濃いもやを払うことができるのならば、この私を友と呼ぶ
──が、既の所で躊躇った。私の中の人道が、彼が本当に私にとっての「親友」であるのなら、今の私が果たさんとする偉業を知ってさぞかし落胆するのではないのかと囁いたのだ。
名も知らない友は突然手を宙に伸ばした私を見て不思議そうに首を傾げた。
「Αρχιμήδης 、
彼は困惑しつつ、空を彷徨う私の手を握る。それは温かく、炭の跡で少し汚れており、若々しい硬さを持っていた。
頭の奥がじりじりと焼ける。喉が締め付けられるようになって、息が苦しい。飲み込んだ唾液が熱すぎる。封じられた本能に重く根深く隠された楔が思い起こされる。
彼は私にとっての──無二の存在だ。私を構成する大きすぎる要素であり、私を"Αρχιμήδης"足らしめるマテリアル。誰にも見せることのない秘密。
それに気付いていながらも彼の輪郭はまだぼやけたままだ。彼がどういう存在なのかは解っているのに、その名も生い立ちも出会いの切っ掛けも思い出せない。
「……どうやら嘘じゃないっぽいな。うーん、どうしたもんか」
記憶にない友人は私の手を離し、腕を組んで考え込んだ。
人道が耳打ちを始める。この親切な隣人を失うことは、残された己の道徳を裏切る事に他ならないと。普段ならそれがどうしたと吐き捨てられるそれが私の情緒を無性に乱す。
君の名前すらも分からない私を許してほしい。だが、友であるというのは事実のようだ。ただの袖擦り合う関係とは思えない。
私に言われて友はうんうんと首を縦に振った。
「そう、その通りだとも我が友よ! それは覚えててくれたみたいで何よりだ。泣いちゃうかと思ったぞ」
顔もないのににこやかな彼は今度はようやく嬉しそうな
友はあれこれとふたりの思い出を語って聞かせた。初めて出会った場所、その時に話した趣味のあれこれ、輝かしき███での生活、共通の友人……贈り物の箱を開くように、輝ける記憶が乾燥した心に次々と蘇る。その中でただ友人を名乗る男の事だけは綺麗に抜け落ちていた。
「なあ……」
消え入りそうな囁きが私に呼び掛ける。
その指が砂粒を纏う貝殻をつまみ上げてこちらに手渡していた。
「まだ思い出せないか?」
宝石のように見えていたそれは目の前にあっては灰のようにくすみ、見るからに朽ちかけている。炭酸カルシウムは私の手の上でぱらぱらと粉になり、直ちに海風に吹き散らされた。
何故かひどく足元の宝石たちが気になり急いてそれらをいくつか拾うも、どれも等しく崩れ去ってしまう。あんなにも魅力的だった輝きはどこにもない。
すぐ側に来ていた筈の夜明けが高速で逆行する。昇りかけた陽は消え、闇は急速に深まる。沈黙する双方の間を潮騒が抜ける。
友はぼやけた顔で微笑んだ。
「我が永遠の友、その名も輝かしき我らの叡智。本当に分からないのか……?」
私には何も解らないままだ。
「俺の名前は███──
次の瞬間、私の頭に稚拙な槍が突き刺さり、脳漿が辺りに飛び散った。