「歪み……それってわたしのことなんだよね?」
彼女は落ち着いている。
戦場の唸りは絶えず、炎の弾ける音、レガリアと管理システムの警告の合唱、鉄と木の砕けるノイズは鳴り続けているのに、聴覚が死んだかのように一瞬何も聞こえなくなった。
「ずっとおかしいと思ってたんだ、分裂した岸波白野の
新王にはSE.RA.PHのあらゆる情報を閲覧する権利がある。自己の孕む矛盾に疑問を抱き、それを解明しようという気が起きてもおかしなことはない。
知られて困ることでは……ない。私自身の事という最大の嘘と、彼女の真の成り立ちは関係がない。
「わたしは聖杯戦争を勝ち抜いた岸波白野、それは間違いないって自覚してる。だけどずっと他人事みたいな感覚だった」
「……それは、分裂に伴う記憶の齟齬かと……思っていました……が」
だが。
疑問ではあった。「4人目」は確かに廃棄されたデータを強引に呼び出すバグの温床ではあるが、岸波白野自体はNPCとほぼ変わらない。行動力こそ厄介だが、取れる行動自体は所詮システムの範疇だ。
人類の敵たるアルキメデスを討つ、それを無意識下──手動制御をしないオート行動──で行えるだけの機転が
ここに至り、私は考察を改める必要に行き着いた。「
時折感じたパーソナルデータ上の岸波白野との言動・性格・思考・行動の微細な差は、彼女の「4人目」としての個性でしかないのだろうか?
「……もしかして」
逆だ。
我らが新王はムーンセルによる
彼女は
SE.RA.PHの岸波白野は「人間」とは別人だ。ただ外見の元になったというだけで、彼女の記憶も経験も聖杯戦争以降のものしか存在していない。
同様に、人間の岸波白野には当然ながら聖杯戦争の記憶はない。そもそもムーンセルの存在、魔術の存在すらも知らないのかもしれない。なにせ彼女は今も地上のどこかで冷凍睡眠している筈なのだ。
では、そんな人間がどうやってSE.RA.PHに来た? なぜこれまでの周回には存在しなかった? なぜマスターの記憶の上辺を持っている? なぜレガリアを持つことができる? なぜこれまでの何度ものパラメータチェックの中でそれに気付けなかった?
──不確定事項は数え切れない程に多いが、確かな点はある。
ムーンセルが人間の岸波白野を召致する可能性は皆無ではない。観測されない月の裏、無かったことになったイベント、私が遊星に出会えなかった世界……その結末のどこかに
仮に「人間の方」が目覚めたとしても、そっくりな他人である「SE.RA.PHの方」には何の関係もない。勿論SE.RA.PHの歴史にも無関係だ。「人間の方」が数多の試練を乗り越え第2の人生に目覚めても、SE.RA.PHは変わらず日常を進行し続ける。
そして──地上が具体的にどうなっているのか私は把握していないが──新SE.RA.PHの様相を見るに、地上の一般人がムーンセルの存在を知るのは既に不思議な事では無くなりつつあるのだろう。岸波白野はやがて電脳世界の存在に気付き、本当の意味でSE.RA.PHの
つまり……私が
彼女は運悪く混乱の渦中たる時代にこの地に立ち、偶然にも自分に極めてよく似た他人が非常に
聖杯戦争のことなんて知る由もなかった筈の「4人目」は、聖杯戦争勝者のラベルの付与に伴い、ムーンセルに保管されている無数の岸波白野のデータをバックアップとして記憶に混ぜ込まれた。「SE.RA.PHの方」の記憶は量もあって非常に濃く、電脳化で混乱していた「人間の方」の記憶の出力優先度は下がってしまう。
結果として出来上がったものが、「SE.RA.PHの岸波白野の記憶を植え付けられた、地上に人間の肉体を持つ岸波白野」だ。基本的には聖杯戦争勝者として振る舞うが、本当はその理由を理解していない。
これは現状考えられる中では彼女の成り立つ過程に最も都合のいい解釈だが、可能性が100%無いとは言い切れない。概ね疑問への説明はつく。
だが可能性は限りなく0に近い。人間の岸波白野が目覚める? それがSE.RA.PHに辿り着く? ユーザー登録に失敗して
「そんな馬鹿げた偶然が……」
あってたまるか。
こんな展開が許されていいものか。私が正解を手に入れるかもしれない
都市に煙が充満しつつある。いつかのような焦げた臭いが軍人たちの意識を鈍らせる。
「わたしがすべての原因なら、わたしが責任を取らないと」
岸波白野は自らが「歪み」であると確信してそう言った。
彼女はどこまで知っている? 私では考察止まりの真実を既に掴んだのか? 彼女にとっても不確定な仮説なのか?
だが……真相が何れであっても、確率の間隙のそのまた間隙のようなそれが理性と秩序の電脳世界において歪みでなければ何なのか。致命的な矛盾の正体とは、この巨大な歪みの原点に最も近い数字ではないか。
彼女が今を生きる人類でありながら世界を裏切るものを許さない王であるのなら、何も知らずに私と無価値な指輪を交わすことが如何に大きな矛盾であるのか。
「岸波白野……」
幾度となく呼んだその
火の手はこの櫓にまで手を伸ばさんとしている。20cmの落差を直線で繋ぐ「4人目」の目は、私の善性を信じて手を離さない。
理解の及ばざるあれこれの前に、ただマスターだけは逆説的にその存在を強固なものとしている。私を殺す刃を皮膚のすぐ下に秘めながら、そう長くはない人生経験を総動員して私に賭け続けてきた。
結論から言えば彼女の賭けは始まる前から失敗なのだが、理不尽に生命を脅かされて本当の青い春を永久に損じたその本能が生を憂いての選択なら、或いは正しい判断と言えなくもない。
脳を不快な軋みが揺らした。それは理外のトラブルの連続に無意識に歯を擦り合わせた時に出た音だった。
変更はない。作戦は継続される。
彼女の出自は理解し難く私を大いに失望させるが、それはこの際関係ない。彼女は未だ便利な道具であり、心臓の位置を教えた契約者である。
私の大部分はまだそう思っている。私の中のとうに壊死した部分だけが、まだ未練がましく指を噛んでいる。
「あなたが何者であろうと、私はSE.RA.PHの……そして私自身の為に行動します」
半ば自分に言い聞かせるようだった。
意識の奥から誰かが私に呼び掛ける──ただ役目を果たせと。それは私が唯一掛けてほしい言葉であり、合わせ鏡の中で反射し続ける自分の声でもある。
自己矛盾は己が
「あなただけに責任があるのではありません……」
「でも、切っ掛けはわたしなのに!」
「いいえ」
その視線に高さを合わせてよくよく観察すると、彼女の瞳には今でもまだ少し違和感の拭えない風貌の男が写っていた。自分の姿形なんて手足があれば何でも良かったから、覚えていない。これが何時の私であるのかは今でもぴんときていない。
男はマスターの瞳の中から、責めるような声色で私に向かって囁いた。
「切っ掛けであることが最大の罪になるなら、人類は原初からすべて罪人となりましょう」
私は、そう思っている。
全人類の中でこう考える者が私しかいないとは思えないし、そう考えながらも言葉にしなかった者は私を含めて大勢いることだろう。言ったところで同意が得られる主張でもないし、そればかりか異端と見做されかねない。
霊長が
「そんな事」聖杯戦争勝者は手を弛めた。「ないよ」
「ええ。新王ならばそう仰ると思っていました」
寄る辺を離れた小さな手は1組に寄り集まり、虫の止まるような音量でカチと鳴った。なんの力も持たない玩具の指輪も背景の炎の舌に照らされて光を放っているのが見える。
「それに、あなたが「4人目」であることが切っ掛けであるなら、それを生んだ原因である我らの敵こそが諸悪の根源でしょう?」
更にその
じりじりと熱が迫る。マスターは棒立ちでいることに耐えられずにプログラムコードの波に手を突っ込もうかと逡巡していたが、思い悩む時間もここまでだ。
「新王、ここはもう危険です。離脱しましょう」
「え? あっ熱い! 気のせいじゃなかった!」
「気付いていなかったと……?」
すぐ隣の建物まで火の手が上がっていた。ことSE.RA.PHではリソースさえあればすぐにでも炭を生木に戻すことも可能だが、それにしたってよく燃えている。領域に常に舞う花弁に火が燃え移り、そこから伝播しているのだろう。
マスターはまた手摺に向かって小走り、また身を乗り出して精一杯遠くの様子を探ろうとしている。
「どうしますか」
そう言ってもらえる機会を多少は望んでいたであろう彼女は肩越しに振り向いて強気な笑みを浮かべた。
「アルキメデス、飛べる?」
「始めからそのつもりです。新王の準備ができているなら今すぐにでも」
「ありがとう! あっち……の方ならまだ敵も少ないし、すぐに狙われたりはしないと思うよ」
小さなマスターはひと目見れば分かることを嬉々としてサーヴァントに報告した。彼女が考察の通りに生身の肉体を持っているならさぞかし多くの人間に救われて今に至ったのだろう。このお人好しぶりがそれに由来するとすれば……同情の余地も無くはない。
遠くで炭と化した木材が崩れ落ちる。まだ雲の流れがやや不安定だ。
灰の交じる風の中でマスターは不安を押し殺して振り返り、
再度、物見櫓の手摺に跳び乗り、脚でふたり分の質量を空中に跳ね上げる。重さのある飛翔は久しく、サーヴァントとして初めて「空を飛んだ」時のことが脳裏にちらと蘇り、すぐに消えた。
愉快な旅とは言い難かった。視界はどうにも煙っていたし、煤が何度も目に入った。皮膚に残り続けるむず痒さに反射で鼻が鳴るたびにマスターは私の顔色を伺ってくる。
何よりも、油断すると脳内物質が私の四肢を震えさせようとしてくるのが嫌だった。本能の勘違いがさせることの原因が、私が恐れをなしているからだとは思われたくない。
だが最中、マスターの信頼が揺らぐことは無かった。確かに私が今手を放せばそれは彼女の死と同義であるが、その上でその
今回の世界で「完璧な技術補佐」を演じるには私のミスは多すぎた。原因がどんなに理不尽で突発的なものであっても、表面上は管理者の怠慢にしか映らない。
いつからか、私は自然と「サーヴァント」の枠に収まろうとしていたらしい。気付くべきではない事実かもしれないが、それは既に発見された。
この世界の顛末に至った時、私は失敗を悔いる事ができるのだろうか。その失敗の隣には彼女が連れ立ってくれるのだろうか。